擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

研究者にとっての運、または偶然の出会いについて

 佐々木倫子さんのマンガ『動物のお医者さん』には、菱沼さんという女性が登場する。

 手元にないので記憶に頼って書くが、彼女は実用的な細菌を発見するのに長けており、発見が商品化されたこともあるのだという。そのために彼女をライバル視する大学院生もいるほどだ。だが、作中の説明によると発見した細菌が実用的かどうかは多分に運の問題なのだという。もちろん、運を発見に変えるためには、研究者としての実力が必要なのだとは思うけれども。

 それに対して、人文社会科学はどうだろうか。史学系だと重要な史料を発見できるかどうかで運に関係しそうな部分もありそうだが、運があるかないかということはそれほど話題にならない気がする。運に関係なく、優れた研究者は優れていて、駄目な研究者はやっぱり駄目という感じではないだろうか。

 実際、運ということに関して次のようなブログのエントリがある。

『朝日新聞』天声人語は、なんて偏差値が低いのか

 このブログによると、どの本を読むかという部分で運に頼る研究者は失格である。優れた研究者であればそんなものに頼っている暇はない。人生は短く、読むべき本は無数にある。したがって、本屋での偶然の出会いなどに期待するなど愚かなことだ…ということになるのだろう。

 しかし、ぼくのようなペーペーが碩学高坂正堯に反論するというのは大変に気が引けるのだが、人文社会科学ではあっても運に左右される部分はあり、書物との偶然の出会いというのは結構大切ではないかと思う。

 確かに人生は短く、読まねばならない本はたくさんある。だが、読むべき本というのはそもそもどうやって探すのだろうか。一つはこれまでに読んだ本の参考文献から探すというやり方。一つは新刊を扱う書店で自分の専門の本棚の前に立つというやり方。そして、もう一つはコンピュータを使ってキーワード検索をかけるというやり方になるかと思う。

 だが、そうした探し方のみに依存すると、どうしても読む本の傾向が偏る。もちろん特定のテーマで研究する以上、偏ることは避けられないのだが、そればかりを続けると本を読めば読むほどに一冊の本から得られるものが少なくなっていく。重複する部分が多くなるからだ。似たようなテーマの本ばかりを読んでいると、どの本に何が書いてあったのかも記憶のなかで曖昧になってしまう(これはぼくの記憶力に問題があるからかもしれない)。

 そこで、どうしても運に頼る部分がでてくる。ぼくの乏しい経験から言っても、たまたま趣味で読んでいた本のなかに新しい発見があったり、古本屋で偶然に見つけた本に素晴らしいヒントがあったりすることは少なくない。

 もちろん効率は悪い。すごく悪い。運頼みであることも否定できない。「だからお前は研究者としての芽が出ないのだ」と言われるとグウの音も出ない。しかし、どれだけ罵られようとも、なんとなくこの部分は譲りたくない気がする。その理由はよく分からないのだけれども。