擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「話せばわかる」という欺瞞

 ぼくが電話回線を使ってネットに初めて接続したのは、いまからもう20年近く前の話だ。日本でインターネットの商業利用が開始されてからまだ数年しか経っておらず、当時のぼくにとってネットはそれほど面白いものではなかった。

 むしろ、ネットに接続するついでに加入したパソコン通信のほうがずっと楽しかった。若い人だと知らない人も多いかもしれない。ぼくが参加していたのはASAHIネットだったが、そこでは様々なフォーラムが用意されていて、関心のあるフォーラムに入れば見知らぬ人と特定のテーマで意見を交換することができた。画像のやり取りはできないので、完全に文字だけのコミュニケーションだ。

 実にこっ恥ずかしいことをぼくもいろいろと書き込んだりしていたのだが、そこではどうしても参加者間の衝突が起きた。ASAHIネットでは実名でのやり取りが前提だったが、それでもかなり激しいやり取りが行われることがあった。最大規模を誇ったパソコン通信ネットワークであるニフティサーブ現代思想フォーラムで、ユーザー間のいざこざが訴訟にまで発展したのは有名な話だ。

 ぼくが見た限り、フォーラムで起きた対立が無事に収束することは稀だったように思う。なぜここまで対立が激しくなってしまうのか、会ったこともないはずの相手を激しく罵倒できるのは何故か。参加者の一人として当時のぼくはわりと真剣に悩んだりしていた。おそらく、パソコン通信をすることでぼくが得た最大の教訓は「話せばわかる」というのは事実ではない、ということだ。コミュニケーションの研究者としてはいかがなものかと思うのだが、ハーバーマス的な公共圏論にあまり興味が持てないのはそこに理由があるのかもしれない。

 ではなぜ、お互いに傷ついてまで議論を続けるのか。その参加者の一人が言っていたことが強く印象に残っている。対立が発生した時点で、相手を説得することはほぼ不可能であり、それを期待するほうが間違っている。議論の本当の目的は、相手を論破し、説得することにあるのではなく、議論を見守っているギャラリーに自分の考えを伝えるということにある、というのだ。

 確かに、喧嘩と炎上はネットの華であり、誰それと誰それが喧嘩したと聞けば、そのやり取りまとめたTogetterを見に行き、なぜ揉めているのかをウォッチするのを楽しみにしている諸氏は多いのではないかと思う。はてなブックマークのコメントはどちらか、または双方を批判する文章で埋まる。思わずブログに関連エントリを書いてしまう人も出てくる。ギャラリーが飛躍的に増えるということは、それだけ自分の言いたいことを多くの人に伝えるチャンスでもある。そう考えれば、たとえ相手を説得できる可能性がほぼ皆無であっても議論を戦わせることに意味はある。

 けれども、実はそこにも問題はある。ギャラリーに見せることを目的として議論を戦わせる場合、議論の相手は「手段」でしかない。自分の主張をより多くの人に知らしめるための叩き台というわけだ。説得することが目的であるかのような体裁は取りつつも、実際には自分と対立する相手がどれだけ愚かで誤っているかをギャラリーに見せつけることが議論の真の目的になる。

 その結果、叩き台にされた側は、激しく批判されることで、余裕を失い、以前よりもかえって意固地になる。ユーモアを失い、特定のテーマに固執するようになる。ギャラリーには満足を与えたかもしれないが、結果として議論の相手を「壊して」しまうことになりかねない。

 「話せばわかる」ということが欺瞞であり、相手を壊すような議論を続けるための口実でしかなくなっているのなら、学ぶべき教訓は話し合ったところで理解できない相手との共存を図るすべを探したほうがよいということだ。ぼくがパソコン通信から得た結論はそれであって、それから20年近く経った今もその考えは大きく変わっていない。