擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

分析概念の暴力

 ぼくが嫌いな言葉の一つに「御用学者」がある。

 言うまでもなく、震災後に急速に使われるようになった言葉だ。その意味は、電力会社から研究費を受け取っているがゆえに原発の安全性ばかりを言い立てる研究者ということになるだろう。

 もっとも、実際の用途では、その研究者が本当に電力会社から研究費を受け取っていたかどうかはさほど問題にならなかった。原発の話題がまだネットを騒がしていたころには、とにかく電力会社や原発に好意的だと見なされるような発言をしていれば「御用学者」だとカテゴライズされてしまっていたように思う。カネを受け取っていないのに、体制に好意的な人を指す言葉として「エア御用」なんてのもあったわけだが。

 この手のカテゴライズが問題なのは、たとえ本人がどれだけ悩み、考えた上での行動や発言であったとしても、それが全て御用学者というカテゴリーに還元されてしまうからだ。発言者としての主体性は完全に否定され、のっぺりとした御用学者なるものがその口を借りて話しているのだと解釈されてしまう。

 ぼく自身は御用学者だと言われたことはないけれども(そもそもぼくには御用学者と呼ばれるほどの社会的影響力がない)、やはり研究者の端くれとしてはそういう風潮を見るにつけ嫌な気持ちになっていたことを思い出す。

 だが、見方を変えれば、人文・社会系の研究者ほどにこういうカテゴライズを無遠慮に行う人種は存在しないとも言える。研究者が用いるカテゴリーや分析概念は抽象的であるためにわかりづらいものの、具体的な他者に向けられた瞬間にそれが隠し持つ権力性、暴力性を露わにする。

 たとえば、ぼくの専門領域で言うと、このブログでも取り上げたことのあるマスメディアの「第三者効果」という概念がある。これは、多くの人はマスメディアが自分自身に与える影響よりも他人(第三者)に与える影響を大きく見積もるという現象を指す。

 なぜそういう現象が起きるかと言えば、それが自尊心をくすぐる部分を持っているからだ。たとえば、ネットでよく見る「マスゴミに騙される日本人」という表現は典型的な第三者効果の発露だと言える。それを使う人自身はマスメディアに騙されない優れた知性を持っているが、自分以外の大多数の日本人はそうした知性を持ち合わせていないということを暗に示している(1)。

 確かにこういう現象は存在するだろうし、研究の必要性もある。だが、この概念を直接に誰かにぶつけることをぼくは勧めない。たとえば友人が「いつになったら、みんなマスゴミを疑うようになるんだろうな」と発言した場合に、その友人に向かって「それは第三者効果だ。お前はそう言うことでお前自身の知性の優越性を主張しているんだよ」などと言い返したら、かなりの確率で気まずくなるだろうし、喧嘩になる可能性もなしとは言えない。

 こういったコミュニケーションがなぜよろしくないかと言えば、第三者効果という概念を使うことで、自らをその友人を分析する立場に置いてしまっているからだ。分析する側/される側というのは、言うまでもなく権力関係であり、言わば上から目線でその友人の心理を論じてしまっている。友人の側からしてみれば、自身の発言の主体性は否定され、なんだかよく分からない第三者効果なるものに語らされてしまっていることになる。多くの人は、医者かカウンセラーが相手でもない限り、妙なカテゴリーや概念によって他者から分析されることを好まない。

 だが、SNSが普及してこれまでは接点のなかった人びととの接触が増えると同時に、キャッチーなカテゴリーや分析概念が人口に膾炙したこともあって、誰かを相手に直接それを使う人を見かけるようになった。それまでは学術論文のなかでひっそりと用いられていた概念が、他者を論評するためのお手軽なツールとして用いられるようになったわけだ。承認欲求、ゼノフォビアルサンチマンミソジニー等々。

 もちろん、何かを分析しようとするのであれば、様々なカテゴリーや概念を用いることは避けられない。現代の状況を論じようというのであれば、現存する団体や個人に関してそれらの言葉を用いることはどうしても必要になる。

 だが、特にツイッターのようなメディアで他者に直接そうした言葉をぶつけることには賛成しない。ミソジニーという概念をぶつけられた瞬間、その人の言葉はすべてミソジニーなるものに回収されてしまい、平身低頭で謝罪するか、ミソジニストというレッテルを引き受けるかという二者択一を迫られる。これでは対等なコミュニケーションとは言えない。

 同じことはレイシズムでも言える。現代において「差別主義者」というのは「人間のクズ」とほぼイコールだ。差別の確信犯でもない相手を差別主義者(=人間のクズ)と呼んでしまった時点で、対話の可能性は潰える。そう言われて素直に反省できる人は素晴らしい人格者だとは思うが、おそらく多数派ではないだろう。

 もちろん、他者への批判はあっていい。だが、ミソジニーレイシズムといった概念を用いずとも、相手の主張のどこに問題があるかは指摘できるはずだ。対話を志向するのであれば、そうしたカテゴリーや分析概念を動員することはギリギリまで避けたほうがよい。

 研究者は何かを分析することを生業とする。だからこそ、対話している相手を分析することの権力性、暴力性には敏感であってしかるべきではないだろうか。

脚注

(1)したがって、マスメディアの影響を受けたことを認めたほうが自尊心に寄与するという場合には、自身に対する影響を大きく、他者への影響を小さく見積もるという反転した状況が生まれる。たとえば、啓発的な公共広告に関連して、自分は「すごく感動した」が「こんなに優れた広告があっても多くの人はこの問題に無関心だろう」と語るケースがそれにあたる。