擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

本棚に圧倒される

 さすがに大都市だけあって、ロンドンには書店がたくさんある。

 今日はいつもと違うルートで大学図書館に向かって歩いていると、大きな書店に出くわした。さっそくなかに入り、ぼくの専門分野の本が置かれている階まで上がる。最上階の人気のあまりないエリアだが、それでも専門図書だけで幅広の本棚が3、4本はある。関連分野まで広げれば、その数はずっと増える。

 アルファベットを読みやすいように顔を横に傾けながら、面白そうな本を探す。最新のテーマでもう何冊も本が出ていることに驚き、著名な研究者がまた新刊を出したことにまた驚く。「アナタ、また本出したんですか」という感じだ。

 とにかく本というものは次から次へと現れる。正直、3年ぐらい新刊を出すのを止めてみませんかという気分になることもある。これじゃ、いつまで経っても読み終わらないじゃないか。
 というわけで、ぼくはいつものように本棚に圧倒される。

 ぼくがまだ大学生のころ、ゼミの先生がよく「本屋か図書館に行って、本棚に圧倒されてこい」ということを言っていた。その言葉を真に受けてか、小さくなる前の渋谷・大盛堂書店や、新宿・紀伊國屋書店にぼくはよく行っていた。大学院生になると、一日かけて神保町や早稲田の古書店街を一周するということもやっていた。家に着くころにはたいてい古書が詰まった紙袋を両手に持っていた。

 もちろん、大学図書館には頻繁に行った。幸いにして、ぼくが通っていた大学の図書館は開架式(自分で直接に本を手に取れる)だったので、興味のある棚の本を端から端まで眺めては面白そうなものをパラパラとめくった。

 「本棚に圧倒されろ」という言葉で、先生が何を言いたかったのかはわからない。「世の中にはこれだけたくさんの本があるのだから、しっかり勉強しろ」ということなのか、それとも「世の中には知識や考え方が山のようにあるのだから、好きなものを選んでこい」ということなのか。いずれにせよ、ゼミに入って勉強を始めたばかりのぼくは、自分の知らない知識や考え方がたくさんあり、どんな驚きを与えてくれるのかが楽しみで仕方がなかった。

 それから20年近くが過ぎ、ぼくは研究者になった。さすがに大学生のころに比べれば学問に関する知識は増えた…とは思う。けれども、本や論文を読んで「この人、よくこんなこと知っているな」と感心したり、「おお、そういう考え方できますか、なるほどなるほど」などと思うことも頻繁にある。書店や図書館で本棚に圧倒されるのも相変わらずだ。

 ただ、今では本棚に圧倒されるというのは、単に「もっと勉強しなくては」という気分になるだけではないような気もしている。残念なことに、ぼくの英語力では1年かけたところで、専門書の本棚のなかでもごく一部を読むことができるにすぎない。しかも、そのわずかな量の本を読んでいる間にも、遥かに多くの本が新たに出版されるだろう。専門分野の書籍に限ったとしても、未読の本は増える一方なのだ。日本語の本であれば読むスピードは多少上がるが、それでもたかが知れている。

 しかも、少なくともぼくの分野では新しく出版された本ばかりを読んでいるわけにもいかない。過去に出版された論文や本も平行して読んでいかねばならないからだ。研究を進めれば進めるほどに目を通したくなる過去の論文や本の数は増えていく。どこかで諦めない限り、永久に論文を書き始めることはできない。

 こういうことを考えていると、本棚に圧倒されるという経験は、もしかすると知識に対する「畏れ」を得ることなのではないかという気もしてくる。いくら頑張ったところで一生のうちに読める本は限られている。一人の人間が獲得できる知識の量など微々たるものなのだ。だからこそ、学ぶことの楽しみは尽きないし、自分が決して知ることのできない領域や分野に対する敬意を得ることもできる。

 インターネットが発達した今では、検索語を工夫すれば、すぐに自分の知りたいことを知ることができる。手っ取り早く情報を得るためのウィキペディアのようなものもある。だが、手軽に情報を手に入れられることは、決して学び尽くすことのできない知識が世の中には存在するということをかえって見失わせてしまうようにも思う。それゆえに、ネットで得た断片的な知識でもって得意気に他人の無知を嘲笑できてしまうのではないだろうか。

 もしこの文章を読んでいるなかに4月から大学に通う人やいまちょうど通っている人がいるなら、ぜひ大学の図書館や大型の書店に行って、自分の学ぼうとしている分野の本棚の前に立ち、圧倒されてほしい。そして、これまで先人が積み重ねてきた知識がどれだけ膨大なのかを肌で感じてほしいと思う。あなたがいまドヤ顔で話している内容を、大昔の人がもっと緻密に、詳細に論じているかもしれないのだ。

 大学で学ぶべきことは、自分が選んだ学部や学科のカリキュラムで提供される知識だけではない。むしろ、自分が何を知らないのか、分からないのかを知ることも重要だ。世の中には決して一人では学び尽くすことができないほどの知識があるからこそ、いざとなればそれを知っている人の言葉に謙虚に耳を傾けるべきなのだ。

 そして、知識へのそうした敬意があるなら、レポートや論文で他人の文章を剽窃することがいかに罪深いかもわかるはずだ。自分の代わりに調べ、思考してくれた先人の手を借りるのであれば、その旨はきちんと明記しなくてはならない。それが、大学という学術の場に足を踏み入れた者が持つべき最低限のマナーなのだと思う。