擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

プロパガンダとジャーナリズム

ナチスドイツと『海外特派員』

 サスペンス映画の巨匠として知られるアルフレッド・ヒッチコック監督には『海外特派員』(1940年)という作品があります。

 物語は1939年8月、米国のとある新聞社から始まります。当時、ナチスドイツの侵略により欧州情勢は風雲急を告げていました。ところが、同紙の海外特派員からは「戦争は起こらない」という政府の声明を伝える電信しか届きません。それに苛立った同紙の社長が「事実」を伝えることを期待して欧州へと派遣するのが、主人公ジョーンズなのです。社長に言わせれば、欧州情勢に対する知識も関心も特派員にはいらない。必要なのは、曇りなき眼で事実をみる姿勢だというのです。

 ここで史実に目を向けると、公式声明しか流してこない同紙の海外特派員にも同情の余地はあります。当時の欧州は国際情勢が目まぐるしく変化しており、日本の平沼騏一郎内閣がその動向を読めなかったという理由で「欧州情勢は複雑怪奇」との発言を残して総辞職したのも、このころのことです。
 複数の大国が関与する欧州での戦争にはきわめて高い関心が寄せられます。情報に対する強いニーズが存在するそうした状況下では、憶測や希望的観測、あるいは誤情報を含むプロパガンダ(政治宣伝)までもが流布され、事態の推移を正確に把握するのは困難になります。仮に知識も関心もない特派員が当時の欧州に放り込まれたとしても、情報の渦に翻弄されるだけの結果になったことでしょう。

プロパガンダとジャーナリズム

 一般に「プロパガンダ」という場合、誤った情報というニュアンスがしばしば込められます。人を欺くプロパガンダと、事実を伝えるジャーナリズムという形で対比されることもあります。確かに、人びとを欺いたり、混乱を生じさせるために誤った情報からなるプロパガンダが流されることはあります。しかし、プロパガンダとジャーナリズムとの区別はそれほど容易ではありません。報道よりもプロパガンダのほうが正確だということも少なくないからです。

 特に人びとがプロパガンダに敏感になっている場合、でたらめな情報ばかりを流していると信用されなくなってしまいます。しかも、プロパガンダは敵対的な環境下で行われるのが一般的なので、あからさまな虚偽の発信は敵国に批判の口実を与えることにもなります。

 さらに、戦争において戦局が有利に展開している状況下では、事実をそのまま伝えるだけでプロパガンダになりえます。「勝っている」という報道は、国民の士気を高揚させる一方、敵国の士気を低下させ、国際世論を動かすうえでも有利に働くからです。不正確な情報発信の代名詞として用いられる戦時中の日本の「大本営発表」も、日本軍が快進撃を続けているあいだはおおむね正確でした。しかし、敗色が濃くなるにつれてその発表内容は虚偽の度合いを増していき、一般国民だけでなく軍の指導部ですら正確な情報を把握できなくなっていったのです。

『海外特派員』と米国世論

 『海外特派員』に話を戻せば、欧州に向かったジョーンズを待ち受けていたのは、戦争をめぐる陰謀でした。ジョーンズは事態の鍵を握るというオランダの外交官への接触を命じられますが、その外交官は誘拐されてしまいます。ジョーンズは外交官を救出するべく、英国の平和活動家の協力を仰ぎます。しかし、その平和活動家は実はドイツ人で、外交官誘拐の黒幕だったのです。彼の拷問により外交官は開戦につながる機密を漏洩させることになります。

 物語の最後はドイツ軍による空襲下のロンドンから、ジョーンズがラジオ放送を通じて米国へと呼びかけるシーンです。ヨーロッパは暗闇に閉ざされ、灯がともっているのは、もはや米国だけだ。その灯を守るために米国は軍備を増強せよ、というメッセージによってこの映画は幕を閉じます。

 ここで、この作品が制作された当時の米国の状況について簡単にみておきましょう。欧州で勃発した戦争に関して、アメリカの世論は大きく割れていました。一方には、英国やフランスを積極的に支援し、ともにドイツを打倒すべきだとの立場がありました(介入主義)。他方には、欧州のいざこざに干渉するべきではないとの主張を掲げる人びとがおり(孤立主義)、彼らはさかんに平和運動を展開していました。

 大国である米国がいかなる行動をとるのかは、欧州諸国にとっても重大な関心事でした。英仏側からすれば、米国の支援は勝利のために必要不可欠でした。ドイツ側にしても、米国が味方になることまでは期待できないにせよ、中立のままでいてくれれば勝利を期待できる状況にありました。両陣営は米国に対するプロパガンダを激しく展開し、英仏側は介入主義者を、ドイツ側は孤立主義者をひそかに支援しています。

回収されない「伏線」

 ここからも分かるように、プロパガンダとジャーナリズムを分かつポイントの一つは、その目的の違いです。端的に言えば、プロパガンダは特定の政治目的のために他者の行動の誘導を試みるのに対し、ジャーナリズムは事実の伝達、論評、解説をその目的とします。

 しかし、この区別にも難点はあります。誘導を目的とするジャーナリズムは珍しくないからです。近年では多メディア化、商業化の進行により、党派性を明確にしたジャーナリズムも増えてきました。それらの目的は、公平中立の立場から事実を伝達するというよりも、特定層が喜ぶ「ニュース」を積極的に伝えることで、より忠誠心の高いオーディエンスへと育て上げていくことにあります。新聞ジャーナリズムの勃興期にもよくみられたそのようなジャーナリズムをプロパガンダと区別するのは困難です。

 とはいえ、ジャーナリズムがあくまで事実の伝達にこだわるのであれば、プロパガンダとの違いは自ずと生じてくるとも言えます。誘導を目的としたコミュニケーションは、わかりやすくなくてはなりません。人びとにもともとある偏見を煽り、憤りや嫌悪、あるいは嘲笑を引き出すことで、特定の方向へと誘導しようとするのです。逆に、多面性や意外性、曖昧さは誘導行為の足をひっぱることになりかねません。

 それに対して、事実にはさまざまな側面があるため、一つのストーリーに綺麗に収まることはまずありません。フィクションなら回収されない伏線は違和感を残すだけの不要な描写ですが、現実に存在するのは無数の「伏線」だけです。それらを組み合わせたり、時に捏造したわかりやすいストーリーで他人を説得するのがプロパガンダだとすれば、ジャーナリズムは事実に忠実であろうとするほどに、簡潔なストーリーに合致しない「伏線」を取り上げる必要がでてきます。逆に言えば、「わかりやすさ」ばかりを重視するジャーナリズムには、簡単にプロパガンダへと転じてしまう危うさがあります。

 『海外特派員』は、明らかに介入主義を支援するプロパガンダ映画でした。平和を訴える人物が実はドイツの手先だったという「わかりやすい」筋書きは、当時の平和運動にさまざまな動機や目的を抱える人びとが加わっていたという現実の複雑さを捨象することで成立しています。欧州での戦争への介入を直接的には主張しないことでプロパガンダだとの非難をかわす一方、手段を選ばないナチスの冷酷さや、空襲下にありながらも米国に向けてメッセージを懸命に伝える主人公の姿を描き出すことで、何をするべきかを観客に伝えているのです。ヒッチコックは英国出身であり、彼に作品の監督を委ねたウォルター・ウェンジャーも反ファシズム的な発言で知られる人物でした。他方、ナチスドイツの宣伝大臣だったヨーゼフ・ゲッベルスはこの作品を「プロパガンダの傑作」と呼んでいます。

 事実の重要性を訴える映画が、それ自体でプロパガンダだった。このこともまた、ジャーナリズムとプロパガンダを区別することの難しさを改めて伝えています。

参考文献

辻田真佐憲(2016)『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』幻冬舎新書
津田正太郎(2021)「『ノープロパガンダ』の実相 第二次世界大戦時における英国のプロパガンダ政策(下)」『社会志林』68巻2号、pp.97-133。
Cull, N. (1995) Selling War: The British Propaganda Campaign Against American “Neutrality” in World War II, Oxford University Press.