擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

結局は「制度」が大切なのだ、という話

いまから20年以上前、英国のホームレス報道ついて分析した論文で、以下のような指摘がなされている。

よりリベラルであったり、ホームレスに対して同情的なアプローチに立脚する一部のメディアは、その他のメディアに劣らずステレオタイプに依拠している。公衆の一般的な態度を反映して、それらのメディアは以下の事実を認めることに困難を覚えてしまう。その事実とは、ホームレスである人物が好ましくない人物であると同時に、支援を必要としている人物でありうるという事実、多くのお金を飲酒、またはドラッグに費やしすぎると当時に十分に食べられるだけの支援にも値しうるという事実、部分的には自分自身の行為のせいで最後の家を失ったものの、いままさに頭上に屋根を必要としているという事実である。


(出典)Platt, S. (1999) ‘Home truths: media representations of homelessness,’ in B. Franklin (ed.) Social Policy, the Media and Misrepresentations, Routledge, p.113.

ホームレスの方々に同情的な報道姿勢をとるメディアは、人びとの同情を集めるため、彼らをきわめて善良な存在として描き出す。ところが、どんな集団であっても、良い人もいれば不快な人、困った人もいる。そのため、「良い人たち」というステレオタイプに依拠した報道は、そうした事実とうまく折り合えなくなってしまうのだ。

ホームレスの方々に批判的な報道はその欺瞞を突いて、彼らがいかに不快で迷惑な存在なのかをこれまたステレオタイプ的に描きだすことで、彼らに対する支援など必要ないのだという方向へと人びとを誘導しようとする。彼らがホームレスなのは「自己責任」だというわけだ。

ただし、それはメディアだけの責任というわけではない。上の引用文に「公衆の一般的な態度を反映して」という一節があるように、それはむしろ世間一般の人びとの考え方の反映でもあるからだ。

過去、さまざまな社会調査で「どういう人びとであれば社会的な支援に値すると考えるか」が問われてきた。それらの調査を概観すると、以下の5つの基準が認められるという(下記の「例」はぼくが追加した)。

1.コントロール 自分で自分の環境をコントロールするのが難しい人びとほど、支援は支持されやすい(例 子ども)

2.必要性 支援の必要性が大きいほど、支援は支持されやすい(例 明日の食事にも困るほどの貧困)


3.アイデンティティ 自分たちと近しい存在だとみなされるほど、支援は支持されやすい(例 移民や難民への支援は支持されにくい)

4.態度 感謝の念を示していたり、従順であるほど、支援は支持されやすい

5.互酬性 過去には仕事をし、納税をしていたなど、社会に貢献していた経歴があると、支援は支持されやすい(例 一度も働いたことのない人への支援は支持されにくい)


(出典)van Oorschot, W. (1999) 'Who should get what, and why? :On deservingness criteria and the conditionality of solidarity among the public,' in Policy and Politics, p.36.

ここで注目したいのは4だ。多くの人は、支援を受ける人びとに対して「感謝の念」を示してほしいと思う。逆に、それがないと不満を覚えてしまう。

そのため、貧困者に批判的な報道では、彼らが感謝のカケラもないような態度をとっている様子がしばしば描き出される。多くの納税者は「こんな奴らのために自分が払った税金が使われるなんて許せない」という感情を抱くだろう。そこから、こんな連中のための福祉なんて必要ない、という方向へと導かれることになる。

しかし、最初の引用文でも示されているように、たとえ「嫌な人」「困った人」であっても、それは支援が不要だということにはならない。「良い人だから助ける」「嫌な人だから助けない」というのは、人格コンテストのようになってしまい、社会的に大きな問題を生み出してしまう。

だからこそ、最終的には「制度」が重要になってくる。誰が支援を受けられるのかを、ある意味では「お役所的」に判断することが求められるのだ。もちろんそれは、個別事情を勘案しないということではなく、支援する/しないを印象で決めたりしない、ということだ。

ただ、ネットを含むメディア上での議論は、どうしても「良い人か、嫌な人か」「感謝しているか否か」といった人格的な部分に集中してしまう。問題提起の時点ではそういう話になるのは避けられないだろうが(社会問題の提起には、人びとの注目の奪い合いという側面があり、なんらかの人格的なアピールが欠かせない)、そこからどのようにして非人格的な制度の議論へと移行させることができるかが重要になるだろう。

そして、そこで初めて、制度を実際に運用する立場とのすり合わせを始めるべきだろう。社会的なリソースに限界がある以上、そうしたすり合わせは何らかのかたちで絶対に必要になる。そのさい、支援を必要とする側の人格イメージと、支援をする側の人格イメージとを対比させ、それらの印象に基づいて賛否を決めるような議論は、どこまで行っても不毛だ。

…と、ここまで書いてみて、難しい話だなあと自分でもつくづく思うのだが、結局はそういうところに落ち着かざるをえないのではないだろうか。