擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

つねに「正しい側」でいたい

ショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』(明石書店、2022年)の終章に、「トランス差別をする人は歴史の誤った側にいる」という物言いへの痛烈な批判がある。この物言いに従うなら、トランスジェンダーを包摂する人は「歴史の正しい側」にいて、受け入れない人は「誤った側」にいることになる。

こうした物言いはトランス差別を批判するリベラルな人びとに人気だという。しかし、フェイに言わせれば、歴史に「正しい側」も「間違った側」もなく、こういった物言いに現れているのは、自分たちは「正しい側」にいたいというリベラルの潔癖症にすぎないという。

このフェイの指摘は、個人的にかなり響いた。ツイッターみたいなところにずっといると、「正しい側」にいたいという願望がどんどん増してくる気がする。何かを主張したとして、その数年後にそれが間違っていたことが判明したときに、その昔のツイートを発掘されて「バーカバーカ」とやられてしまうのではないか、ダブルスタンダードを指摘されて、自分の判断基準の曖昧さを露呈させてしまうのではないか。

そういうこともあって「10年後も自分が正しかったと言えるようでありたい」といった願望がつねにある。

つねに「正しい側」でいたいという願望の何が問題かと言えば、後にそれが「間違った側」だったとされたときに、当事者を簡単に置き去りにしてしまうような態度を生むことではないか。自分たち自身は当事者ではないので、そういうことが簡単にできてしまう。

言い換えると、「歴史の正しい側/間違った側」という物言いの背後にあるのは、自分自身が正しいか否かという関心であって、当事者が直面しているさまざまな差別や生活上の困難ではないということ。だから、風向きが変われば、簡単にいなくなってしまう。

少し次元が違うのだが、個人的な研究の話をすると、ぼくは抽象的な理論的検討をよくやるので、そこでの主たる関心はその理論の妥当性が高いか否かになる。当事者からは遠い地点からの検討になるので、当事者は理論的考察のための「材料」になってしまう。

学問の性質上、それにはやむをえない部分もあるとは思う。でも、「これは学問的思索なのだから、当事者は関係ない」「正しいか間違っているかだけが問題だ」と開き直るのも、やはり違うように思う。たぶん、ここに誰もが納得できる解答はなくて、ずっと考えていくべき課題なのだろう。