擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

性犯罪をあえて語らないこと

 性犯罪というのは語ることが難しいテーマだとつくづく思う。

 さまざまな価値観がぶつかるがゆえに、どのように論じようとも批判を招き寄せてしまう。加えて、そこに政治的な問題がリンクすれば、なおさらである。

 ということで、このエントリで取り上げたいのは、キー局の元記者であり、現在はジャーナリストとして活動している人物に対する告発の件である。最初に、この人物が実際に性犯罪に及んだかどうかはここでは問わない。検察審査会の判断が待たれる事案であり、現時点でこの男性を批判することは避けたい。

被害を告発した女性へのバッシング

 むしろ、ここで注目したいのは、被害を告発した女性に対するバッシングの件だ。この女性が名乗り出たことにより、ネットでは彼女の素性を探ろうとする試みのほか、様々な誹謗中傷が行われることになった。「よくもまあここまで下劣なことを思いつくな」という中傷もあり、むしろそれは書いた側の品性を反映していると言うべきだろう。

 ともあれ、バッシングがヒートアップした原因は、当事者の意思とは無関係に、この告発が政権批判と結びつけられうる側面を有していたからだろう。しかし、このバッシングでは、一般的な刑事事件でも生じる被害者非難もまた見られた。たとえば、当該女性が記者会見をしたさいに「胸元が開いた服」を来ていたことに対して激しい非難が寄せられた。これは性犯罪の被害者に対してしばしば向けられる「男を誘うような恰好をしていたから襲われたのだ」という非難の一種である。

 確かに、犯罪被害に遭わないために自己防衛の必要性を論じることは「一般論」としては間違っていない。治安の悪い地域では夜に歩かないようにする、貴重品は持ち歩かない等々の自己防衛はやはりしておいたほうがよい。

 けれども、犯罪被害に遭遇した人に対して、そうした「一般論」をぶつけることにさしたる意味はない。「一般論」を被害者にぶつけてその自己責任を問うことには、非難を行う側の心理を満足させるぐらいの効用しかない。

 つまりは、「ちゃんと気をつけていれば犯罪被害になど遭うはずがない」「被害に遭ったというのは、被害者の側に何らかの落ち度があったのだ」という因果応報的な世界観に安住していたいという心理が、人を被害者非難へと駆り立てるのだ。

「理想的な被害者」像からの逸脱

 もちろん、つねに被害者に対するバッシングが生じるわけではない。このブログでも何度か触れたことがあるが、「理想的な被害者」の条件を満たす被害者に対しては共感が集まりやすくなる。他方、「理想的な被害者」像から外れれば外れるほど、被害者に対するバッシングは生じやすくなる。

 ニルス・クリスティーエが提示する「理想的な被害者」の条件は以下の通りである。

(1)被害者が脆弱であること
(2)被害者が尊敬に値する行いをしていること
(3)被害者が非難されるような場所にいなかったこと
(4)加害者が大柄で邪悪であること
(5)被害者が加害者とは知り合いでないこと
(6)被害者が自らの苦境を広く知らせる力をもつこと

 ここで重要なのは、「理想的な被害者」の条件に「加害者」に関する項目が入っていることだ。つまり、被害者が共感を集めるか否かは、被害者自身のふるまいや属性のみならず、加害者がどのような人物であるかによっても左右される。たとえば、加害者が非常な人気者であった場合、被害者を非難する人が出てくる可能性はやはり上がる。

 加えて、被害者が女性である場合、女性的だと見なされやすい役割に従事していることが「理想的な被害者」の要件に加わるとも言われる。逆に言えば、慣習的な女性像に合致しない女性に対しては、被害者非難が行われやすいということになる。したがって、高学歴であったり、従来は男性のものと見なされがちだった仕事に就いている女性は、バッシングを受けやすくなる。

 今回のケースをこうした観点から見た場合、いかなる政治的立場に立つかによって、告発をした女性が「理想的な被害者」と見なされるか否かは影響を受けると考えられる。ある立場からすれば、記者会見を行なったことは(2)と見なされうるだろうし、別の立場からすればむしろ非難されるべき振る舞いということになるだろう。

 また、加害者とされる男性をどのように評価するかによっても、判断は分かれることになるだろう。加害者のこれまでの言動を批判的に見るならば(4)の条件が適用されやすくなるし、好意的に評価するなら適用されにくくなる。

 もっとも、「理想的な被害者」として世間から受け入れられたとしても、その人物には「被害者」としてふるまうことが求められ続けるのであって、それはそれで問題を引き起こす。いったんは承認されたとしても、世間が求める「被害者」像から逸脱した瞬間に激しいバッシングの対象となることもありうるからだ。「かわいそうな被害者」像に合致し続けることに対する暗黙の要求もまた、被害者をしばしば苦しめることになる。

あえて語らないことの必要性

 繰り返しにはなるが、今回のケースに関して、当事者でもジャーナリストでもない一般人にできることといえば、検察審査会の判断を待つことしかないのだろうと思う。憶測で加害者とされる男性を犯人扱いすることも、被害を告発した女性をバッシングすることも間違っている。

 もちろん、さまざまな情報が出てくるなかで、ぼく個人としても思うところはいろいろとある。あるのだが、自らの政治的な立場によって原則を放棄することはやはり好ましくないし、あえて語らないことも必要なのではないかと思うのだ。

参考文献

クリスティーエ、ニルス(2004)齋藤哲訳「理想的な被害者」(『東北学院大学論集 法律学』63号、pp.274-256)。
Meyers, M. (1996) News Coverage of Violence against Women, Sage.