擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

分析の封殺

再帰的な被告人

 えらい文章を読んでしまった。『黒子のバスケ』脅迫事件の被告人意見陳述である。ネットで話題になったので、読んだ人も多いだろう。

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2

 ぼくがこの文章を読み進めているうちに最初に思い出したのは、朝日平吾の事件だ。1921年9月、朝日は実業家・安田善次郎を刺殺し、その場で自殺している。橋川文三は『昭和ナショナリズムの諸相』という著作でこの事件を取り上げ、大衆社会論の枠組みを使って以下のように論じている。

朝日平吾の場合には、自己の存在が完全に断片化され、原子化された人間以下のものであるという強烈な挫折感がいだかれていた。… 朝日をつき動かした衝動は、逆説的な意味で不遇な大衆層のデモクラシー(=人間としての平等化)の要求を反映したものであり、伝統的な要因によって形成されたいっさいの人間的差別の排除を主張したものであった。
(出典)橋川文三筒井清忠編(1994)『昭和ナショナリズムの諸相』名古屋大学出版会、p.107。

 つまり、大衆社会のなかで人間的なつながりから切り離され、大きな経済格差に苦しむ人物が、自己の尊厳や人間としての平等を求めてテロリストとして暴発したという見立てだ。

 実際、大衆社会論的な観点から犯罪を読み解くというこの手の分析は、朝日の事件に限らず、いくつもの事件で繰り返されてきた。1968年から69年にかけての連続ピストル射殺事件、1999年の池袋通り魔殺人事件、最近では2008年の秋葉原通り魔事件などがそれにあたる。1997年の神戸市児童連続殺傷事件を含めてもいいかもしれない。

 これらの衝撃的な事件が起きるたびに、心理学者や社会学者がマスメディアに登場し、もっともらしいストーリーを語ってきた。社会から孤立し、原子化した人物が、自己の承認や尊厳を求めて凶行に及ぶという大衆社会論的な筋立てはその典型的なものだ。

 しかし、上述の『黒子のバスケ』事件の被告人意見陳述を読んですぐに痛感したのは、被告人はこのような陳腐な分析を完全に封じている、ということだ。なぜなら、被告人自身がすでに自己を分析し尽くしてしまっているからだ。

 たとえば、被告人はネットで自分自身について語られているであろう言説を予測し、予めそれに反駁しておく。他方で、自分自身に関して頓珍漢なプロファイリングをしている臨床心理士をこき下ろす。そのうえで、自分自身について客観的にはどう見えるか、主観的にはどう考えているのかを明確に語っている。そこに第三者的な分析が入り込む余地はきわめて乏しい。

いわゆる「負け組」に属する人間が、成功者に対する妬みを動機に犯罪に走るという類型の事件は、ひょっとしたら今後の日本で頻発するかもしれません。グローバル経済体制の拡大により、一億総中流の意識が崩壊し、国民の間の格差が明確化して久しい昨今です。日本は東西冷戦下の高度成長期のようなケインズ型の経済政策を採用する体制にはもう戻れないでしょう。格差が開こうとも底辺がネトウヨ化しようとも、ネオリベ的な経済・社会政策は次々と施行されるのです。
(中略)
自分がいかに自己愛が強くて、怠け者で、他者への甘えと依存心に満ち、逆境に立ち向かう心の強さが皆無で、被害者意識だけは強く、規範意識が欠如したどうしようもない人間であることは、自分自身が誰よりもよく分かっています。それでも自分は両親や生育環境に責任転嫁して、心の平衡を保つ精神的勝利法をやめる気はありませんし、やめられません。
(出典)「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2

 これらの引用部分を見るだけでも、いかにも犯罪分析で語られそうな事柄がすでに被告人自身によって語られていることがわかるだろう。

 もちろん、被告人が気づいていない分析を第三者ができる可能性がないわけではない。しかし、仮に本人がその分析を耳にしたならば、たちまち自己分析に組み込んでしまうだろう。あえて社会学的に言えば、この被告人はきわめて再帰的なのであり、他人による分析の言語をいともたやすく自己の物語へと回収してしまうのだ。

 このような再帰的な被告人の存在を前にすると、事件について語ろうとするや否や相手の手玉に取られてしまうような感覚すら覚える。被告人が用いている文脈とは異なるものの、「無敵の人」とはまさによく言ったものだと思う。

分析が失われたあとに

 刑事事件に関する様々な分析は、少なくとも潜在的には秩序の回復を目的としている。つまり、事件の原因を探ることで加害者の社会復帰を促進したり、同じような事件の再発を防ぐということである。加害者が置かれた社会的、心理的状況を明らかにすることで、本人ですら気づいていない要因を明らかにし、反省を促したり、社会の仕組みを改めようとする。そうでもなければ分析をする意味など存在しない。

 しかし、この被告人は自己を徹底的に分析、理解したうえでなお犯行に及んでいる。つまり、この被告人を分析しても秩序の回復は望めないのだ。そしてそれを本人が一番よく理解している。

 だからこそ、この被告人は自身に対する厳罰を望んでいる。少なくともこの事件に関しては、人格を分析したところで社会復帰や犯罪の抑止には何の役にも立たない。その論理的な帰結は、人格の外側にある刑事罰という強制力や、それによる見せしめを行うことでしかこの種の犯罪を防ぐことはできないということになる。

現在の刑事裁判で最も悪質な動機とされるのは利欲目的です。自分と致しましては、この裁判で検察に「成功者の足を引っ張ろうという動機は利欲目的と同等かそれ以上に悪質」という論理を用いて、自分を断罪して頂きたいのです。そして裁判所には判決でそれを全面的に支持して頂きたいのです。
(出典)「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2

 つまるところ、この意見陳述は、これまで衝撃的な事件が起きるたびに巷に流通していた小賢しい分析を全て無効化してしまうものだ。分析をする者はこの被告人に歯が立たない。

 ただ、嘲笑されることを承知で一つだけ言うならば、この被告人は自己を徹底的に客体化することで、何かから逃げているような気もする。既成の分析用語によって自己の語りを固めることで、言語化されない部分から目を逸らしているような、そんな印象を受ける。

 もちろん、そんなことを言ったところですぐさま自己の語りへと組み入れられてしまうのがオチかもしれないのだが。