擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

コミュニケーションしすぎ問題【追記あり】

エコーチェンバー/フィルターバブル論の問題点

エコーチェンバーやフィルターバブルといった言葉がよく使われるようになって久しい。なんと今では、小学校の道徳の教科書で解説されているという。ご存じの方が多いとは思うので改めて説明はしないけれども、要はインターネットで自分と同じような意見ばかりに取り囲まれる状況を指す言葉だ。

しかし、これらの概念は実証的な研究ではあまり支持されない。確かに、ソーシャルメディアのフォロー/フォロワーの関係は同じような価値観のユーザーのあいだで起きることは多いが、ユーザーの情報接触をみてみると、思いのほか様々なメディアに接していることがわかるからだ。

その大きな要因は、インターネットの情報アクセスコストの低さだ。朝日新聞の定期購読者が産経新聞を読むためには、わざわざ駅かコンビニにまで買いに行く必要があるが、ネットであれば数クリックで済む。

しかも、ソーシャルメディアのアルゴリズムはエコーチェンバーには大して寄与しておらず、むしろXのそれなどはユーザーが嫌がるものをかえって表示させる傾向にあるという研究もある。

コミュニケーションへの信仰

まあ、それはおいておこう。

ここで論じたいのは、エコーチェンバーやフィルターバブルが問題だとされる前提、すなわち「意見の異なる他者とコミュニケーションをとるのは良いことだ」という発想についてだ。それはもはや一種の信仰と言っていい。

しかし、エコーチェンバー論を提起したキャス・サンスティーンにこういうことを言うと怒られそうなのだが、ぼくはその前提にかなり懐疑的だ。むしろ、いまソーシャルメディアがあれだけ荒れているのは、書かれたものを読むだけという一方向的なものも含め、意見の異なる他者とのコミュニケーションをしすぎていることが原因だと考えている。

まず、意見の異なる人びとがちゃんと話し合うためには、かなり例外的な環境が必要だ。一つはお互いが対等な立場であること、一つはお互いが相手の話にちゃんと耳を傾けること、そしてもう一つはお互いに譲り合う精神があること。さらに付け加えるなら、お互いが目的を共有しているとなおいい。

しかし、大部分のソーシャルメディアでのコミュニケーションにはそれらの要素が全部ない。一方が実名で他方が匿名だったり、相手の書いていることをろくに読もうとしていなかったり、それぞれ妥協の余地が一切なかったり、お互いが別の目的をもっていたりするのが常だからだ。それでまともな話し合いができると思うほうがどうかしている。

そういう質の悪いコミュニケーションなら、はっきり言ってやらないほうがマシだ。たとえば、米国の共和党支持者と民主党支持者のタイムラインに対立党派の意見を意図的に流し込む実験をやったところ、自分の党派が攻撃されているのをみて被験者がかえって先鋭化したことを示す研究もある。

実際、異なる派閥がバチバチやりあっている空間にずっと身を置いていると、多くの人はしだいに感情的になり、攻撃的になる。かく言うぼくも、Xの「おすすめ」でムカつく投稿をみせられ、書き込みはしないものの罵詈雑言を口にすることは多い。カッとしたまま文章を書き、一息ついてそのまま投稿せずにデリートすることも結構ある(書くという行為はそれだけでかなりスッキリする)。

そして、ついうっかり、やな感じの引用ポストをしてしまうこともある。Xにいるとそういう攻撃性を抑えられなくなるので、さいきんは「リベラルのエコーチェンバー」こと、Blueskyになるべくいるようにしている。

理解の追求がもたらす関係の破綻

さらに付け加えると、コミュニケーションの目的は相互理解だとされる。だが、理解を追求しすぎると、人はかえって他者といられなくなってしまう。たとえば、最近のはてなで「果てしなく質問が続くコミュニケーション」が話題になった(これとかこれ)。納得できる答えが返ってくるまで質問を続けた結果、関係が破綻してしまったというのだ。

このコミュニケーションの問題は、つまるところ「他者とは理解し合えない」という諦観が欠けていることだ。もちろん、話し合い自体が無意味だというわけではない。先に挙げたような条件を満たせるなら、コミュニケーションが素晴らしい結果を生むことはある。

しかし、別人格である以上、お互いが究極的に理解し合うのは不可能だ。社会学者の奥村隆さんは名著『他者といる技法』(ちくま学芸文庫)のなかで、次のように述べている。

「他者はわかるはず」と思うと「いっしょにいられる」領域は限定されるが、「わからない」のが当然と考えるならば、私たちはずっと多くの場合「いっしょにいること」ができるように思う。
(出典)奥村隆(2024)『<他者>といる技法 コミュニケーションの社会学』ちくま学芸文庫、p.294。

具体的な例を挙げよう。

亡くなった父とぼくは、政治的にはまったく違う立場だった。たまに父と政治の話をすると、まるで意見が合わなかった。なので、ぼくは父とはなるべく政治の話をしないようにしていた。仕事の話、子どもの話、昔の話などをしていると楽しく時間を過ごすことができた。

こういう話をすると「リベラルは異なる意見の持ち主と対話しようとしない」と思われるかもしれない。

でも、それの何が悪いのか。政治の話で限られた時間をいがみあって過ごすのではなく、トピックを選ぶことで、ぼくと父は一緒にいることができた。

もちろん、これは家族の内輪の話であって、公共空間でのコミュニケーションとは異なる。しかし、ソーシャルメディアでは、もっとも意見の異なる人たちが、もっとも意見の合わないトピックで角を突き合わせている。しかも営利目的で対立を煽り立てている人たちまでいる。そのようなコミュニケーションは、対立する派閥への憎悪を深めるだけだ。

したがって、ここに至ってわれわれに必要なのは、お互いにわかり合おうとする努力ではなく、分かりあわずともいられる状態を模索していくことなのではないだろうか。

マスコミュニケーションの効果研究の歴史が教えるように、ソーシャルメディアなんてものがない時代、われわれは似たような意見の人たちに取り囲まれて暮らすことが多かったのだから。

(9/11 AM11時追記)書き忘れていたが、派閥間の憎悪の高まりは、相手側の行動はつねに悪意に基づいていると考え、なんらかの邪悪な組織の影を見出す態度を生み出しがちだ。なので、ある集団は対立する相手の背後にすぐに旧統一教会の影をみてしまうし、別の集団はすぐに中国やその他外国勢力の影をみてしまう。このように、陰謀論の広がりも、敵意の拡大という観点から考えられるように思う。

「アイデンティティ政治」をいかに超えるか

アッシュ・サルカール/町田敦夫訳『「マイノリティ支配」の正体』(東洋経済新報社)を読み終えた。

本書のタイトルは、誤解を招くかもしれない。

「欧米ではいまや白人こそが迫害されている」、「トランスジェンダーのせいで女性の安全が脅かされている」「日本がムスリムに乗っ取られる」といった内容を期待して読むと、確実に裏切られるからだ。

本書の主題は、マイノリティがあたかもマジョリティを圧迫しているかのごとき主張が、どのような文脈のもとで語られるようになったのかを明らかにすることにある。

言い換えるなら、本書の著者であるサルカールはマルクス主義者であることを明言しており、バリバリの左翼からの立論である。サルカールからすれば、ぼくのごとき社会民主主義者は、どうしても温く、中途半端で曖昧にみえるはずだ。実際、明確な立ち位置にあるからこそ、本書の分析の切れ味は鋭い。

とはいえ、サルカールは一方において論敵を厳しく批判しながらも、ユーモアのある筆致になっており、全体として楽しく読める。左派の書いたものはどうしても堅苦しくなってしまうのが難点で、こういうスタイルの著作がもう少し増えてもよいのではないだろうか。

本題に入ろう。

本書の主張を一言でまとめるなら、「左派はアイデンティティ政治や文化戦争を脱し、階級政治を展開すべきだ」ということになる。前回のエントリとも関係する内容だ。

したがって、本書の第1章「『被害者』ポジションの奪い合い」では、左派によるアイデンティティ政治が批判的に論じられる。

アイデンティティ政治では、個人の経験や主観性があまりに重視され、ちょっとした言葉遣いの有害性が過剰に見積もられるようになった。結果、マイノリティの解放という大義がどこかに行ってしまい、それぞれが「被害者」としての立場にしがみつくようになってしまった。

それゆえ著者は、「アイデンティティはもはや、私たちを取り巻く世界を形作る政治的、経済的な力を理解するための出発点ではない。私たちを孤立させる牢獄になっている」(p.46)と述べる。アイデンティティ政治により、本来は団結して資本に立ち向かうべき人びとが連帯できなくなってしまったというのだ。

ただし、ここで注意すべきは、アイデンティティ政治で提起された人種やジェンダーに基づく差別がもはや存在しないとか、それらは重要ではないという立場に著者は立たないということだ。

サルカールは、イギリスで生まれ育ったインド系のシス女性で、異性愛者ではあるものの、トランスピープルが置かれている苦境についても紙幅を割いて論じている。トランスピープルへの攻撃を繰り返している『ハリー・ポッター』の著者J.K.ローリングも、その文脈において厳しく批判される。

また、イギリスでの人種差別がいまも根深く存在していることも強調される。肌の色によって警察から職務質問を受ける機会は大きく変わる。ラップ音楽のような黒人音楽が「白人を堕落させるもの」として今も大真面目に語られるという。

サルカールはそうした人種やジェンダーの問題を踏まえたうえで、労働者階級が団結し、極度な格差を可能にしてきた資本主義と対決する必要性を論じる。イギリスでもっとも裕福な350人の富を合計するとポーランド全体のGDPに匹敵するそうだが、そのように極端な富の偏在を可能にし、人びとの生活に責任を負うことなく富裕者たちが富を収奪していく経済システムに対抗するためには、肌の色や宗教、ジェンダーの壁を越えてともに戦わねばならないというのだ。

ところが、階級格差を是正する試みと、人種的不公正とを正す動きとがあたかも敵対的な関係にあるかのような図式が作り上げられてしまった。マジョリティ側の「被害者意識」が政治的に扇動され、あたかも「マイノリティによる支配」によって「マジョリティ」が脅かされているかのごとき幻想が生み出されてしまった。

その幻想が生じるうえで大きな役割を果たしたのが、「白人労働者階級(white working class)」という概念である。以下は、出版されている書籍のなかで「白人労働者階級」という言葉がいつぐらいから用いられるようになったのかを示したGoole Ngram Viewerのグラフだ。これをみても、2015年前後から使用が増えてきたことがわかる。

日本で「白人労働者」が注目を集める契機となったのは、なんといっても2016年のトランプ政権の誕生だろう。伝統的に民主党を支持してきた労働者がトランプ政権を支持したということが注目を集め、「見過ごされてきた白人労働者の苦境」が語られるようになった。都市の大卒リベラルが「多様性」をもてはやしながら、「白人労働者」を貶め、その苦境を無視した。そのことが、彼らに近い言葉で語り、彼らのシンボル(赤いキャップ)を着用するトランプへの熱狂的な支持をもたらしたというのだ。

イギリスでも事態は同様で、「白人労働者」の誇りを傷つけ、嘲笑してきたとされる左派やリベラルは激しい攻撃の対象となっている。しかしサルカールは、ここで「チャヴズ(chavs)」という言葉を対比させる。

「チャヴズ」とは白人労働者の蔑称で、彼ら、彼女らの多くは生活保護に依存し、薬物を常用し、勤労精神に欠ける存在として、しばしば罵倒される。そうした集団に福祉を与えても堕落させるだけだとして、福祉を削減するための世論づくりにも利用されてきた。

左翼の論客であるオーウェン・ジョーンズは、2011年に出版された著作『チャヴ 弱者を敵視する社会』(依田卓巳訳、海と月社)において、白人労働者に関するそうしたネガティブなイメージがいかに形成されてきたのかを描き出した。当時の右派メディアや論客はそのように白人労働者を罵倒することで、福祉の削減を正当化してきたのだ。

ところが、その潮目は変わった。いまや右派の最大のターゲットは、移民・難民であり、「多様性」であり、ポリコレである。そして、その被害者として位置づけられる格好の集団が「白人労働者階級」だというのだ。その変化のなかで、かつては「チャヴズ」を罵倒していた人びとが、「白人労働者階級」の擁護者として立ち現れることになる。

ジョーンズが予見できなかったのは、労働者階級への敵視を煽っていたまさにその本人たちが、突如として、中傷され、忘れられた白人労働者階級の擁護者に転じることだった。英国の言論界は、ジョーンズの予測も追いつかないほど無節操で不誠実だったのだ。(p.279)

このような潮目の変化により、「チャヴズ」という言葉の利用は、以前に比べれば減少傾向にある。

しかし、そうした人びとは、本当の意味で労働者階級の味方であることは決してない。労働者階級の人びとに経済的利益をもたらすような政策には平気で反対するからだ。「白人労働者階級」という概念がさかんに用いられるのは、労働者階級に含まれるさまざまな肌の色の人びとを分断し、彼ら、彼女らが共通の利益のために立ち上がるのを阻害するためだとサルカールは主張する。

「白人労働者階級」が苦境に晒されているのは、「白人」であることが理由ではなく「労働者階級」であることに原因がある。にもかかわらず、あたかも「白人」であることにその理由を求めさせてしまうというのだ。

「白人労働者階級」がその人種的な被害者意識によって他の労働者階級の人々を敵視し、いがみ合うのであれば、それによってほくそ笑むのはいったい誰か。富の偏在を許す経済システムのもと、暴利をむさぼっている少数の富裕者こそが本当の意味で「少数者(マイノリティ)による支配」を行っているのではないか。それが本書の主たるメッセージである。

なお、本書には、英国の政治ジャーナリズムの問題、ソーシャルメディアでのハラスメント、巨大プラットフォーマ―による「テクノ封建制」の問題など、現代社会を考える上での重要なトピックが他にもいくつも紹介されている。それらに興味がある人も、ぜひ本書を読むべきだろう。

ということで、本書を楽しく読んだが、マルクス主義的な階級支配の図式に依拠していることの難点がやや気になった。「白人労働者階級」の分析において非常に明確にみられるように、支配階級の意図的な世論操作をやや強調しすぎているように思える。一歩間違えると、陰謀論に踏み込みかねない危うさを感じてしまう。

もちろん、世論操作の試みという意味での「陰謀」は世の中にあまた存在するし、陰謀論=虚偽ではない(陰謀論とされていたものが事実だったケースはある)。ただ、「白人労働者階級」概念の拡がりにしても、支配階級の意図以外にもさまざまな要素が働いていたのではないだろうか。そのあたりの割り切りをできないのが、ぼくがマルクス主義者にはなれない一因なのかもしれない。

とはいえ、それでも本書に読む価値は大いにある。アイデンティティ政治を脱して階級政治(もしくは伊藤昌亮さんが論じる「曖昧な弱者」と「明確な弱者」との連帯)を探求するにせよ、本書のように人種やアイデンティティの問題にきちんと目を向けたうえでの話になる。

それをやらない限り、より大きな支持を集めようして「中道」に進んだとしても、気づけば後ろには誰もついてきていない…という話になってしまうのではないだろうか。

「リベラル」に関するやや意地悪な補足

昨日のブログでも紹介したシャットシュナイダーの『半主権人民』について、少し補足しておきたい。

この著作の重要なポイントは、われわれは争点を「選ばなくてはならない」ということだ。世の中の人びとが関心を向ける争点の数には限りがある。なので、政争においては多数派からの支持を得られそうな争点を選択し、そこで境界線を引く必要がある。この観点から言えば、2005年の衆議院選挙で郵政民営化という(今にして思えば誰得の)争点を設定し、「抵抗勢力」とのあいだに境界線を引くことで自民党を大勝させた小泉元総理の手腕は見事というよりほかない。

どんな近代的な社会でも非常に多くの紛争が潜在的に存在しているが、そのなかでもほんのわずかなものだけが重大な意義をもつにすぎない。…常に疑問としてでてくるのは、一番勝ちたいと望むのはいったいどの戦いなのか、ということである。

(出典)E.E. シャットシュナイダー(1972)内山秀夫訳『半主権人民』而立書房、p.92。

これを逆に言えば、負けそうな争点に浮上してもらうのは困るということでもある。シャットシュナイダーによれば、争点をめぐる対立において、もっとも脅威となるのは実のところ「反対派による正面攻撃」ではない。そうではなくて、似通った人びとを主要な支持層としながらも、別の争点で戦おうとする連中だ。その人たちを黙らせないことには、集団としてのまとまりを生み出すことができない。

紛争がもっとも有力なものとなるのは、その集約性と具現性、すなわち、他の争点を覆い隠す能力に関連している。

(出典)シャットシュナイダー、前掲書、p.94。

こうした観点からすれば、昨日のエントリの意味がもう少しクリアになるかと思う。つまりあそこで取り上げたのは、アイデンティティ政治にかまける胡乱な集団を黙らせ、「腹の足しになる政治」をするためのヘゲモニー闘争なのだ。アイデンティティ政治を掲げる人びとがいる限り、その訴えに耳を貸してしまい、変な争点設定に乗ってしまう考えの足りない層が出てくる。しかし、そんな争点を掲げている限り、選挙には勝てない。だから「リベラル」としては言わねばならない。WOKEは黙れ!と。

かくして、アイデンティティ政治を支持する側からみれば、自分たちを黙らせようとする二つの勢力が出てくることになる。一つは、言うまでもなく「差別など存在しない」「マイノリティは特権を要求している」とやたらに言いたがる勢力だ。そして、もう一つが「そんな争点を掲げている限り、選挙には勝てないのだから黙っていてくれ」と言ってくる「リベラル」だ。マイノリティ政治を掲げる人たちが、そんな声を上げたなら、前者の勢力はすかさずその争点設定に乗ってくる。その争点によって引かれる境界線に沿って戦えば、自分たちの勝利はみえているからだ。「外国人の人権」を求める声は「外国人犯罪の脅威」「外国人による福祉の濫用」を喧伝する側には勝てない。だから、「リベラル」としては「マイノリティの人権」などと口にするんじゃないと言わざるをえない。戦う場所はそこじゃあない、ということだ。

言うまでもなく、これは「リベラル」な政治学者に対するやや意地悪な物言いだ。しかし、争点をめぐる政治はそういう性格をもつのであり、ここまで考えていないのであれば自分が何を言っているのかを自分でも分かっていないことになる。

ただ一つ問題なのは、「排除の論理」を全面的に展開したとき、切り捨てられる側がどう動くか、ということである。アイデンティティ政治を支持する側にも(少なくともネット上には)論客はいる。自分たちの口を塞ごうとしてくる「リベラル」に対しては、死力を尽くして戦うだろう。それに勝利できれば良いが、その帰結は神のみぞ知るところである。いずれにせよ、そこでは多大なリソースが費やされることになる。

傍から見るとそれは「パヨクお得意の内ゲバですね」という事態になるんじゃないかな。

「リベラル」は何を切り捨てようとしているのか

先日、Xを眺めていたら、政治学者の山口二郎先生がこんな投稿をしているのが目に入ってきた。

「少数者の人権などアイデンティティ争点にかまけて」「腹の足しにならない政治」というのは、なかなかに強烈な表現である。

さらに本日、同じく政治学者の大井赤亥先生による次のような記事を読んだ。

jbpress.ismedia.jp

この記事の一部を引用しておく。

しかし、アイデンティティ政治の独善性やダブルスタンダードは、もはやどちらが被害者で加害者かわからなくなる領域に達しており、正面からその過剰を諫めることが大事な局面に達している。野党やリベラル勢力は、一部の過激な運動と自らを明確に切り離し、新陳代謝を果たして新たな布陣を作っていくしかない。
(出典)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/94917?page=5

この記事では、明示されてはいないものの、東大五月祭の中止の理由となった爆破予告が「アイデンティティ政治を掲げる独善的な左派によるもの」という前提で書かれており、そこは大丈夫?と心配になる。が、そこは措くことにする。

なんにせよ、このお二人が論じているのが、「左派」や「リベラル」はアイデンティティ政治を掲げる連中と手を切れという主張であることは明確だ。

多少は政治学をかじった人間からすれば、お二人がこういう主張をするのは理解できるところではある。以下に掲げるのは、政治学者のE.E.シャットシュナイダーの『半主権人民』(而立書房、1972年)という著作から引っ張ってきた図である。

マイノリティが差別解消を訴えてマジョリティと闘争をした場合、その対立の境界線はAとBのあいだに引かれることになる(グレーの部分がマイノリティ)。しかし、言うまでもなく、A-Bで境界線が設定されてしまうと、マイノリティ側は少なくとも選挙で絶対に勝てない。

だから、マイノリティ側が選挙で勝つには、G-Hで境界線を引けるような争点を設定する必要がある。それは雇用をめぐる争点かもしれないし、経済格差をめぐる争点かもしれない。なんにせよ「腹の足しになる」争点だ。マイノリティにせよ「腹の足しになる政治」を必要とする点では変わりないのだから、G-Hで境界線を引いたところで、その大部分は味方にできる…はずだ。

とはいえ、G-Hで境界線を引いた場合、グレーの部分のごく一部が敵側にまわってしまう。それは、マイノリティのなかの富裕者かもしれないし、A-Bの境界線にあくまでこだわる偏狭な連中かもしれない。山口先生と大井先生が「左派」や「リベラル」から切り離すよう求めているのは、まさにその部分だと言ってよいだろう。

とはいえ、政治学を多少はかじった人間としては、民主主義におけるもう一つのポイントを思い出してしまう。それは、ある争点がもつ重みは人によって全く違うということだ。たとえば、ぼくのようなどこをどう切り取ってもマジョリティ属性しかないような立場からすれば、「腹の足しになる政治」の前では差別やスティグマの問題は何らの重要性をもたない。他方、それはマイノリティからすれば、生活や実存に直結する問題でもある。なにせ人権に関わる問題なのだ。マジョリティの立場からその両者を天秤にかけて、政争に勝つには人権より腹の足しになることが重要だと言い切るのには、どうしても躊躇してしまう。

そこで思い出したのが、石川准『アイデンティティ・ゲーム』(新評論、1992年)という著作だ。全盲という障害を抱える石川さんは、この本でマジョリティから否定的なスティグマを貼られた人びとが、そのスティグマの意味づけを変えるなどして、いかに自尊心を取り戻そうとするのかを論じている。たとえば、黒人であることが劣った存在だとみなされる状況において、「黒人は美しい」というフレーズがいかなる意味をもつのかが論じられる。そのスティグマに苦しむ人がいるなかで、「われわれにはもっと大事な問題がある」と言い募ることは、結果として「リベラル」や「左派」をさらに分裂させてしまうのではないか。そこに中道改革連合なる存在の隘路をみないわけにはいかない。

他方、石川さんはアイデンティティの政治がもつ解放的なポテンシャルを指摘する一方で、それが内向きの論理にはまり込んでしまう危険性も鋭く指摘している。集団形成によってアイデンティティが生み出される以上、それはどうしてもある種の排他性を帯びる。

ぼくのような立場から、そのベクトルがどちらの方向に向かっているのかを判断するのは差し控えたい。しかし一つ言えることは、仮に政治学者がG-Hで境界線を引きたいのであれば、そのための論理構築はもっともっと丁寧で包摂的でなければならないということだ。

「少数者の人権などアイデンティティ争点にかまけて」などという物言いは論外である。

ベンガル飢饉をめぐるあれこれ

いまから15年ほど前、アメリカの哲学者マイケル・サンデルの講義が話題になったことがある。NHK教育テレビでその様子が放送されたからだ。

その講義をまとめた著作が『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)で、これもかなり売れたのではないかと思う。

この著作の冒頭で取り上げられているのが、「便乗値上げ」をめぐる論争だ。2004年にメキシコ湾で発生したハリケーン・チャーリーは多くのフロリダ州に大きな被害をもたらした。そのさい、被災地では「便乗値上げ」が相次ぎ、人びとの怒りを買った。被災地での生活や復旧に必要な物資がいつもよりも大幅に値上げされた価格で売られることになったからだ。

それに対して、経済学者からは受給のバランスを考えれば、価格が上がるのは当然だという反論が寄せられた。ニーズがある以上、価格が上がるのは当然であり、しかも便乗値上げには大きなメリットがある。フロリダでは商品が高く売れるという話になれば、遠く離れた地域の企業も増産に踏み切り、フロリダに商品をどんどん運ぶ。結果的に、米国全土からフロリダに物が集まる状況が生まれるというのだ。

サンデルの著作は基本的に、便乗値上げを道徳をめぐる問題として、つまり人の弱みにつけこんで物を高く売りつけようとする行為は許されるのかという観点から議論している。しかし、この問題について、かなり違う角度から論じている論文に出会ったので、紹介したい。Hira Jungkow and Herbert Anderson (2024) 'Reassesing the Bengal Famine of 1943,' in Economic Affairs, vol.44, pp.31-56だ。

これは、1943年にインドで発生した大規模飢饉、いわゆるベンガル飢饉について、経済学的な観点から論じた論文だ。この飢饉では150万人から300万人が亡くなったと推計されており、当時の悲惨な状況を伝える記録は数多く存在している。ぼくもいくつか読んだが、その描写は読んでいて苦しくなるほどだ。

それではなぜ、ベンガル飢饉は発生したのか。

その理由としては、前年に発生したサイクロンの被害や天候不順、さらには稲に害をもたらす「ごま葉枯病」の蔓延といった自然災害のほか、日本軍がビルマを占領したことで米の輸入が止まったことなどが挙げられる。さらには、日本軍のインド侵略に備えてインド政庁が実施した焦土作戦が挙げられることもある。侵入してきた日本軍に食糧や移動手段を与えないために、侵略される可能性のある地域から米を移送したほか、人びとの足である小型のボートを多数破壊したのだ。このことがベンガル地方の農業に大きなダメージを与えたとされる。

しかも、当時のインドを統治していた英国は、ナチス統治下のヨーロッパ諸国で発生する食糧不足には強い関心を向けていた一方、ベンガルでの飢餓にはきわめて冷淡で、連合国軍の船を使って食糧を移送することにも後ろ向きだったという。ベンガル飢饉の責任はチャーチルにあるとする論者もいるほどだ。

ところが、先に紹介した論文の著者たちは、これまでの研究とは大きく異なる理由を提示する。はしょって言えば、当時のインドの地方政府が「便乗値上げ」を妨害したからだというのだ。

著者たちによれば、焦土作戦の影響はさほど大きくなかった。移送された米は飢饉対策にあたって放出されたし、破壊されたボートの数は全体でみればごくわずかだったという。実際、飢餓作戦が実施されていないにもかかわらず、実施地域よりも死亡率の高い地域が存在することが、その影響の小ささを示す証拠だとされる。焦土作戦などよりもはるかに大きな要因となったのが、インド経済の「バルカン化」だというのが著者たちの主張だ。

当時のインド全体でみれば、確かに食糧は足りていなかった。とはいえ、うまく配分すれば人びとがかろうじて生き延びることができるぐらいはあった。ところが、その配分がうまくいかなかったのだという。

当時のインドでは、それぞれの地方政府に対するある程度の自治権付与が進められており、物流を統制する権限も与えられていた。その自治権が大きなダメージを生み出したのが、1943年5月から7月にかけての「自由交易期間」だ。

それ以前、ベンガル政府は食糧危機に対応するために強制的な米の徴発を実施したが、その量では全くもって不足していた。そこで、ベンガル州政府は食糧に課せられていた価格統制を撤廃し、ベンガルへの米の流入を促進しようとした。結果、確かに米の価格は高騰した。そのことが飢餓をさらに加速させたと非難する論者もいる。とはいえ、この時期、確かに他の地域からベンガルへの米の流入が増えていたことを著者たちは指摘する。

しかし、この「自由交易期間」はすぐに終わってしまう。他の地方政府からの反発や妨害が相次いだからだ。ベンガルの食糧危機が自分たちの地域に及ぶことを恐れた他の地方政府は、自由交易を妨害するために様々な施策を実施し、ベンガルの商人が高値でも米を買えないようにした。それによってベンガルへの米の流入は止まり、自由交易も廃止されてしまう。結果、食糧不足の痛みはインド全体で分かち合われることなく、ベンガルにその被害は集中し、結果として数百万もの命が失われることになったと著者たちは論じる。この論文の結びの一部を引用しておこう。

「1943年のベンガル飢饉は、市場への干渉が生み出す危険性を示す反面教師なのである。」

なぜ飢餓が起きたのかを詳細に分析するのは全くもってぼくの手には余る作業なのだけれども、「おお、そんな見方があるのか」と感心したので紹介してみた。

窪田新之助『対馬の海に沈む』を読んで

話題のノンフィクション、窪田新之助『対馬の海に沈む』(集英社、2024年)を読み終えた。評判に違わぬ傑作だと思う。

対馬の海に没したJA職員による巨額の汚職事件がテーマ。良からぬ出来心を抱いた一職員による事件などではなく、この事件の背後には巨大な闇があることを著者は解き明かしていく。

本書についてはすでにいろいろな人が語っているので、ここでは本筋から少し離れた話をしたい。本書の「主人公」であるJA職員には収集癖があり、高級時計や自動車などのほか、漫画『ワンピース』のフィギュアを収集していたという。『ワンピース』は海賊船の船長ルフィとその一味の活躍を描いた作品だ。

件のJA職員は、フィギュアを集めるのみならず、自身も「一味」をつくり、そのメンバーは大切にする一方、歯向かう人間を容赦なく排除していったとされる。

『ワンピース』については、10年以上前にこのブログに書いたことがある。

当時の感想として、主人公ルフィは仲間をとても大切にする一方、自分の目の届かないとこにある「正しさ」には全く無関心なキャラクターだと思えた。彼にとって重要なのは、あくまで目の前にある状況だけであって、いわば「半径5メートル以内の正しさ」だけが問題なのだと。

もっとも、原作の50巻を過ぎたあたりで追いかけるのを断念したので、そこから先の展開は分からない。

ともあれ、件のJA職員の行動原理は、この描写に綺麗にはまるように思う。彼にとって重要なのは家族と「一味」なのであって、その外部にあるルールなどは攻略し、利用するための対象でしかない。

しかし、ここでもう少し考えたいのは、そのルールを作っているのはいったい誰なのかということだ。ここで思い出すのが、社会学者の藤田弘夫の著作『都市の論理』(中公新書、1993年)の以下のような指摘だ(pp.167-168)。

農民といえども、その生活の大部分を秩序づけているのは、実は都市のルールである。農民の日々の生活は以前に受け入れた都市のルールに沿って営まれているのである。しかし農民はやっとのことで都市のルールを定着させたかと思えば、すぐまた別のルールが都市からやってきた。(中略)

都会人が<革新性>や<開放性>を示すのに対して、農民が<保守性>や<閉鎖性>を示す理由がここにある。しかもそのルールが農民を対象とするものであったとしても、それが都市で生み出されているものである以上、都市の利害が巧妙に滑り込んでいた。

詳細は『対馬の…』をぜひ読んでもらいたいところだが、一人のJA職員がこれほどの汚職を引き起こすことができた背景には、東京都千代田区に位置するJA共済連の全国本部が設定し、都道府県本部を通じて各地のJAに割り振られる「ノルマ」の存在があったという。この「ノルマ」が彼の巨大な力の源泉になっていたというのだ。

実際、本書の著者である窪田の記述の端々から垣間見えるのは、汚職事件の責任を一人のJA職員に押し付けて幕引きを図ろうとする組織原理、さらにはJAグループという巨大な組織が抱える歪みに対する怒りだ。

前掲の藤田の言葉を借りるなら、件の職員は「都市のルール」を巧みに利用し、そこから得られた富を自らの家族と「一味」に分け与える海賊船の船長だった。そして、それが破綻したとき、悪魔の実を食べた彼は、海に沈むしかなかった。

本書は一方において閉鎖的な「ムラ社会」の怖さを描き出している一方、そこで本当に問われているのは、東京を中心とした集権的な支配構造にあるのではないか。そしてそれは、JAグループに留まらず、日本社会全体を覆う問題でもあるように思う。

中井遼『ナショナリズムと政治意識』(光文社新書)

中国の世論動向に関する研究報告を聞いていると、日本で言う「右傾化」に近いニュアンスで「左傾化」という言葉が使われることがある。なるほど、国が違えば、左右の意味も違ってくるのかと思う。

このように、「右」や「左」という言葉がもつ意味は、国や文脈によって変わる。たとえば、東欧では経済面で右派的な主張をする政党は、社会文化的な面ではリベラルな主張をすることが多いという。

そしてさらに、「右」や「左」がナショナリズムとどのような関係にあるのかも大きく異なる。たとえば、現在の日本ではナショナリズムというと右派的なものとみなされがちだが、戦後しばらくは左派とナショナリズムとの結びつきのほうが強かったと言われる(このあたりは、小熊英二『<民主>と<愛国>』(新曜社)に詳しい)。

中井遼さんの『ナショナリズムと政治意識 「右」と「左」の思い込みを解く』(光文社新書、2024年)は、計量データを駆使しながら、右、左、リベラル、排外主義などとナショナリズムとがどのような関係にあるのかを国際的な視野で示してくれる好著だ。

副題の「思い込みを解く」にあるように、政治意識にまつわる先入観を大きく揺さぶってくれる。たとえば、第4章で扱われるナショナリズムとリベラルとの関係。リベラルという言葉自体が非常に曖昧ではあるのだが、それを踏まえたうえで興味深い知見が示される。一つだけ紹介しておきたい。

ナショナリストが性差別的である傾向が強い国々...。たとえばアメリカや日本、イギリスやポーランド、韓国と台湾といった国々がここに入る。だが、ナショナリズムと保守的な性別役割分業意識は、エストニア、フィンランド、メキシコといった国々では、あまり結びついていない。さらに、スウェーデン、カナダ、ノルウェーといった国々では、強いナショナル・アイデンティティを持つことと、男女平等を肯定することの間に正の相関がある。
(出典)p.112

このように、ナショナリズムはさまざまな思想や運動と結びつく。その背景には、その国や地域の政治体制や歴史、あるいは世代といった様々な要因があり、より詳細な分析のためにはフォーカスをもっと絞る必要がある。

それでも、本書のような国際比較によってみえてくるものはきわめて重要で、日本でもどこでも、特定の国や地域を分析するうえでこういった観点から相対化する視座をもつことは重要ではないかと思う。

脚注で拙著に言及されていることもあり笑、超おすすめの一冊である。