擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

コロナ禍で人びとは「騒ぎすぎ」なのか

「モラル・パニック」としてのコロナ禍

 いつものようにツイッターを眺めていたら、評論家・思想家の東浩紀氏による以下のツイートが目に入ってきた。

 ここで東氏が言っていることの一つは、コロナ禍による日本の被害は欧米に比べて軽微であるのに、日本では「空気」によって騒ぎが起きてしまっているということだ。

 実際にはそれほど大きな被害が出ているわけではないのに、パニックが起きてしまう。これはメディア研究や社会学の領域で言えば、モラル・パニック論の枠組みで説明できる。

 大雑把に言うと、モラル・パニックとは、人びとのあいだに「特定の集団のせいで社会全体が危機にさらされている」という認識が生まれ、専門家やメディアなどが騒ぎ立てることで社会不安やパニックが発生するという状況を指す。

 たとえば、日本の場合、20世紀末から今世紀初頭にかけて「少年犯罪が急増・凶悪化している」という主張がさかんに行われたことがあった。メディアによって少年犯罪がセンセーショナルに取り上げられ、「今の子どもたちは命の重さを知らない」といったことがしばしば語られた。

 その影響なのか、この時期には「体感治安の悪化」も話題になった。つまり、多くの人びとが「治安が悪くなった」という不安を抱えるようになったということだ。このような一連の動きがモラル・パニックである。

 この事例からも明らかなように、もともとのモラル・パニック論では、パニックの発端となるのは「特定の集団」(典型的には犯罪者)だとされる。ただし、この枠組みを少し拡張すれば、何らかの問題を「専門家」やメディアなどが騒ぎ立てることで、社会不安やパニックが発生する過程の分析へと応用することができる。

 実際、それをコロナ禍にあてはめるならば、以下のような流れになるんじゃないかと思う。

海外での感染拡大やダイヤモンドプリンセス号での事件が発端となり、専門家と称する人びとやコメンテーターがテレビの情報番組で人びとの危機感を煽った。政府や自治体、教育機関などはそうした空気に煽られ、パニック気味の対応を取らざるをえなくなり、本来は必要のなかった休業措置や時短営業などが実施され、大きな経済的損害が発生した。さらには、「自粛警察」のような人びとを生み出し、マスクをしていない人びとが白い目で見られるなど相互監視による息苦しい社会へと帰結した。

モラル・パニック論の前提

 ところで、モラル・パニック論の前提となるのは、発端となった問題が実際には「大したことのない問題」だということだ。

 先に挙げた少年犯罪の例でいえば、実際には当時(今も)の少年犯罪の動向はきわめて低い水準で推移していた。当時の子どもたちは「命の重さ」を大人よりもよほど理解していたということだ(このあたりの話は、浜井浩一芹沢一也による名著『犯罪不安社会』(光文社新書、2006年)に詳しい)。

 モラル・パニック論的な語りの醍醐味は、このように「当時は大騒ぎになっていたが、実際には大したことのない問題だった」「な、なんだって~!!!」という驚きを与えてくれるところにある。いわゆる「真実の暴露」だ。

 逆に言えば、モラル・パニック論的な語りが成立するためには、発端となるのが「大したことのない問題」でなければならないということになる。ここにモラル・パニック論的な語りの難しさがあり、批判が集中するのもこの部分である。

 つまり、誰がどうやって「大したことのない問題」かどうかを決めるのか、ということだ。

「比較」という方法

 ここでまたしても、先の少年犯罪の事例に立ち返ると、20世紀末から21世紀初頭にかけて、それ以前との比較では確かに少年犯罪は増えていなかった。その意味で、この時期の「少年犯罪の急増・凶悪化」という主張は明らかに誤っていた。

 しかし、この時期に少年犯罪がゼロになったわけではない。少年犯罪が重大な問題ではないというのは、あくまで過去と比較しての話であり、問題そのものが完全に消滅したわけではないのだ。

 このように、モラル・パニック論において発端となった出来事が「大したことのない問題」だとされる根拠は「比較」であることが多い。比較が根拠とされないのは、いわゆる魔女狩りのように発端となる出来事がそもそも存在しない場合だけだ。

 したがって、新型コロナの感染拡大は完全なでっち上げだという陰謀論的な語りを採用しない限り、今回のコロナ禍においてモラル・パニック論的な語りを行うためには比較という方法をとらざるをえない。

 そこでよく持ち出されるのが、他国や他の死因との比較である。元内閣官房参与高橋洋一氏が日本のコロナの感染状況について「さざ波」「屁みたいなもの」と語ったのも、やはり欧米諸国との比較に基づく発言だった。このエントリの冒頭で紹介した東氏のツイートも同様だ。

 あるいは、他の死因との比較が行われることも多い。インフルエンザの死者数や交通事故の死者数が持ち出されることもある。それらとの比較によって日本のコロナ禍は「大したことのない問題」だという位置づけがなされている。

 たしかに、比較という方法には、それを行う者の視野を広めてくれる働きがある。ある現象や問題について、他の時代や社会との比較を行うことで、それまでは見えなかった側面が見えてくるということは頻繁にある。社会科学で比較という方法がさかんに用いられるのはそのためだ。

 だが、安直な比較には、物事をかえって見えにくくしてしまう一面もある。

その数字はどうやってもらたされたのか?

 メディアごとに数字のばらつきがあるのだが、現時点での日本における新型コロナウィルスの死亡者数はおよそ1万5千人である。米国の約60万人、英国の約12万8千人などと比較すれば、その差は歴然としている。また、日本における超過死亡数(感染症を原因とする死亡のみならず、全ての死亡数がいつもと比べて減ったか増えたかの指標)にも特に変化はなく、コロナのせいで死者が例年より増えたということもなさそうだ。

 これらを踏まえると、他の社会、もしくは過去との比較においてコロナ禍は「大したことのない問題」であり、むしろ騒ぎすぎのほうが問題だと結論づけることは確かに可能だ。

 だが、こうした比較によって見えにくくなるのは、そもそも1万5千人という数字がどうやってもらたされたのかということだ。

 それは、人びとの危機意識の高まりによる日々の感染予防や、現場で必死で対応する医療関係者の尽力によって初めて可能になった数字ではないだろうか。(念のために言っておくと、他国では人びとの危機意識が足りなかったとか、医療関係者が頑張っていなかったとか、そういうことを言いたいわけでは全くない。あくまで、人びとの努力によってもたらされた絶対的な数字としての1万5千人ということだ。追記/もっと救えた命もあったはずだという論点もありうるが、ここでは扱わない)

 あくまで推測でしかないのだが、もし仮に多くの人びとがコロナ禍を「大したことのない問題」だと認識していたなら、仮に専門家やメディアが警戒を呼びかけなかったとすれば、全く違った数字になった可能性は高いと思われる。インフルエンザの感染者が激減するほどの行動様式の変化があってなお、コロナの感染者は増大したのだ。

 1万5千人という数字だけを見て、比較に基づいてそれを「さざ波」と呼ぶことからは、そうした過程を無視し、コロナに右往左往する人びとの愚かさを嘲笑するという「いやらしさ」をどうしても感じてしまう。

 それが、コロナ禍をモラル・パニック論的な観点から語ることにぼくが抵抗を感じる理由だ。

結局はポジション・トークなのかもしれない

 とはいえ、コロナ禍をモラル・パニック論的な観点から語りたくなるのも理解できなくはない。

 そもそも、ぼくが上で述べたような立ち位置を取れるのは、つまるところ大学という安楽な場所に身を置いているからだと言える。身の置き所が変われば、全く異なることを言い出す可能性は否定できない。

 たとえば、いまもSNS上では、大学に対面授業の再開を訴える声がしばしば見られる。さまざまなアンケートをみると対面授業を断固として支持する学生は必ずしも多数派ではないのだが、それでも「大学に行きたい」という真摯な声を無視するのは大学関係者として許されないだろう。

 ともあれ、対面授業の再開(または拡充)を訴えるそうしたツイッターアカウントをみると、その多くが「コロナは大したことのない問題だ」というモラル・パニック論的な認識に立脚したツイートやリツイートをしていることがわかる。

 もちろん、そのような認識を抱いているがゆえに対面授業の再開を求めているのかもしれない。しかし、大学に行きたいからこそ、そうした認識に引き寄せられている側面もあるのではないだろうか。人が自らの願望に沿って現実認識を形成するのは決して珍しいことではない。

 だとするならば、コロナは「大したことのない問題」だという認識も、「コロナは深刻な問題」だという認識も、結局はポジション・トークへと帰着するのかもしれない。仮にぼくが自営業を営んでいたとして、コロナ禍によってその経営が危機に瀕しているとすれば、実はコロナは「大したことのない問題」なのだという主張は大変に魅力的にみえるに違いない。

 そして、仮にそれがポジション・トークであったとしても、それ自体は決して責められるような話ではない。たとえば医療関係者と自営業者、大学関係者とでそれぞれに物事の見え方が違ってくるのはやむを得ないところがある。日々の生活がわれわれの認識にもたらす影響はやはり大きい。

 ただまあ、それでも「さざ波」とか「屁みたいなもの」という言葉のチョイスはいかがなものか、とは思うのだけれど。

結局は「制度」が大切なのだ、という話

いまから20年以上前、英国のホームレス報道ついて分析した論文で、以下のような指摘がなされている。

よりリベラルであったり、ホームレスに対して同情的なアプローチに立脚する一部のメディアは、その他のメディアに劣らずステレオタイプに依拠している。公衆の一般的な態度を反映して、それらのメディアは以下の事実を認めることに困難を覚えてしまう。その事実とは、ホームレスである人物が好ましくない人物であると同時に、支援を必要としている人物でありうるという事実、多くのお金を飲酒、またはドラッグに費やしすぎると当時に十分に食べられるだけの支援にも値しうるという事実、部分的には自分自身の行為のせいで最後の家を失ったものの、いままさに頭上に屋根を必要としているという事実である。


(出典)Platt, S. (1999) ‘Home truths: media representations of homelessness,’ in B. Franklin (ed.) Social Policy, the Media and Misrepresentations, Routledge, p.113.

ホームレスの方々に同情的な報道姿勢をとるメディアは、人びとの同情を集めるため、彼らをきわめて善良な存在として描き出す。ところが、どんな集団であっても、良い人もいれば不快な人、困った人もいる。そのため、「良い人たち」というステレオタイプに依拠した報道は、そうした事実とうまく折り合えなくなってしまうのだ。

ホームレスの方々に批判的な報道はその欺瞞を突いて、彼らがいかに不快で迷惑な存在なのかをこれまたステレオタイプ的に描きだすことで、彼らに対する支援など必要ないのだという方向へと人びとを誘導しようとする。彼らがホームレスなのは「自己責任」だというわけだ。

ただし、それはメディアだけの責任というわけではない。上の引用文に「公衆の一般的な態度を反映して」という一節があるように、それはむしろ世間一般の人びとの考え方の反映でもあるからだ。

過去、さまざまな社会調査で「どういう人びとであれば社会的な支援に値すると考えるか」が問われてきた。それらの調査を概観すると、以下の5つの基準が認められるという(下記の「例」はぼくが追加した)。

1.コントロール 自分で自分の環境をコントロールするのが難しい人びとほど、支援は支持されやすい(例 子ども)

2.必要性 支援の必要性が大きいほど、支援は支持されやすい(例 明日の食事にも困るほどの貧困)


3.アイデンティティ 自分たちと近しい存在だとみなされるほど、支援は支持されやすい(例 移民や難民への支援は支持されにくい)

4.態度 感謝の念を示していたり、従順であるほど、支援は支持されやすい

5.互酬性 過去には仕事をし、納税をしていたなど、社会に貢献していた経歴があると、支援は支持されやすい(例 一度も働いたことのない人への支援は支持されにくい)


(出典)van Oorschot, W. (1999) 'Who should get what, and why? :On deservingness criteria and the conditionality of solidarity among the public,' in Policy and Politics, p.36.

ここで注目したいのは4だ。多くの人は、支援を受ける人びとに対して「感謝の念」を示してほしいと思う。逆に、それがないと不満を覚えてしまう。

そのため、貧困者に批判的な報道では、彼らが感謝のカケラもないような態度をとっている様子がしばしば描き出される。多くの納税者は「こんな奴らのために自分が払った税金が使われるなんて許せない」という感情を抱くだろう。そこから、こんな連中のための福祉なんて必要ない、という方向へと導かれることになる。

しかし、最初の引用文でも示されているように、たとえ「嫌な人」「困った人」であっても、それは支援が不要だということにはならない。「良い人だから助ける」「嫌な人だから助けない」というのは、人格コンテストのようになってしまい、社会的に大きな問題を生み出してしまう。

だからこそ、最終的には「制度」が重要になってくる。誰が支援を受けられるのかを、ある意味では「お役所的」に判断することが求められるのだ。もちろんそれは、個別事情を勘案しないということではなく、支援する/しないを印象で決めたりしない、ということだ。

ただ、ネットを含むメディア上での議論は、どうしても「良い人か、嫌な人か」「感謝しているか否か」といった人格的な部分に集中してしまう。問題提起の時点ではそういう話になるのは避けられないだろうが(社会問題の提起には、人びとの注目の奪い合いという側面があり、なんらかの人格的なアピールが欠かせない)、そこからどのようにして非人格的な制度の議論へと移行させることができるかが重要になるだろう。

そして、そこで初めて、制度を実際に運用する立場とのすり合わせを始めるべきだろう。社会的なリソースに限界がある以上、そうしたすり合わせは何らかのかたちで絶対に必要になる。そのさい、支援を必要とする側の人格イメージと、支援をする側の人格イメージとを対比させ、それらの印象に基づいて賛否を決めるような議論は、どこまで行っても不毛だ。

…と、ここまで書いてみて、難しい話だなあと自分でもつくづく思うのだが、結局はそういうところに落ち着かざるをえないのではないだろうか。

「弱者男性」をめぐる境界線

 さいきん、ネットでよく「弱者男性」にかんする主張を目にするようになった。フェミニズム運動が活発化するなかで、「男性」と一括りにされ、「権力をもつ側」に位置づけられることに対する反発だと言えるのではないかと思う。この問題については、以前にもこのブログで書いたことがある

 「虐げる側の男性」と「虐げられる側の女性」という対立図式では、男性のなかでも虐げられている集団が見えなくなってしまう、という問題意識がそこにはある。そこから、フェミニズムを支持する人びとに対するさまざまな批判が展開されている。

 政治的、社会的な対立が発生した場合、重要なのは「どこに境界線を引くか」である。かつてのように労働運動が華やかなりしころであれば、その境界線はまず「資本」対「労働者」との間に引かれるものであり、その境目はそれなりに明確であった(企業内労組等々の話はややこしくなるので、ここでは省略)。

 ところが、労働運動が後退し、それに代わってさまざまな社会運動が立ち上がるようになってくると、どこに境界線を引くべきかが重要な問題になってくる。境界線の引き方しだいでは多くの人びとの支持を獲得できる一方、別の引き方をすれば特定の集団を孤立させることもできる。

 たとえば、鉄道ストライキが「苛酷な労働を強いる資本」対「劣悪な環境に置かれた労働者」との線引きで捉えられるか、それとも「ストで不便を強いられる乗客」対「迷惑をかえりみないストライキ参加者」との線引きで捉えられるかで、その印象は全く変わってくるはずだ。

 このように人間集団のなかにはさまざまな境界線を引くことができる。そして、そのなかでどの線を目立たせるのかを決めるのが、まさに政治なのだ。

 この点について、政治学者の杉田敦さんは次のように述べている。

交差した境界線のうちどれが優勢になるのかは、事実上の力関係によって決まる。もう少し正確に言えば、どの境界線を支持するような実践を人々がより強力に行っているかが決め手となる。例えば、国境が相対的に他の境界線よりも重要であると多くの人々が考え、宗教や民族や階級などの他のありうる境界線よりもそれを重視する行動をとるならば、そのかぎりにおいて、国境は強固となる。

(出典)杉田敦(2005)『境界線の政治学岩波書店、p.20。

 ぼくの研究テーマに即していえば、戦前の英国によるインド統治では、英国人が被支配者のあいだの境界線を意図的に顕在化させることで、彼らが団結して英国に対抗してこないよう工夫していた。しかも、「彼らはお互いに仲が悪いから、自分たちがいないとすぐに内戦になってしまう」という論理を展開することで、植民地統治の正当化までしてしまう。分断統治とはこういう風にやるんだ!と思わずいいたくなるほどの手腕だ。

 話を戻すと、「弱者男性」についても、どこで境界線を引くかで、その議論の方向性は大きく変わってくることになる。たとえば、社会のなかの様々なポストや仕事をゼロサムゲーム的に捉えれば、つまり女性が何かを得れば男性が損をするという図式で捉えるなら、「男性」対「女性」という図式が前面に出でこざるをえなくなる。

 他方、そうした図式を離れて、資本からより多くの賃金や好待遇を引きだすための闘争として捉えるなら、そこでの境界線はかつてのように「資本」あるいは「政府」と「労働者」とのあいだに引かれることになるだろう。「弱者男性」と「弱者女性」とが同じ陣営に属することになり、そこには共通の利益も生まれることになる。

 もっとも、そうなると今度は「正規労働者」対「非正規労働者」とのあいだに境界線が引かれて、そこに横滑りしていくという可能性もある。そこでは、正規労働者の待遇を悪くするかわりに非正規労働者の待遇を改善する…という別のかたちでの分断統治が発生したりもするのだが、ここでは触れない。

「結婚していない」ことがアイデンティティを傷つける

 労働という面ではなく、恋愛や結婚という観点から考えると、話はもっとややこしくなる。まず、恋愛や結婚ができないということが人びとを深く傷つけてしまうという問題は確かにある。以下は社会学者の数土直紀さんによる 「社会階層と社会移動全国調査(SSM調査)」の結果にもとづく分析だ。

結婚しないで未婚のままでいることは、その人の生活満足度を下げてしまう。これは、1980年代の頃と変わらない。もしほんとうに結婚するかしないかは本人の自由であり、ただ本人の選好だけによって配偶者の有無が決まっているのだとすれば、このような関係をみいだすことはできないはずである。このような関係があらわれるのは、やむをえず未婚にとどまっているひと(いいかえれば、結婚をしたくてもできない人)が少なからず存在しているからだと考えられる。そしてさらに、2010年代になると今度は「結婚しないで未婚のままでいる」ことが階層帰属意識をも下げてしまうようになったのである。つまり、1980年代の頃とは異なり、未婚状態は生活に対する満足度を下げるだけではなく、そのひとの(階層)アイデンティティをも傷つけるようになってしまったのである。

(出典)数土直紀(2013)『信頼にいたらない世界 権威主義から公正へ』勁草書房、p.74。

 階層帰属意識とは、要するに社会のなかで自分がどのランク(上、中の上、中の下、下の上、下の下)に位置しているのかという主観的な意識を指す。学歴や職業などがそういった意識に影響を及ぼすのだが、「結婚している/していない」も影響を及ぼすようになったというのだ。社会的地位では評価されているような人が、結婚していないという一点で「自分は負け組」だと感じるかもしれない、ということでもある。

 上記の調査結果は男女別には示されていないが、男性のほうが生涯未婚率が高いことを踏まえると、男性により多く生じやすい現象だと言えるだろう。

 それでは、なぜこういう現象が生まれるのか。重要な要因としては、恋愛または結婚が、人間としての評価と深く結びついてしまったということがあるだろう。つまり、「モテない」ということが、そのまま自分には何らかの欠損があるという自己評価につながってしまうということだ。

 個人的な体験談でいえば、自分の能力に対する不信感も相まって、大学生のときにはこういう劣等感にものすごく強く苛まれていた。女性から選ばれないということは自分の容姿や人格に深刻な問題があるのではないか…という悩みだ。今にしてみれば、大変に浅はかではあるのだが、世間的には「モテる」と言われている大学に通っているはずなのに、なぜ自分は全くモテないのか…という思いもあったことも告白しなくてはならない。

非モテ」問題はいかに解決されるのか

 では、これを社会の問題として、いかに解決していくべきなのか。一つの方向性としては、モテるように努力せよ、というネオリベ的な解決案がある。恋愛市場において選ばれるよう市場価値を高めよ、というやつだ。

 しかし、個人で努力するぶんにはさておき、社会の問題をそういうノウハウへと落とし込んでいく解決策には賛同しかねる。

 もっと過激な方向として、「モテない男性に女性をあてがう」という女性の人権を全く無視した方策も考えらえるかもしれない。ただ、それは近代社会をやめるという覚悟がないと採用できないし、万が一実現したとしても、解決をめざした問題とは別の問題や苦しみが生じるのは確実だ。

 それ以外の方向としては、個々人の自由意志を妨げない範囲で、恋愛や結婚の機会を増やすということも考えられる。それはマッチングアプリなど、商業ベースですでに様々な試みがあるのだが、強制性を欠く以上、結局は恋愛市場的な話に落ち着かざるをえない。おそらく根本的な解決にはつながらないだろう。

 だとすれば、さらに別の方向性として、そもそも恋愛や結婚と人間としての評価が結びついているという状況を改めていくよりほかないのではないか。つまり、時間はかかっても、恋愛や結婚をしていなくても恥じ入るようなことではないという価値観を涵養していくという方向性だ。実際、近年のエンタメ作品のなかには、こうした方向性をかなり明確に打ち出しているものもあるように思える。この方向性であれば、さまざまな性や立場の人が賛同できるはずだ。

 もっとも、仮にこうした方向で考えるとしても、先に述べた境界線の問題はおそらく避けられない。未婚や少子化を国家の問題として捉え、これを解決すべき問題とする立場とは、どうしても相性が悪くなってしまうからだ(絶対に対立する、というわけではないと思うが…)。そこでの境界線は、恋愛や結婚を推奨する社会的圧力を維持したいという立場と、そこから自由になろうとする立場とのあいだに引かれることになるだろう。

 先に述べたように、この問題でどこに境界線が引かれるかは、今後とも激しい論争が繰り広げられていくだろうし、ぼくが思いもよらないところに対立軸が設定される可能性もあるだろう。

 いずれにせよ、「弱者男性」の存在は、社会の問題たりうる一方(それを存在しない問題だとは言いたくない)、フェミニズムとの衝突が不可避だというわけではないということは強調しておきたい。

見る側/見られる側の物語

 話題のドラマ『MIU404』の最終回が終わった。

 以下は壮大なネタバレ記事なので、視聴していない人はここから先は読まないように。とても面白いドラマなので、見て損はない(おすすめ)。

「見る側」でいようとする意志

 というわけで、本題である。

 最終回のストーリーはわりと難解で、いろいろな解釈を許すつくりになっている。筆者として思うのは、これは「見る側/見られる側の物語」として解釈できるのではないか、ということだ。

 このドラマのラスボス的存在は、久住なる人物である。おそらく本名ではない。

 劇中、手下として使っていた人物から助けを求められたさい、すげなく断った久住は自らの名前が「クズを見捨てる」という意味だと語る。

 ただ、その後の展開をみても、久住の本質は「見捨てる」ことにあるというよりも、「見る」ことにあると言ってよいだろう。彼は徹頭徹尾、他人を「見る」側でいたいのだ。

 もちろん、ただ他人を見ているだけでは面白くない。そこで薬物を流すといったやり方でそれをより面白くしようとはする。そのうえで人びとを眺めることを楽しむのだ。

 その一方で、久住は「見られる」ことを徹底的に嫌う。スマホにつけた特殊なカバーのおかげで彼の姿は監視カメラには映らない。逮捕された後にも、「俺はお前たちの物語にならない」と語り、一切の証言を拒否することで自らの過去を見せようとしない。

「見られる側」の警察

 それに対して、主人公たちは基本的に「見られる側」である。

 本来ならば見る側であるはずの警察が、見られる側であるという点にこのドラマの逆説はあると言ってよい。

 それがもっとも顕著に表れているのが、主人公たちの上司である桔梗隊長である。訳ありの女性を自宅に匿っていることから、盗聴器を仕掛けられるところからはじまって、ネット上で顔写真が拡散するところまで、とにかく他者の視線にさらされる存在なのである。

 主人公たちにしても、彼らが乗るメロンパン号は、大変に目立つ仕様になっている。彼らの存在は、人びとの視線を惹きつけざるをえないのだ。

 実際、劇中でそのメロンパン号が無数の人びとの注目を集めるシーンがある。その目撃情報が次々とSNSに上げられることで、彼らの移動経路が丸わかりになり、結果的に久住の逃走を助けることになってしまう。

 それだけではない。主人公たちがネット上で久住にアクセスしようとする場面がある。結局、主人公側のPCは久住にすでに乗っ取られており、久住に見られていることが判明してしまう。

 このドラマでは、主人公たちが「見よう」とする試みはしばしば失敗する。その最たるものが、主人公の一人である伊吹が相棒の志摩を盗聴したシーンだろう。伊吹は志摩が自分の悪口を言っているところだけを聴き、イヤホンを引き抜いてしまう。その後に志摩が伊吹を認める発言をするのを聞き逃してしまうのだ。その結果、二人の仲は一時的に決裂してしまう。

 しかし、言うまでもなく野木亜紀子の脚本は、「見られる」ことなく「見よう」とだけする久住を肯定しない。

 物語の終盤、怪我をした久住は、それが警察官による暴行によるものだという証言を屋形船に乗る仲間に頼もうとする。ところが、肝心の仲間たちは薬物でラリっており、久住をまともに見てくれない。徹底して「見られない」ように生きてきた久住が「見られない」ことによって救いを失うのだ。
 

「監視文化」の充満した社会で

 ここでちょっと社会学的な話をすると、社会学者のデヴィッド・ライアンは「監視国家」や「監視社会」に加えて「監視文化」という概念を提起している。

 監視国家や監視社会というのは、どうしても国家や企業が見る側であって、一般の人びとは見られる側だという印象を生み出してしまう。もちろん、そういう構図がなくなったわけは決してない。

 しかし、現在において出現しているのは、一般の人びとも様々な情報ツールを駆使して積極的に監視に加担する状況なのだとライアンは語る。それを説明するために持ち出されるのが、監視文化という概念なのだ。

 他人のSNSのカウントをマメにチェックして、その動向を気にかけるというのはその典型だ。以前、ぼくが指導するゼミの学生が「先輩のインスタグラムのストーリーを眺めていれば、誰が就活で内定をもらったのかはだいたい分かる」と言っていたことがある。監視文化はわれわれの日常に浸透しているのだ。

 けれども、人は見るだけではプレイヤーになれないし、他人とのつながりを生み出すこともできない。主人公たちに対するネット上での誹謗を鎮静化させるのは、結局のところ、これまでの物語で主人公たちを見てきた人びとなのだ。

 警察でありながらも見られる側であるという主人公たちが、あくまで見るだけの側に留まろうとする久住に勝利する物語。『MIU404』はそういう物語としても解釈できるのではないだろうか。

(参考文献)

デヴィッド・ライアン(2018=2019)田畑暁生訳『監視文化の誕生 社会に監視される時代から、ひとびとが進んで監視する時代へ』青土社

「女神」はなぜ問題なのか

メディアの注目を集めた少女の声

2014年7月、イスラエル軍によるガザ地区侵攻が開始された。そのさいに国際的な注目を集めたのが、ガザ地区に暮らす一人の少女のツイートである。

少女の名はファラ・ベイカー、当時16歳であった。彼女は得意の英語を駆使して、紛争地域で暮らす自身や家族の心情、周囲で起きた出来事についてのナラティブ(語り)を立て続けにツイートした。

イカーのツイートは海外のメディアにも取り上げられるようになり、イスラエルに対する反発を強めるうえで大きな役割を果たしたとされる。

もっとも、ガザ地区から英語で情報を発信したのはベイカーだけではなかった。それではなぜ、彼女のツイートは大きな反響を呼んだのか。

この点について、デイヴィッド・パトリカラコスは著書のなかで次のように述べている(パトリカラコスはベイカーを一貫してファーストネームのファラと呼称しており、なんとなく気持ち悪いのだが、ここでは原文のまま引用する)。

…ファラを特別な存在にしたのは彼女がファラだったからだ。若くてテレビ映りがよく、か弱い少女であり、肌も白い。そしておそらく西洋の視聴者にとって最も大きなポイントは、ファラが青い目をしていたことだろう。…もしあご髭を生やした浅黒い肌の40男が、同じような受難のナラティブをツイートしたところで、ファラほどの関心は掻き立てなかったに違いない。
(出典)デイヴィッド・パトリカラコス、江口泰子訳『140字の戦争』早川書房、p.53。

パトリカラコスの上記の指摘はおそらく妥当だ。以前からこのブログで何度か言及している、犯罪被害者のなかで多くの人びとの同情を集める条件の一つに「脆弱であること」が含まれていることにも通ずる話だろう。実際、パトリカラコスが指摘するように成人男性がこういった文脈で同情を集めることは難しいと言わざるをえない。

ただし、ここで言いたいのはそれが不公平だということではない。実際のところ、政治や戦争という場において、外部からの同情を集めるという文脈以外ではもっとも力を持たないのがベイカーのような存在なのであり、「若い女性の声ばかりが取り上げられるのはずるい」というのは、メディア上での露出だけに目を奪われ、そうした構造の存在が見えなくなっているだけの話である。

このエントリで論じたいのは、そうした構造があるにしても、紛争であれ政治対立であれ、特定の人物に関心が集中しすぎてしまうことの弊害である。

「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」

イカーのような存在は、たしかに遠く離れた地域での出来事に対して無関心に流れやすい一般の人びとの注目を集めるうえでは役に立つ。だが、そこにはいくつかの問題がある。

一つは、コミュニケーションの問題だ。

人びとが対等な立場で語り合える空間としての「市民的公共圏」のモデルに従えば、そこでは「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」が重要だとされる。つまり、どんなに偉い人物であろうとも下らないことを言えば批判されたり、スルーされる一方で、無名の人物であっても優れた発言をすれば注目されるということだ。

もちろん、これは「あるべき姿」であって、現実のコミュニケーションはそんなふうにはできていない。凡庸なものであっても芸能人のツイートは大きな注目を集めやすい状況を見れば、「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」が重要だと言っても空しくなるだけである。

それでも、発言者の年齢、肌の色や目の色といった属性によって発言力が異なるという状況は、たとえ注目を集める立場にある側にいたとしても、つねに望ましいとは限らない。

仮にベイカー本人と話をする場合に「あなたのツイートが注目を集めたのは、あなたが若くて、肌が白く、目が青いからだ」と言い出せば、あまりに礼を欠いた振る舞いということになろう。

ある人物の発言の価値をその属性に還元させ続けることは、その人がどれだけ自身の発言に工夫をこらそうとも、勉強して知識を増やそうとも、その努力を否定することになってしまうのだ。(したがって、何らかの属性によって注目が集まるという現象は確かに存在するとしても、それを当の本人には言わないほうがよいだろう)
 

問題の全体像が見えなくなる

そして、特定の人物が過度の注目を集めることのもう一つの弊害は、問題の全体像がかえって見えづらくなってしまう可能性があるということだ。

一例を挙げると、1993年7月、英国のBBCボスニア・ヘルツェゴビナ紛争においてイルマという当時5歳の少女が負傷し、国外でなければ治療できないという報道を行った。この報道が大きな反響を呼び、当時の英国首相であるジョン・メージャーは「イルマ作戦」を決行している。この作戦によってイルマを含む数十人の子どもたちが飛行機で英国へと輸送され、治療を受けることになった。

このこと自体は「イイ話」であるようにも思える。だが、この作戦において大人は支援対象から外されたのみならず、たまたまメディアで取り上げられた少数の子どもばかりに注目が集まった結果、その背後にいる膨大な数の人びとの苦しみから人びとの関心が逸らされてしまったという批判も行われている。つまり、イルマが紛争地から救い出されたことで(もっとも、集中的な治療も空しく、その後に彼女は亡くなっている)、あたかも紛争全体が解決されたかのような錯覚が生み出されてしまったというのだ。

パレスチナ紛争であれ、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争であれ、気候温暖化であれ、香港の民主化運動であれ、複雑な問題を伝えるにあたって特定の人物に注目するという手法は、たしかに明快なストーリーを提供してくれる。したがって、それを全否定するつもりはないが、そのリスクを踏まえたうえで、より大きな構造へと目を向けさせる努力があってほしいとは思う。

ネット上で社会学者の評判はなぜ悪いのか

 こんなタイトルのエントリを書くというのは、正直、悩ましい。

 というのも、ぼくは社会学の正規教育は受けておらず、自分が社会学者だとはちょっと名乗れないからだ(制度的な理由で学位は「法学」だ)。

 とはいえ、社会学部に勤務しているのは確かだし、社会学的なものに親しみもある。以下の文章は、あくまでそういう中途半端な立ち位置から書かれた「個人の感想」だということをまずは述べておきたい。

 ネット上での社会学の評判はよくない。大変によくない。

 実のところ、ネット上で積極的に発言をしている社会学者の数はさほど多くないと思うのだが、通常は社会学者だとはカテゴライズされない人も、「政治社会に関する発言をしており、かつ多くの人びとから反発を買っている人文社会系の学者」は「社会学者」とみなされてしまうことが結構ある。

 それではなぜ、ネット上で社会学者はこんなにも嫌われるのだろうか。

 社会学者が嫌いな人からは当然、「能力が低い」「頭が悪い」からだという反応が返ってくるのではないかと思う。論文の査読制度もろくに機能せず、コネだけで大学に職を得た頭の悪い連中が、本来ならもっと違うところに使われるべき税金を無駄に食いつぶし、社会的に有害な思いつきを垂れ流している、といったところだろうか。

 この評価はもちろん、ぼくが考えたわけではなく、ネットでよくみる意見を大雑把にまとめたものだ。社会学者をこのようにみている人たちは、以下を読んでもたぶん時間の無駄なので、ここでやめることをお勧めする。

 以下では、ネット(とくにツイッター)上で社会学者の評判が悪いことについて、「能力が低い」「頭が悪い」以外の理由を考えてみたい。また、ネット上で論争になりがちなテーマ(最近だとジェンダーや性表現)との重複が大きいことや、テレビなどでよく露出する社会学者の問題についても考えないことにする。

 社会学というのはとにかく幅が広い学問だ。産業社会学、政治社会学、地域社会学等々、さまざまなな「〇〇社会学」が存在し、それぞれの研究テーマは大きく異なる。グローバリゼーションやナショナリズムといったマクロなテーマを扱う研究もあれば、個々人の主観や自我などミクロなテーマを扱うものもある。インタビューや参与観察など質的な方法論を用いられることもあれば、統計データを活用する数量的なアプローチがとられることもある。理論系の研究者であれば、きわめて抽象的な問題について思惟することになる。

 とはいえ、それらの研究の多くは、人びとの日常生活ときわめて密接なかかわりを持つことに特徴があると言える。仕事、家事、教育、娯楽、性愛、SNSでのコミュニケーション等々、われわれの日常生活のなかの事象は、そこに繰り返される何らかのパターンがあるならば、たいてい社会学的な探求の対象になりうる。

 言い換えるとそれは、社会学者が個人としていだく主観的な感想と、研究者としての思考との境界が「傍から見ると」分かりづらいということでもある。そしてそのことが、ネット上での社会学の評判を押し下げている一つの要因になっているのではないだろうか。

 これは自然科学者と比較すれば分かりやすいのではないかと思う。自然科学者が政治や社会について何かツイートしたとしても、それは傍目にも「個人の感想」であることがすぐにわかる。

 だから、その人が専門外のことでいくらトンチンカンなことをツイートしようとしても、その人の研究者としての能力は必ずしも棄損しないし(もちろん、やりすぎると研究者としての能力にも疑問はつくと思う)、ましてや学問領域そのものの信頼性は揺るがない。どこかの医師がいくら怪しげな陰謀論を吹聴しようとも、そこから現代医学そのものの評価が下がるということはほとんどないはずだ。

 ところが、社会学の場合はそうではない。社会学者が社会問題について何らかのツイートをした場合、それは一個人としての感想なのか、それとも研究者としての考えなのかが分かりづらいのだ。

 先にも述べたように、一言で社会学といってもその範囲は広く、労働社会学を専門にしている研究者が、教育問題について詳細な知識をもっているとは限らない。だから、社会問題に関するツイートであっても、それは研究者ではなく一個人としての感想である可能性は高い。しかし、傍から見るとそれが分からない。

 加えて、ぼく自身もそうなのだが、個人としての素朴な(それゆえに大して考えてない)感想をツイートすることもあれば、専門領域にそれなりに近い内容をツイートすることもある。見方によっては、立場をはっきりさせないままツイートをすることで、個人としての立場と専門家としての立場を都合よく使い分けているとみえるかもしれない。

 このような状況では、社会学者がなにか素っ頓狂なツイートをすると、それが個人としてのツイートなのか研究者としてのツイートなのかが分かりづらいために、研究者としての能力の評価に直結してしまうし、場合によっては学問領域そのものの信頼性にも傷が入ることになりうる。

 つい先日、「コミュニケーションの方法には問題があるが、専門家としての能力は超一流」という人物がネットで話題になったが、社会学者の場合にはそんなことはまず起きないだろう。「コミュニケーション能力が低い→学者としての能力が低い→学問としての価値が低い」という話になってしまう。

 これを踏まえると、学問としての社会学の信頼を守るためのもっともラディカルな方法は、全員がツイッターをやめる、あるいは「社会学者」という肩書でツイートをしないということになるのではないかと思う。言いたいことがあれば論文で書く。ブログについても査読で通ったもののみをネット掲載を許す、ぐらいの徹底が必要かもしれない。

 しかし、それはさすがに無理だし、あまり楽しい方向性だとも思えない。ありうる方向性としては、専門家として発言するときにはそう明示し、それ以外のときには単なる個人の感想や思いつきだということが分かるようにしておく、ぐらいではなかろうか。

 そして、それを受け取る側も、社会学者のものであれ何であれ、研究者のツイッターやブログは単なる感想や思いつきだと受け止めたほうが無難だろう。たとえば、この文章は1時間ぐらいで書いたが、論文を1本書くには通常、数か月から数年の準備が必要になる。したがって、この文章もそういうものとして受け止めてくれると嬉しい。

 もっとも、それだけの時間をかけて論文を書いたとしても、短時間で書いたツイッターやブログを読んでくれる人のほうがはるかに多い多いというのが残念ではある。残念だ…

「人間として扱われること」の希望と絶望

「人間」やりたいよっ!

先日、はてなブックマークでこんなエントリが話題になった。

anond.hatelabo.jp

かいつまんで言うと、こういう話だ。

自分の外見についてずっと嫌な思いをしてきた女性が、外見ではなく仕事の力量で評価される職場に入り、ようやくその呪縛から解放されたと思った。

ところが、見た目の麗しい女性が後輩として職場に入ってきたことで事態は変わる。同僚男性がその女性に自分とは異なる態度で接しているのを見てしまい、見た目の呪縛からなお自由ではなかったことに気づいてしまったというのだ。
 
先の文章の追記で、この女性は次のように述べている。

見た目よりも仕事の実績!な環境にはいれてさ、やっと人間扱いされたと思ったんだよ。

会社の中、特定の部署、その中の少人数のチーム。

この中なら、仕事中は全員人間でいられると思った。

だけどさ、その女性がきて男性が態度を変えてから「男性」と「女性」に分かれてしまった。

またここでも「女性」をやらないと駄目なのか、という絶望の話をしたかっただけ。

プライベートじゃなくて「仕事中」くらいは「人間」やりたいよって!

もちろん、この女性が実際に差別されたかどうかは意見の分かれるところだろう。ただ、社会的に不利とされる特徴をもつ人物が、他のあらゆる人びとと同じ人間として平等に扱ってもらうことを希望するというのは、ごく一般的な心理である。

マジョリティとマイノリティとは何が違うのか

実際、いわゆるマジョリティとマイノリティとの違いとして、後者が「標準的な人間」ではない自己をしばしば意識させられるということが挙げられる。

たとえば、男性ばかりの職場で働く男性は、職場内で自分が男性だということを意識させられることはあまりない。自分の属性についてさほど気にしなくてもよいのが、マジョリティのマジョリティたるゆえんなのだ。

それに対し、そうした職場で働く女性は、自分が女性だという事実と頻繁に向き合わねばならない。単なる医師や弁護士ではなく、「女医」や「女性弁護士」でなくてはならないということだ(「男医」や「男流作家」といった言葉が用いられないのは示唆的である*1)。

別の例を挙げるなら、日本社会で日本人が生きていくにあたって自分の国籍を意識することはさほどないだろうが、海外で暮らせば「日本人としての自分」に向き合う機会は格段に増える。

もちろん、それがメリットになることもありうるとはいえ、自己の属性によって差別的な扱いを受けることもでてくる(某大の医学部入試において女性の受験者にハンデが課されていたのはその顕著な事例である)。

そうした差別を解消するための方策の一つが、マジョリティもマイノリティも関係なしにみな同じ人間として扱うというものだ。先に引用した文章で、書き手の女性が「仕事中ぐらいは人間をやりたい」と言っているのは、まさにそういう方向性を指し示している。

たしかに、男だろうが女だろうが、肌の色がなんだろうが、みな同じ人間だとしたうえで、学校なら成績で、職場なら仕事の能力でその人の評価を決めるというのは理にかなっているし、多くの場合に有効な処方箋ではある。

ところが、性別や国籍といったあらゆる区別を度外視し、みな同じ人間として扱えばそれでOKかと言えば、まったくもってそんなことはない。そこが、この問題の難しいところなのだ。

「人間」であるための前提

まず、人間と一言でいっても、実際には「標準的な人間」であるためにさまざまな暗黙の前提に従っている必要があることが多い。

つまり、「みんな同じ人間として扱いますよ~」といっても、たとえば日本社会なら、日本国籍であること、一般的な行動パターンから外れる宗教や価値観を信じていないこと、私生活や体調を度外視して仕事に専念できること、等々の暗黙の前提がそこに含まれているということがしばしば起きる。男性であること、あるいは男性か女性のいずれかであることが含まれていることもある。

それのどこが問題かと言えば、最初から何の苦労もなく人間である人と、相当に努力したり、自分を無理に抑えつけないと人間になれない人がいる、ということだ。そうなると、人間として平等に扱ったとしても、実質的には平等でも何でもないということにもなりうる。

そのため、ここからは実質的な平等を達成するためには、差別されていたり、不遇な立場にある人びとを積極的に支援するという処方箋が提起されることになる。

もちろんそれは、あらゆる区別を度外視し、同じ人間として扱うという先のものとは根本的に異なる処方箋だ。その是非をめぐっては、無数の議論が展開されている。

「ただの人間」でしかないことの絶望

そして、もう一つの問題が、あらゆる人が同じ人間だというのは、必ずしも心地よい状態ではないということだ。

他人と同じ存在だということは、往々にして他人と交換可能な存在だということである。つまり、自分はいつでも替えのきく存在だということであり、極端な話、「いてもいなくても同じ」ということにもなりかねない。

もちろん、集団的な熱狂状態など、他人と同じだということが快楽に思える瞬間はある。あるいは、自分が他人と代替可能な存在であることに安らぎを覚える人もいるだろう。

けれども、「いてもいなくても同じ」であることが精神的にしんどくなってしまう人は少なくない。他人とは違う存在でありたいという願い――アイデンティティと呼ばれることもある――を多くの人はどこかに抱えて生きている。

こうした観点からすると、ただの人間であるということは、希望というよりも絶望の原因ともなる。少なくとも、涼宮ハルヒには興味を持ってもらえない可能性が高い(わからない人、すいません…)。

ただの人間であることに起因する絶望から、難しい試験に挑んだり、仕事に打ち込むことで逃れようとする人もいる。他人には得がたい資格や立場を手に入れることで、「特別な人間」になろうというわけだ*2

あるいは、自分が所属している集団にアイデンティティを求めようとする人もいる。とりわけ、差別されたり、蔑まれたりする属性をもつ人びとにとって、その属性にプラスの意味を与えるという行為は、自己の尊厳にとって重要な意味を持ちうる。

肌の色によって虐げられてきたアフリカ系米国人が”Black is beautiful”というフレーズを用い始めたとき、そこには黒人であるということを恥ずべきこととしてではなく、誇るべきこととして意味づけ直そうとする決意が込められていた*3

そのように自己の属性が、自らの尊厳と分かちがたく結びついている場合、「同じ人間でしょ?」と軽々しく言い切ることは、その人が背負ってきた属性に起因するさまざまな経験や記憶を否定してしまうことにもなりかねないのだ。

「人間として扱われること」の希望と絶望

このように、人間として平等に扱われることには、希望と絶望とがある。そして、このことが、非常に難しい問題を生んでいる。

ひとりは人間として平等に扱ってもらうことを望み、もうひとりは「標準的な人間」像とされるものに不平等性が内在していることを指摘する。さらに別のひとりは他の人間とは異なる自己の特性が社会的に承認されることを求める。

そのため、そこにダブルスタンダード(?)を見出す人も出てくる。「自分の都合に合わせて、人間として平等に扱われることを要求したり、自己の特性を承認しろと言ったりする」という具合だ。

たとえば、冒頭で紹介した文章には、以下のような反応が生まれ、それが多くのユーザーによって「正論」として賞賛された。

anond.hatelabo.jp

要するに、最初の文章を書いた女性は、平等に扱われたかったのではなく、後輩のように「女性としてチヤホヤされたかったのだ」という趣旨の文章である。言い換えると、女性ではなく人間として平等に扱われたいという希望ではなく、容姿に優れた「特別な人間」でありたいという願望をもっていたことが、この女性の問題だというのだ。

正直、この過剰に攻撃的な文章にさほど評価すべき点があるとは思われないが、多くのユーザーがそれを「正論」とみなした背景には、最初の文章を書いた女性も含めて、人間として扱われることの希望と絶望とが混在した状況があるのではないかと思う。

個人的な考えを言えば、そこにすっきりとした解決はおそらくない。普遍的に通用する処方箋は存在せず、個別の文脈において、人間として扱われることの希望と絶望について地道に考えていくよりほかないと思う。

もちろんそれは何も言っていないに等しいのだが、自分や他人が何を求めているのかを考える一助になればと思い、これを書いた次第である。

*1:岸政彦(2015)『断片的なものの社会学朝日出版社、p.173。

*2:石川准(1992)『アイデンティティ・ゲーム 存在証明の社会学新評論、p.28

*3:前掲書、p.30