エコーチェンバー/フィルターバブル論の問題点
エコーチェンバーやフィルターバブルといった言葉がよく使われるようになって久しい。なんと今では、小学校の道徳の教科書で解説されているという。ご存じの方が多いとは思うので改めて説明はしないけれども、要はインターネットで自分と同じような意見ばかりに取り囲まれる状況を指す言葉だ。
しかし、これらの概念は実証的な研究ではあまり支持されない。確かに、ソーシャルメディアのフォロー/フォロワーの関係は同じような価値観のユーザーのあいだで起きることは多いが、ユーザーの情報接触をみてみると、思いのほか様々なメディアに接していることがわかるからだ。
その大きな要因は、インターネットの情報アクセスコストの低さだ。朝日新聞の定期購読者が産経新聞を読むためには、わざわざ駅かコンビニにまで買いに行く必要があるが、ネットであれば数クリックで済む。
しかも、ソーシャルメディアのアルゴリズムはエコーチェンバーには大して寄与しておらず、むしろXのそれなどはユーザーが嫌がるものをかえって表示させる傾向にあるという研究もある。
コミュニケーションへの信仰
まあ、それはおいておこう。
ここで論じたいのは、エコーチェンバーやフィルターバブルが問題だとされる前提、すなわち「意見の異なる他者とコミュニケーションをとるのは良いことだ」という発想についてだ。それはもはや一種の信仰と言っていい。
しかし、エコーチェンバー論を提起したキャス・サンスティーンにこういうことを言うと怒られそうなのだが、ぼくはその前提にかなり懐疑的だ。むしろ、いまソーシャルメディアがあれだけ荒れているのは、書かれたものを読むだけという一方向的なものも含め、意見の異なる他者とのコミュニケーションをしすぎていることが原因だと考えている。
まず、意見の異なる人びとがちゃんと話し合うためには、かなり例外的な環境が必要だ。一つはお互いが対等な立場であること、一つはお互いが相手の話にちゃんと耳を傾けること、そしてもう一つはお互いに譲り合う精神があること。さらに付け加えるなら、お互いが目的を共有しているとなおいい。
しかし、大部分のソーシャルメディアでのコミュニケーションにはそれらの要素が全部ない。一方が実名で他方が匿名だったり、相手の書いていることをろくに読もうとしていなかったり、それぞれ妥協の余地が一切なかったり、お互いが別の目的をもっていたりするのが常だからだ。それでまともな話し合いができると思うほうがどうかしている。
そういう質の悪いコミュニケーションなら、はっきり言ってやらないほうがマシだ。たとえば、米国の共和党支持者と民主党支持者のタイムラインに対立党派の意見を意図的に流し込む実験をやったところ、自分の党派が攻撃されているのをみて被験者がかえって先鋭化したことを示す研究もある。
実際、異なる派閥がバチバチやりあっている空間にずっと身を置いていると、多くの人はしだいに感情的になり、攻撃的になる。かく言うぼくも、Xの「おすすめ」でムカつく投稿をみせられ、書き込みはしないものの罵詈雑言を口にすることは多い。カッとしたまま文章を書き、一息ついてそのまま投稿せずにデリートすることも結構ある(書くという行為はそれだけでかなりスッキリする)。
そして、ついうっかり、やな感じの引用ポストをしてしまうこともある。Xにいるとそういう攻撃性を抑えられなくなるので、さいきんは「リベラルのエコーチェンバー」こと、Blueskyになるべくいるようにしている。
理解の追求がもたらす関係の破綻
さらに付け加えると、コミュニケーションの目的は相互理解だとされる。だが、理解を追求しすぎると、人はかえって他者といられなくなってしまう。たとえば、最近のはてなで「果てしなく質問が続くコミュニケーション」が話題になった(これとかこれ)。納得できる答えが返ってくるまで質問を続けた結果、関係が破綻してしまったというのだ。
このコミュニケーションの問題は、つまるところ「他者とは理解し合えない」という諦観が欠けていることだ。もちろん、話し合い自体が無意味だというわけではない。先に挙げたような条件を満たせるなら、コミュニケーションが素晴らしい結果を生むことはある。
しかし、別人格である以上、お互いが究極的に理解し合うのは不可能だ。社会学者の奥村隆さんは名著『他者といる技法』(ちくま学芸文庫)のなかで、次のように述べている。
「他者はわかるはず」と思うと「いっしょにいられる」領域は限定されるが、「わからない」のが当然と考えるならば、私たちはずっと多くの場合「いっしょにいること」ができるように思う。
(出典)奥村隆(2024)『<他者>といる技法 コミュニケーションの社会学』ちくま学芸文庫、p.294。
具体的な例を挙げよう。
亡くなった父とぼくは、政治的にはまったく違う立場だった。たまに父と政治の話をすると、まるで意見が合わなかった。なので、ぼくは父とはなるべく政治の話をしないようにしていた。仕事の話、子どもの話、昔の話などをしていると楽しく時間を過ごすことができた。
こういう話をすると「リベラルは異なる意見の持ち主と対話しようとしない」と思われるかもしれない。
でも、それの何が悪いのか。政治の話で限られた時間をいがみあって過ごすのではなく、トピックを選ぶことで、ぼくと父は一緒にいることができた。
もちろん、これは家族の内輪の話であって、公共空間でのコミュニケーションとは異なる。しかし、ソーシャルメディアでは、もっとも意見の異なる人たちが、もっとも意見の合わないトピックで角を突き合わせている。しかも営利目的で対立を煽り立てている人たちまでいる。そのようなコミュニケーションは、対立する派閥への憎悪を深めるだけだ。
したがって、ここに至ってわれわれに必要なのは、お互いにわかり合おうとする努力ではなく、分かりあわずともいられる状態を模索していくことなのではないだろうか。
マスコミュニケーションの効果研究の歴史が教えるように、ソーシャルメディアなんてものがない時代、われわれは似たような意見の人たちに取り囲まれて暮らすことが多かったのだから。
(9/11 AM11時追記)書き忘れていたが、派閥間の憎悪の高まりは、相手側の行動はつねに悪意に基づいていると考え、なんらかの邪悪な組織の影を見出す態度を生み出しがちだ。なので、ある集団は対立する相手の背後にすぐに旧統一教会の影をみてしまうし、別の集団はすぐに中国やその他外国勢力の影をみてしまう。このように、陰謀論の広がりも、敵意の拡大という観点から考えられるように思う。


