「人間として扱われること」の希望と絶望
「人間」やりたいよっ!
先日、はてなブックマークでこんなエントリが話題になった。
かいつまんで言うと、こういう話だ。
自分の外見についてずっと嫌な思いをしてきた女性が、外見ではなく仕事の力量で評価される職場に入り、ようやくその呪縛から解放されたと思った。
ところが、見た目の麗しい女性が後輩として職場に入ってきたことで事態は変わる。同僚男性がその女性に自分とは異なる態度で接しているのを見てしまい、見た目の呪縛からなお自由ではなかったことに気づいてしまったというのだ。
先の文章の追記で、この女性は次のように述べている。
見た目よりも仕事の実績!な環境にはいれてさ、やっと人間扱いされたと思ったんだよ。
会社の中、特定の部署、その中の少人数のチーム。
この中なら、仕事中は全員人間でいられると思った。
だけどさ、その女性がきて男性が態度を変えてから「男性」と「女性」に分かれてしまった。
またここでも「女性」をやらないと駄目なのか、という絶望の話をしたかっただけ。
プライベートじゃなくて「仕事中」くらいは「人間」やりたいよって!
もちろん、この女性が実際に差別されたかどうかは意見の分かれるところだろう。ただ、社会的に不利とされる特徴をもつ人物が、他のあらゆる人びとと同じ人間として平等に扱ってもらうことを希望するというのは、ごく一般的な心理である。
マジョリティとマイノリティとは何が違うのか
実際、いわゆるマジョリティとマイノリティとの違いとして、後者が「標準的な人間」ではない自己をしばしば意識させられるということが挙げられる。
たとえば、男性ばかりの職場で働く男性は、職場内で自分が男性だということを意識させられることはあまりない。自分の属性についてさほど気にしなくてもよいのが、マジョリティのマジョリティたるゆえんなのだ。
それに対し、そうした職場で働く女性は、自分が女性だという事実と頻繁に向き合わねばならない。単なる医師や弁護士ではなく、「女医」や「女性弁護士」でなくてはならないということだ(「男医」や「男流作家」といった言葉が用いられないのは示唆的である*1)。
別の例を挙げるなら、日本社会で日本人が生きていくにあたって自分の国籍を意識することはさほどないだろうが、海外で暮らせば「日本人としての自分」に向き合う機会は格段に増える。
もちろん、それがメリットになることもありうるとはいえ、自己の属性によって差別的な扱いを受けることもでてくる(某大の医学部入試において女性の受験者にハンデが課されていたのはその顕著な事例である)。
そうした差別を解消するための方策の一つが、マジョリティもマイノリティも関係なしにみな同じ人間として扱うというものだ。先に引用した文章で、書き手の女性が「仕事中ぐらいは人間をやりたい」と言っているのは、まさにそういう方向性を指し示している。
たしかに、男だろうが女だろうが、肌の色がなんだろうが、みな同じ人間だとしたうえで、学校なら成績で、職場なら仕事の能力でその人の評価を決めるというのは理にかなっているし、多くの場合に有効な処方箋ではある。
ところが、性別や国籍といったあらゆる区別を度外視し、みな同じ人間として扱えばそれでOKかと言えば、まったくもってそんなことはない。そこが、この問題の難しいところなのだ。
「人間」であるための前提
まず、人間と一言でいっても、実際には「標準的な人間」であるためにさまざまな暗黙の前提に従っている必要があることが多い。
つまり、「みんな同じ人間として扱いますよ~」といっても、たとえば日本社会なら、日本国籍であること、一般的な行動パターンから外れる宗教や価値観を信じていないこと、私生活や体調を度外視して仕事に専念できること、等々の暗黙の前提がそこに含まれているということがしばしば起きる。男性であること、あるいは男性か女性のいずれかであることが含まれていることもある。
それのどこが問題かと言えば、最初から何の苦労もなく人間である人と、相当に努力したり、自分を無理に抑えつけないと人間になれない人がいる、ということだ。そうなると、人間として平等に扱ったとしても、実質的には平等でも何でもないということにもなりうる。
そのため、ここからは実質的な平等を達成するためには、差別されていたり、不遇な立場にある人びとを積極的に支援するという処方箋が提起されることになる。
もちろんそれは、あらゆる区別を度外視し、同じ人間として扱うという先のものとは根本的に異なる処方箋だ。その是非をめぐっては、無数の議論が展開されている。
「ただの人間」でしかないことの絶望
そして、もう一つの問題が、あらゆる人が同じ人間だというのは、必ずしも心地よい状態ではないということだ。
他人と同じ存在だということは、往々にして他人と交換可能な存在だということである。つまり、自分はいつでも替えのきく存在だということであり、極端な話、「いてもいなくても同じ」ということにもなりかねない。
もちろん、集団的な熱狂状態など、他人と同じだということが快楽に思える瞬間はある。あるいは、自分が他人と代替可能な存在であることに安らぎを覚える人もいるだろう。
けれども、「いてもいなくても同じ」であることが精神的にしんどくなってしまう人は少なくない。他人とは違う存在でありたいという願い――アイデンティティと呼ばれることもある――を多くの人はどこかに抱えて生きている。
こうした観点からすると、ただの人間であるということは、希望というよりも絶望の原因ともなる。少なくとも、涼宮ハルヒには興味を持ってもらえない可能性が高い(わからない人、すいません…)。
ただの人間であることに起因する絶望から、難しい試験に挑んだり、仕事に打ち込むことで逃れようとする人もいる。他人には得がたい資格や立場を手に入れることで、「特別な人間」になろうというわけだ*2。
あるいは、自分が所属している集団にアイデンティティを求めようとする人もいる。とりわけ、差別されたり、蔑まれたりする属性をもつ人びとにとって、その属性にプラスの意味を与えるという行為は、自己の尊厳にとって重要な意味を持ちうる。
肌の色によって虐げられてきたアフリカ系米国人が”Black is beautiful”というフレーズを用い始めたとき、そこには黒人であるということを恥ずべきこととしてではなく、誇るべきこととして意味づけ直そうとする決意が込められていた*3。
そのように自己の属性が、自らの尊厳と分かちがたく結びついている場合、「同じ人間でしょ?」と軽々しく言い切ることは、その人が背負ってきた属性に起因するさまざまな経験や記憶を否定してしまうことにもなりかねないのだ。
「人間として扱われること」の希望と絶望
このように、人間として平等に扱われることには、希望と絶望とがある。そして、このことが、非常に難しい問題を生んでいる。
ひとりは人間として平等に扱ってもらうことを望み、もうひとりは「標準的な人間」像とされるものに不平等性が内在していることを指摘する。さらに別のひとりは他の人間とは異なる自己の特性が社会的に承認されることを求める。
そのため、そこにダブルスタンダード(?)を見出す人も出てくる。「自分の都合に合わせて、人間として平等に扱われることを要求したり、自己の特性を承認しろと言ったりする」という具合だ。
たとえば、冒頭で紹介した文章には、以下のような反応が生まれ、それが多くのユーザーによって「正論」として賞賛された。
要するに、最初の文章を書いた女性は、平等に扱われたかったのではなく、後輩のように「女性としてチヤホヤされたかったのだ」という趣旨の文章である。言い換えると、女性ではなく人間として平等に扱われたいという希望ではなく、容姿に優れた「特別な人間」でありたいという願望をもっていたことが、この女性の問題だというのだ。
正直、この過剰に攻撃的な文章にさほど評価すべき点があるとは思われないが、多くのユーザーがそれを「正論」とみなした背景には、最初の文章を書いた女性も含めて、人間として扱われることの希望と絶望とが混在した状況があるのではないかと思う。
個人的な考えを言えば、そこにすっきりとした解決はおそらくない。普遍的に通用する処方箋は存在せず、個別の文脈において、人間として扱われることの希望と絶望について地道に考えていくよりほかないと思う。
もちろんそれは何も言っていないに等しいのだが、自分や他人が何を求めているのかを考える一助になればと思い、これを書いた次第である。