擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

コロナ禍で人びとは「騒ぎすぎ」なのか

「モラル・パニック」としてのコロナ禍

 いつものようにツイッターを眺めていたら、評論家・思想家の東浩紀氏による以下のツイートが目に入ってきた。

 ここで東氏が言っていることの一つは、コロナ禍による日本の被害は欧米に比べて軽微であるのに、日本では「空気」によって騒ぎが起きてしまっているということだ。

 実際にはそれほど大きな被害が出ているわけではないのに、パニックが起きてしまう。これはメディア研究や社会学の領域で言えば、モラル・パニック論の枠組みで説明できる。

 大雑把に言うと、モラル・パニックとは、人びとのあいだに「特定の集団のせいで社会全体が危機にさらされている」という認識が生まれ、専門家やメディアなどが騒ぎ立てることで社会不安やパニックが発生するという状況を指す。

 たとえば、日本の場合、20世紀末から今世紀初頭にかけて「少年犯罪が急増・凶悪化している」という主張がさかんに行われたことがあった。メディアによって少年犯罪がセンセーショナルに取り上げられ、「今の子どもたちは命の重さを知らない」といったことがしばしば語られた。

 その影響なのか、この時期には「体感治安の悪化」も話題になった。つまり、多くの人びとが「治安が悪くなった」という不安を抱えるようになったということだ。このような一連の動きがモラル・パニックである。

 この事例からも明らかなように、もともとのモラル・パニック論では、パニックの発端となるのは「特定の集団」(典型的には犯罪者)だとされる。ただし、この枠組みを少し拡張すれば、何らかの問題を「専門家」やメディアなどが騒ぎ立てることで、社会不安やパニックが発生する過程の分析へと応用することができる。

 実際、それをコロナ禍にあてはめるならば、以下のような流れになるんじゃないかと思う。

海外での感染拡大やダイヤモンドプリンセス号での事件が発端となり、専門家と称する人びとやコメンテーターがテレビの情報番組で人びとの危機感を煽った。政府や自治体、教育機関などはそうした空気に煽られ、パニック気味の対応を取らざるをえなくなり、本来は必要のなかった休業措置や時短営業などが実施され、大きな経済的損害が発生した。さらには、「自粛警察」のような人びとを生み出し、マスクをしていない人びとが白い目で見られるなど相互監視による息苦しい社会へと帰結した。

モラル・パニック論の前提

 ところで、モラル・パニック論の前提となるのは、発端となった問題が実際には「大したことのない問題」だということだ。

 先に挙げた少年犯罪の例でいえば、実際には当時(今も)の少年犯罪の動向はきわめて低い水準で推移していた。当時の子どもたちは「命の重さ」を大人よりもよほど理解していたということだ(このあたりの話は、浜井浩一芹沢一也による名著『犯罪不安社会』(光文社新書、2006年)に詳しい)。

 モラル・パニック論的な語りの醍醐味は、このように「当時は大騒ぎになっていたが、実際には大したことのない問題だった」「な、なんだって~!!!」という驚きを与えてくれるところにある。いわゆる「真実の暴露」だ。

 逆に言えば、モラル・パニック論的な語りが成立するためには、発端となるのが「大したことのない問題」でなければならないということになる。ここにモラル・パニック論的な語りの難しさがあり、批判が集中するのもこの部分である。

 つまり、誰がどうやって「大したことのない問題」かどうかを決めるのか、ということだ。

「比較」という方法

 ここでまたしても、先の少年犯罪の事例に立ち返ると、20世紀末から21世紀初頭にかけて、それ以前との比較では確かに少年犯罪は増えていなかった。その意味で、この時期の「少年犯罪の急増・凶悪化」という主張は明らかに誤っていた。

 しかし、この時期に少年犯罪がゼロになったわけではない。少年犯罪が重大な問題ではないというのは、あくまで過去と比較しての話であり、問題そのものが完全に消滅したわけではないのだ。

 このように、モラル・パニック論において発端となった出来事が「大したことのない問題」だとされる根拠は「比較」であることが多い。比較が根拠とされないのは、いわゆる魔女狩りのように発端となる出来事がそもそも存在しない場合だけだ。

 したがって、新型コロナの感染拡大は完全なでっち上げだという陰謀論的な語りを採用しない限り、今回のコロナ禍においてモラル・パニック論的な語りを行うためには比較という方法をとらざるをえない。

 そこでよく持ち出されるのが、他国や他の死因との比較である。元内閣官房参与高橋洋一氏が日本のコロナの感染状況について「さざ波」「屁みたいなもの」と語ったのも、やはり欧米諸国との比較に基づく発言だった。このエントリの冒頭で紹介した東氏のツイートも同様だ。

 あるいは、他の死因との比較が行われることも多い。インフルエンザの死者数や交通事故の死者数が持ち出されることもある。それらとの比較によって日本のコロナ禍は「大したことのない問題」だという位置づけがなされている。

 たしかに、比較という方法には、それを行う者の視野を広めてくれる働きがある。ある現象や問題について、他の時代や社会との比較を行うことで、それまでは見えなかった側面が見えてくるということは頻繁にある。社会科学で比較という方法がさかんに用いられるのはそのためだ。

 だが、安直な比較には、物事をかえって見えにくくしてしまう一面もある。

その数字はどうやってもらたされたのか?

 メディアごとに数字のばらつきがあるのだが、現時点での日本における新型コロナウィルスの死亡者数はおよそ1万5千人である。米国の約60万人、英国の約12万8千人などと比較すれば、その差は歴然としている。また、日本における超過死亡数(感染症を原因とする死亡のみならず、全ての死亡数がいつもと比べて減ったか増えたかの指標)にも特に変化はなく、コロナのせいで死者が例年より増えたということもなさそうだ。

 これらを踏まえると、他の社会、もしくは過去との比較においてコロナ禍は「大したことのない問題」であり、むしろ騒ぎすぎのほうが問題だと結論づけることは確かに可能だ。

 だが、こうした比較によって見えにくくなるのは、そもそも1万5千人という数字がどうやってもらたされたのかということだ。

 それは、人びとの危機意識の高まりによる日々の感染予防や、現場で必死で対応する医療関係者の尽力によって初めて可能になった数字ではないだろうか。(念のために言っておくと、他国では人びとの危機意識が足りなかったとか、医療関係者が頑張っていなかったとか、そういうことを言いたいわけでは全くない。あくまで、人びとの努力によってもたらされた絶対的な数字としての1万5千人ということだ。追記/もっと救えた命もあったはずだという論点もありうるが、ここでは扱わない)

 あくまで推測でしかないのだが、もし仮に多くの人びとがコロナ禍を「大したことのない問題」だと認識していたなら、仮に専門家やメディアが警戒を呼びかけなかったとすれば、全く違った数字になった可能性は高いと思われる。インフルエンザの感染者が激減するほどの行動様式の変化があってなお、コロナの感染者は増大したのだ。

 1万5千人という数字だけを見て、比較に基づいてそれを「さざ波」と呼ぶことからは、そうした過程を無視し、コロナに右往左往する人びとの愚かさを嘲笑するという「いやらしさ」をどうしても感じてしまう。

 それが、コロナ禍をモラル・パニック論的な観点から語ることにぼくが抵抗を感じる理由だ。

結局はポジション・トークなのかもしれない

 とはいえ、コロナ禍をモラル・パニック論的な観点から語りたくなるのも理解できなくはない。

 そもそも、ぼくが上で述べたような立ち位置を取れるのは、つまるところ大学という安楽な場所に身を置いているからだと言える。身の置き所が変われば、全く異なることを言い出す可能性は否定できない。

 たとえば、いまもSNS上では、大学に対面授業の再開を訴える声がしばしば見られる。さまざまなアンケートをみると対面授業を断固として支持する学生は必ずしも多数派ではないのだが、それでも「大学に行きたい」という真摯な声を無視するのは大学関係者として許されないだろう。

 ともあれ、対面授業の再開(または拡充)を訴えるそうしたツイッターアカウントをみると、その多くが「コロナは大したことのない問題だ」というモラル・パニック論的な認識に立脚したツイートやリツイートをしていることがわかる。

 もちろん、そのような認識を抱いているがゆえに対面授業の再開を求めているのかもしれない。しかし、大学に行きたいからこそ、そうした認識に引き寄せられている側面もあるのではないだろうか。人が自らの願望に沿って現実認識を形成するのは決して珍しいことではない。

 だとするならば、コロナは「大したことのない問題」だという認識も、「コロナは深刻な問題」だという認識も、結局はポジション・トークへと帰着するのかもしれない。仮にぼくが自営業を営んでいたとして、コロナ禍によってその経営が危機に瀕しているとすれば、実はコロナは「大したことのない問題」なのだという主張は大変に魅力的にみえるに違いない。

 そして、仮にそれがポジション・トークであったとしても、それ自体は決して責められるような話ではない。たとえば医療関係者と自営業者、大学関係者とでそれぞれに物事の見え方が違ってくるのはやむを得ないところがある。日々の生活がわれわれの認識にもたらす影響はやはり大きい。

 ただまあ、それでも「さざ波」とか「屁みたいなもの」という言葉のチョイスはいかがなものか、とは思うのだけれど。