擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

『災害ユートピア』と『ショック・ドクトリン』

ささやかな「災害ユートピア」

 今から10年ほど前の話だ。

 当時、ぼくは5軒続きの2階建長屋に住んでいた。新築だったので住民は我が家と同様に若い夫婦が多かった。しかし、まだ子どもがいなかったぼくらに近所づきあいなるものは存在しなかった。

 あるとき、夫婦でぼくの実家に一泊したことがあった。その帰り、最寄り駅から長屋に向かって歩いていると、妙なことに気づいた。我が家の窓明りがついているのだ。「あれ、電気消し忘れたっけ?」などと話ながらさらに長屋に近づいていくと、その窓のガラスが割れているのが目に入ってきた。

 「空き巣だ」

 もし、まだ家のなかにいたらどうしよう?とりあえず、そっと玄関のドアを開け、なかに置いてあった傘を手に取る。空き巣がまだいた時に応戦するためだ。勇気を出して、そのまま家に上がる。

 あちらこちらを見たが、どうやら空き巣が潜んでいる様子はない。だが、家のなかは明らかに土足で踏み荒らされており、引き出しやら何やらが全て引き出されている。プレステ2のゲームソフトがごっそりやられており、ノートPCやデジカメも姿を消していた。

 とりあえず警察を呼んだ。110番したのは生まれて初めてだった。警官がやってくると現場検証が始まり、ぼくらの指紋も採取された。あの指紋のデータはやはり今でも保管されているのだろうか。

 それからは部屋を片付けたり、割れた窓を修理するため業者の人に来てもらったりと後始末が続いた。しかし気になったのは、同じ長屋の隣家の窓ガラスも割れていたことだった。

 そこで大家さん経由で隣家に連絡してもらう一方で、同じ長屋のほかの家も訪ねてみた。すると、被害に遭ったのは我が家だけではなく、長屋全体が空き巣にやられていたことが判明した。そこで、近所のホームセンターに一緒に行って防犯アラームを買ったり、空き巣に関するその後の情報を交換したりという動きが生まれた。つまり、「空き巣」という一種の災害を共通して体験することで、それまでは存在しなかった近所づきあいが生まれることになったわけだ。

 もちろん、近所づきあいといっても一緒に飲みに行ったりはしない。それでも、道で会えば笑顔で挨拶を交わすようになった。長屋から引っ越しをする時にも挨拶をしに行った。

 これは、ぼくのささやかな「災害ユートピア」経験だ。ごくごく軽微な「災害」でしかないが、それでも災害はそれまでには存在しなかった連帯を生み出すことがある。それを大々的に論じたのが、レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』(高月園子訳、亜紀書房)だ。この本の原著は2009年に出版されたが、日本では2010年12月、つまり東日本大震災の直前に翻訳が出版された。そのため、大きな注目を集めた著作だ。

 そして、もう一冊、同じく災害を扱った本の翻訳が2011年9月に出版され、これも話題を呼んだ。ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』(幾島幸子ほか訳、岩波書店)だ。日本にいたときには無理だったのだが、イギリスに来てからいずれの著作も読むことができた。そこで、震災から二年半以上経って今さらという感もあるが、これらの著作の違いとそこに何を見い出せるかについて書いておきたい。

アナーキズム社会民主主義

 同じように災害を扱っており、いずれも左派に属する論者の手によるものでありながら、この二つの読後感はかなり違う。その要因の一つは、言うまでもなく災害に直面したさいの人びとの反応について、両者が大きく異なる見方をしていることにある。

 まずクラインは災害に直面した人びとがショック状態に陥ると考える。それはあたかも、独裁者が政治犯を拷問するさいに用いる電気ショックや感覚遮断のように人びとの記憶を混乱させ、正常な判断を困難にする。そのどさくさに乗じて、普通なら人びとからの大きな反発を招きかねないミルトン・フリードマン流の新自由主義的な「改革」が押しつけられる。

 国営企業は大幅な人員削減のうえで安価で売り払われ、再建事業は現地の事情もろくに知らない外国企業に委託され、被災地の住民はもといた土地を追い払われる。ようやく冷静さを取りもどしたときには後の祭りで、国富はどんどん流出していく一方で、人びとは仕事もないままで取り残される。それに反発する人びとはテロリストとして容赦なく弾圧されるというわけだ。

 他方で、ソルニットは災害に直面した人びとのほとんどは、そのようなショック状態に陥るのではなく、最高度の自発性をもって利他的な互助努力を始めると考える。1906年のサンフランシスコ大地震のような自然災害のときはもちろん、9.11のテロ攻撃によっていつ崩れ落ちるかも分からない世界貿易センタービルの内部でさえ、人びとは助け合っていた。政府があてにならないとわかると、日常生活では会話を交わしたこともないような人びとが隣人として、友として、利己的な欲望を忘れてお互いにいたわり合う。怪我人を救護し、共同キッチンを運営して無料で食事を配布する。

 ソルニットに言わせれば、そうした被災地に混乱をもたらすのは、むしろパニックに陥ったエリートたちなのだ。「統制がなければ民衆は暴徒になる」という世界観を持つ彼らは、被災地に軍隊を送り込み、人びとの助け合いを妨害し、被災者を犯罪者扱いして時に殺害する。

 このようなソルニットの発想には、彼女自身が文中で触れているアナーキズムの思想が反映されていると見ることができる。無政府主義とも訳されるアナーキズムは、時に誤解されるように、無秩序状態を称揚する思想ではない。そうではなく、人びとの自発的な相互扶助や秩序形成を信頼する思想だ。もちろん、ソルニットは政府の存在を全面的に否定するわけではなく、政府が時に災害に有効な対応をするケースがあることも認めている。それでも、政府に対する彼女の不信感は至るところで感じられる。

 ソルニットのそうした思想がもっとも強く現れているのが、彼女が「慈善」を否定し、「利他主義」を称揚する箇所だろう。

地震に引き裂かれたサンフランシスコで、ミッション地区の住民たちが自分たちの共同キッチンが公共機関のそれに取って代わられるのを拒絶したとき、彼らは互助が慈善に取って代わられるのを拒絶していたのだ。慈善のもとでは、住民たちはすべてを分け合う共同体ではなく、何も与えるものがない困窮した人々であると定義される。…利他主義と慈善は、行為そのものにはさほど違いはなくても、少なくともそれを取り巻く雰囲気には明白な違いがある。利他主義が団結と同情心で真横に手を差し出すのに対し、慈善は上から下へ手を差し伸べる。後者は、相手を見下したり、恩に着せたり、さもなければ、持てる者と持たざる者の違いを強調することで、かえって相手をおとしめるリスクを常に伴う。慈善は物質的な援助をしながら、相手の自我を奪ってしまう。
(出典)レベッカ・ソルニット、高月園子訳(2009=2010)『災害ユートピア』亜紀書房、p.124、

 ソルニットのこうした見解は、従来の福祉国家のあり方への痛烈な批判ともなる。福祉国家が失業者や高齢者、障がい者を単なる福祉の受給者としてしまうことで、その自発性や自尊心を損なっているという批判は繰り返し行われてきた。

 他方で、クラインは社会民主主義者だと言える。彼女は新自由主義到来以前の開発主義国家や社会民主主義国家を高く評価する傾向にある。また、21世紀に入ってから南米で次々と誕生した左派政権にも好意的だ。新自由主義を批判するあまり、開発主義国家や社会民主主義国家が抱えていた問題を等閑視しているようにも思われるが、それは措くとしても政府による弱者の支援を支持していることは明らかだろう。つまり、従来の福祉国家の評価をめぐって、ソルニットとクラインは潜在的に対立するのだ。

 それでは、このような二人の相違点をどう評価すべきだろうか。日本の文脈に置き換えて言えば、ソルニットの立場は実に『朝日新聞』的だと言える。というのも、同紙は「小さな政府」の実現を訴える一方で、NGONPOによる「新しい公共」を称揚することが多い。つまり、政府に依存しないかたちでの相互扶助の実現というわけだ。しかし、正直なところ、その仕組みや実体がいまいち掴めないのも事実だ。むしろ、そこには新自由主義へと結びついてしまう危うさもあるのではないか…

 …というところまで書いてきて、市野川容孝・宇城輝人編『社会的なもののために』(ナカニシヤ出版)の6章を読み直したところ、ソルニットとクラインの違いとしてまさに上で述べたようなことが書いてあり、日本に輸入されたときのソルニットの議論の危うさについて紹介されていた。どうやら以前に同書を読んだときの記憶がどこかに残っていて、その解釈を無意識的に取り入れてしまっていたようだ。せっかくなので、その一部を紹介しておこう。

(以下は討論における宇野重規の発言)
アメリカの文脈だと、ネオリベラリズムの論理とこのソルニットたちの論理は明らかに違うものです。むしろソルニットは、非常に強烈な左派的な変革の論理だと思う。そこのところが日本に入ってくるとなぜか消えてしまって、結局政府は何もやらなくていいという形で、むしろネオリベラリズムの契機のほうが強くなってしまう。
(出典)市野川容孝・宇城輝人編(2013)『社会的なもののために』ナカニシヤ出版、p.301。

政府への信頼をいかに回復するか

 というわけで、すっかり出鼻を挫かれてしまったのだが、上のテーマとも関連して、クラインとソルニットの著作の気になる点をあと二つ論じておきたい。クラインにせよソルニットにせよ、その記述において政府への評価は非常に低い。クラインに言わせれば、社会民主主義的な政府はまだしも、現代の新自由主義国家というのは「コーポラティスト国家」にすぎない。つまり、政治家と巨大企業が結託して国家機関を私物化し、税金から暴利を貪る存在なのだという。ソルニットの見解に至っては、災害時にエリート・パニックに陥り、災害現場で余計なことばかりをやらかすのが政府ということになる。いずれの主張にしても、政府に対するシニカルな見方が強烈に反映されている。

 しかし、災害直後のユートピア状態ならまだしも、長期間にわたって被災者を支えるとともにコミュニティを再建していくためには、どうしても政府の役割が必要になる。そして、政府がそのような役割を果たすことを有権者が受け入れるためには、彼らのあいだに政府に対する信頼がなければならない。「小さな政府」路線が支持を集めた背景には政府の非効率性に対する不信感が存在していたことを踏まえるならば、その潮流を逆転させるためには政府への信頼の解決が不可欠だ。

 アナーキズム的なソルニットにはそういった領域にまで踏み込む必要はないのかもしれないが、社会民主主義的なクラインにとってこの問題はとりわけ大きな難問として立ちはだかるはずだ。人びとが政府を信頼し、富の再分配や福祉の拡充をそれに委ねることに同意しない限り、社会民主主義は実現しないからだ。だが、政府に対するクラインのシニカルなまなざしからは、それがどうやって可能になるのかが見えてこない。

災害ユートピアと差別

 他方、特にソルニットの議論で気になるのがユートピアと差別との関係だ。実際、ソルニットは災害ユートピアを称揚する一方で、ニューオーリンズの洪水災害で発生した人種差別的な殺人についても論じている。略奪を恐れた白人層が自警団を結成し、犯罪者でもない黒人を射殺していたというのだ。また、控え目ながら、関東大震災時における朝鮮半島出身者の虐殺についても触れている。

 むろん、そういった差別が災害によって突然生じたということはできない。ハリケーンによる大洪水が発生する以前からニューオーリンズには根強い人種差別が存在していた(ニューオーリンズに限った話ではないが)。そういった日常的な差別意識が災害を契機として一気に表面化したということなのだろう。そのような場合、災害後に発生するのはユートピアのみならずディストピアでもある。言い換えれば、災害時に試されるのは、コミュニティが差別や格差を乗り越えていく力であり、それは災害以前からの地道な努力によって蓄積していくしかない。

 また、ソルニットの議論で興味深いのが、ニューオーリンズでの洪水時におけるメディアの役割についてだ。これまで、関東大震災時に朝鮮半島出身者に関するデマが広がった背景には「情報の空白」があったと言われてきた。つまり、新聞社も地震の被害に遭って新聞を発行することができなくなり、正確な情報を伝達できなかったがゆえにデマが拡大したというのだ。そして、それに対する反省こそが、日本でのラジオの導入を急がせる契機になったとも言われる。ところが、ソルニットによれば、ニューオーリンズでの洪水時にはマスメディアはむしろ人種差別を煽り立てていたのだという。

(財産を守るために完全武装した白人たち)には情報を得るうえで不利となる条件がもう一つあった。それはテレビが映ったことだった。画面には何度も何度も、飽きるほど、スーパードームやコンベンションセンターやダウンタウンの商店での恐ろしい光景が映し出されていた。(彼らが住む)アップタウンの男たちの頭の中で、そのシーンを一つの文に要約したなら、『頭のおかしい黒人が自動拳銃を手に白人狩りをしている。略奪品を入れる彼らのバッグのサイズは無限大!』だっただろう。
(出典)レベッカ・ソルニット、前掲書、p.345。

 
 もちろん、だからと言って災害時にマスメディアが不要だと言いたいわけではない。実際、東日本大震災でもラジオや新聞は被災者にとって重要な情報ソースになったと言われる。したがって、差別的な動きの拡大を防ぐうえで重要なのは、マスメディアの存在のみならず、それがいかなる情報が流すかということだ。

 東日本大震災では大規模な停電が起こったこともあり、携帯電話やインターネットはそれほど大きな役割を果たさなかった。しかし、災害の性質いかんでは今後、SNSやメールが影響力を発揮する可能性もある。そのさい、それらのメディアを流れる情報がどのようなものかで、「災害ユートピア」が発生するのか、それとも「災害ディストピア」になるかが変わってくるかもしれない。