見る側/見られる側の物語
話題のドラマ『MIU404』の最終回が終わった。
以下は壮大なネタバレ記事なので、視聴していない人はここから先は読まないように。とても面白いドラマなので、見て損はない(おすすめ)。
「見る側」でいようとする意志
というわけで、本題である。
最終回のストーリーはわりと難解で、いろいろな解釈を許すつくりになっている。筆者として思うのは、これは「見る側/見られる側の物語」として解釈できるのではないか、ということだ。
このドラマのラスボス的存在は、久住なる人物である。おそらく本名ではない。
劇中、手下として使っていた人物から助けを求められたさい、すげなく断った久住は自らの名前が「クズを見捨てる」という意味だと語る。
ただ、その後の展開をみても、久住の本質は「見捨てる」ことにあるというよりも、「見る」ことにあると言ってよいだろう。彼は徹頭徹尾、他人を「見る」側でいたいのだ。
もちろん、ただ他人を見ているだけでは面白くない。そこで薬物を流すといったやり方でそれをより面白くしようとはする。そのうえで人びとを眺めることを楽しむのだ。
その一方で、久住は「見られる」ことを徹底的に嫌う。スマホにつけた特殊なカバーのおかげで彼の姿は監視カメラには映らない。逮捕された後にも、「俺はお前たちの物語にならない」と語り、一切の証言を拒否することで自らの過去を見せようとしない。
「見られる側」の警察
それに対して、主人公たちは基本的に「見られる側」である。
本来ならば見る側であるはずの警察が、見られる側であるという点にこのドラマの逆説はあると言ってよい。
それがもっとも顕著に表れているのが、主人公たちの上司である桔梗隊長である。訳ありの女性を自宅に匿っていることから、盗聴器を仕掛けられるところからはじまって、ネット上で顔写真が拡散するところまで、とにかく他者の視線にさらされる存在なのである。
主人公たちにしても、彼らが乗るメロンパン号は、大変に目立つ仕様になっている。彼らの存在は、人びとの視線を惹きつけざるをえないのだ。
実際、劇中でそのメロンパン号が無数の人びとの注目を集めるシーンがある。その目撃情報が次々とSNSに上げられることで、彼らの移動経路が丸わかりになり、結果的に久住の逃走を助けることになってしまう。
それだけではない。主人公たちがネット上で久住にアクセスしようとする場面がある。結局、主人公側のPCは久住にすでに乗っ取られており、久住に見られていることが判明してしまう。
このドラマでは、主人公たちが「見よう」とする試みはしばしば失敗する。その最たるものが、主人公の一人である伊吹が相棒の志摩を盗聴したシーンだろう。伊吹は志摩が自分の悪口を言っているところだけを聴き、イヤホンを引き抜いてしまう。その後に志摩が伊吹を認める発言をするのを聞き逃してしまうのだ。その結果、二人の仲は一時的に決裂してしまう。
しかし、言うまでもなく野木亜紀子の脚本は、「見られる」ことなく「見よう」とだけする久住を肯定しない。
物語の終盤、怪我をした久住は、それが警察官による暴行によるものだという証言を屋形船に乗る仲間に頼もうとする。ところが、肝心の仲間たちは薬物でラリっており、久住をまともに見てくれない。徹底して「見られない」ように生きてきた久住が「見られない」ことによって救いを失うのだ。
「監視文化」の充満した社会で
ここでちょっと社会学的な話をすると、社会学者のデヴィッド・ライアンは「監視国家」や「監視社会」に加えて「監視文化」という概念を提起している。
監視国家や監視社会というのは、どうしても国家や企業が見る側であって、一般の人びとは見られる側だという印象を生み出してしまう。もちろん、そういう構図がなくなったわけは決してない。
しかし、現在において出現しているのは、一般の人びとも様々な情報ツールを駆使して積極的に監視に加担する状況なのだとライアンは語る。それを説明するために持ち出されるのが、監視文化という概念なのだ。
他人のSNSのカウントをマメにチェックして、その動向を気にかけるというのはその典型だ。以前、ぼくが指導するゼミの学生が「先輩のインスタグラムのストーリーを眺めていれば、誰が就活で内定をもらったのかはだいたい分かる」と言っていたことがある。監視文化はわれわれの日常に浸透しているのだ。
けれども、人は見るだけではプレイヤーになれないし、他人とのつながりを生み出すこともできない。主人公たちに対するネット上での誹謗を鎮静化させるのは、結局のところ、これまでの物語で主人公たちを見てきた人びとなのだ。
警察でありながらも見られる側であるという主人公たちが、あくまで見るだけの側に留まろうとする久住に勝利する物語。『MIU404』はそういう物語としても解釈できるのではないだろうか。