擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

政治家と有権者とメディアの不幸な関係

政治家は自分ことしか考えてない?

 批評家の東浩紀氏が今度の選挙で「積極的棄権」を呼びかけたということが話題を呼んでいる。

 この呼びかけに対しては多くの批判がなされており、いまさらぼくが言うべきことは特にない。特にないのだが、東氏の問題意識に共感する部分がないわけでもない。解散総選挙が報じられるようになったあたりで、うんざりする気持ちがなかったかと言えば嘘になるからだ。

 東氏の呼びかけの一部を引用しておこう。

今回の選挙にはまったく「大義」がありません。解散権の乱用であることは明白です。しかもそれだけではありません。本来大義なき選挙を批判するはずの野党も、選挙対策に奔走し、政策論争を無視した数あわせの新党形成に邁進しています。結果として、リベラルは消滅しました。
(出典)2017年秋の総選挙は民主主義を破壊している。「積極的棄権」の声を集め、民主主義を問い直したい。

ぼくなりにもう一つ付け加えるなら、安倍首相の言葉の軽さがある。

 たとえば、ここでも指摘されているように、9月13日付『日本経済新聞』(朝刊)の記事では、前日のインタビューにおいて衆議院解散について尋ねられた安倍首相は「まったく考えていない」と強調したとされる。ところが、そのわずか数日後には解散という報道が始まった。

 9月18日付『日経』(朝刊)は「28日召集の臨時国会での衆院解散に傾いたのは政権維持を優先する判断からだ。離党者が相次ぐなど野党、民進党の停滞は明白で今が好機に映った」と報じている。

 つまるところ、安倍首相は意図的に『日経』(とその読者)にウソをついたか、それとも「今なら選挙に勝てそう」という打算によって前言を簡単に翻したのか、である。いずれにせよ、28日の臨時国会では所信演説もなく、冒頭解散という異例の事態を迎えることになった。

 それと並行していたのが、東氏も指摘する民進党内のゴタゴタだ。選挙に勝てそうという理由だけで、20年の歴史と組織とをあっさりと捨て、できたばかりの政党へと移動する。この動きを見て「政治家というのは、選挙で勝つことしか考えてない」という印象をもった人は少なくなかったのではないだろうか。

 もちろん、政治家にたいするそうした悪印象は、今に始まったことではない。たとえば、中央調査社の信頼度アンケートによれば、国会議員にたいする信頼度は一貫して低い(参考)。

2015年9月の調査でも、若干の改善は見られたとはいえ、自衛隊医療機関、銀行などの選択肢のなかで国会議員は最下位である。しかしそれでも、今回のゴタゴタは、政治家にたいする不信感に拍車をかけた可能性があるように思う。

 「政治家は選挙に受かることしか考えてない」、もっと言えば「公益よりも自分の利益しか考えてない」という発想は、政治的シニシズムとも呼ばれる。当選することを最優先課題とし、国会での審議をないがしろにしたり、前言を簡単に翻したり、政策よりも世論の「風」を期待して所属政党をコロコロ変えるという態度が目立つなら、どうしても人びとのあいだに政治的シニシズムは広がっていく。

有権者の側の問題?

 もっとも、政治的シニシズムの原因を政治家だけに求めるというのは、政治家にとって酷な話ではあるだろう。政治家が解散時期を調整したり、現実味の乏しい政策をぶち上げるというのも、世論というのはその程度で動いてしまうという諦観があるからだろうし、実際にその発想はかなり正しいのではないかと思う。

 国会で政策について真面目に討議をしたり、政策論争を通じて政党組織を鍛え上げようとしても、多くの人はそんな「瑣末」な事柄に関心を向けたりはしない。

イケメンだったり美女だったり元タレントだったりといった政治とはまったく関係のない属性が、投票結果に大きな影響を及ぼす。あるいは、政治家としての力量にはおよそ関係しないはずの不倫等のスキャンダルが致命傷にもなる。

 さらに、政治にもできないことがたくさんあるにもかかわらず、人びとは過剰な期待をそこに寄せてしまうという問題も指摘される。期待がある以上は何かをやっているポーズを示さねばならないが、どこまで行ってもそれはポーズでしかない。だが、そのポーズをとることが人びとの支持を集めるうえでは重要だったりするのだ。

 このような状況が続くなら、政治家が真面目に政策を語ろうとする意欲はどうしても下がるし、真摯な人はそもそも政治家になれなくなってしまう。実現不能なことが最初から分かっている公約を掲げたり、それを簡単に破棄して人びとの間に政治不信を高めることに何ら良心の呵責を持たない政治家ばかりが増殖していくことにもなりかねない。政策よりもプロパガンダ(政治宣伝)が得意な政治家ばかりになっていきかねないのだ。

 こう考えるなら、現在の政治状況の元凶は、つまるところ有権者自身にある。人びとは自分たちのレベルを越える政治家を持つことができないというのはよく言われるところである。日本の政治のレベルが低いというのであれば、それは日本の有権者の政治的意識のレベルの低さに原因がある、ということになる。

 …のだが、見方を変えるなら、政治家が悪いわけでも、有権者が悪いわけでもない、という可能性もある。では何が悪いのかと言えば、政治家と有権者とをつなぐ経路にこそ問題があるのかもしれない。つまるところ、メディアこそが元凶だという可能性だ。

メディアがばらまく政治的シニシズム

 政治的シニシズムにかんする研究では、政治家の政策ではなく、選挙戦略に焦点を当てる選挙報道は、人びとの政治的シニシズムを強めるという指摘がある。

 忙しい有権者にとって、政治にかんする情報を自ら収集、分析するという作業はけっして容易ではない。昔に比べれば、ネットのおかげで国会の議事録なども簡単に読めるようにはなっているが、実際にそれをやる人は決して多くないだろう。マスメディアであれ、ネットメディアであれ、どこかの誰かが収集し、編集したニュースこそが、人びとが政治を眺める窓になっているという状況は今も昔もそれほど変わっていない。

 問題は、そのような収集、編集の過程において、不可避的に取捨選択が行われるということだ。重大な政治対立を報じるにあたって、その日の首相の朝ごはんが何だったのかを伝えたところでノイズにしかならない。あくまでトピックに関係ある事柄を選んで読者や視聴者に伝えねばならない。そして、そうした情報の取捨選択によって、政治がどのように人びとの目に映るのかは大きく変わる。

 たとえば国会審議ひとつとっても、何十分にも及ぶ質問や回答をメディアはすべて紹介したりはしない。そのなかで重要と思われる部分だけをピックアップする。そのさい、メディアが注目しやすいのは、与野党がまともにぶつかるシーンであり、与党のスキャンダルを攻め立てているシーンである。

 メディアがそうしたシーンしか報道しないのであれば、野党の質問もどうしてもそこに力点を置かざるをえなくなる。国会での質問こそ、野党が人びとに存在感を示す重要な場になるからだ。

 選挙報道について言えば、各党の政策を地道に比較するよりも、それぞれの選挙戦術とその効果を競馬的に報じたほうがやはり盛り上がる。誰それが誰それの応援演説に駆けつけた、どこどこの選挙区では誰それが一歩リードした等々、一種のお祭り騒ぎとして紹介したほうが関心を引きつけやすいのだ。

 だが、このような政治報道のあり方は、結局のところ「野党は反対ばかり」「与党は責任逃ればかり」「政治家は選挙に勝つことしか考えない」という印象をどうしても強めてしまう。たとえば、今年の通常国会で内閣が提出した法案のうち、民進党が79%の法案に賛成し(共産党でも33%の法案に賛成)、反対した14本の法案のうち8本には対案を出していたりといったことはさほど注目されない。

 この観点からすると、現在の政治を劣化させている元凶は、メディアの政治報道だとも考えられる。人びとが政治を眺めるための窓が歪んでいるからこそ、政治家が権謀術数だけに精を出しているかのように見えてしまう、というわけだ。

 しかし、このように書けば、メディアの中の人からはお叱りを受けるのではないかとも思う。そんな立派なことを言っても、真面目に政策関連のニュースを報道したところで、読者や視聴者がついてこないというのは確かに事実ではあるだろう。しかも、難しいニュースをできるだけ「わかりやすく」かつ「面白く」伝えようとする試みをがんばってやっているという反論もありうる。

 実際、メディアと読者や視聴者との関係を考えるとき、メディアの中身だけに注目するというのでは一面的と言わざるをえない。読者や視聴者がいて初めて成立するビジネスである以上、「人びとが欲するもの」を無視して記事や番組をつくることはできないからだ。だとすれば、つまるところ悪いのはやっぱり有権者…ということになるのだろうか?

悪循環からどうやって抜け出すのか?

 以上のように、政治家、有権者、メディアという観点から、いまの政治が抱える問題について考えてきた。それでは、結局、なにが「元凶」なのだろう?目先の利益に走る政治家が悪いのか、有権者の水準が低すぎるのか、あるいは政局やスキャンダルばかりを伝えるメディアに問題があるのか。

 ぼく個人としては、おそらくこの問題に「元凶」はないと考えている。政治家、有権者、メディアがそれぞれに影響を与え、結果的に政治をグダグダにしているのではないだろうか。

 だとすれば、実に月並みな結論でしかないのだが、この悪循環から抜け出すためには、それぞれがなすべきことなすしかない。政治家は実現可能な政策についてしっかりと考え、わかりやすくアピールする。有権者は政策を伝える報道もちゃんと追いかけ、どこに一票を投じるべきかを真剣に考える。メディアは政治家の戦略やスキャンダルだけではなく政策についても頑張って伝える。優等生的な答えになって申し訳ないが、これ以外の代替案をぼくはちょっと思いつかない。

 ただ、民進党のゴタゴタの結果として、真面目に政策を語ろうとする動き、それに注目しようとする動きが出てきたことには少し救いを感じる。今回の選挙でどこが勝つ、勝たないに関係なく、そうした動きが少しずつ広がって、日本の民主主義が成熟していくのではないか…という大きな期待をすると、うまくいかなかったときに辛いので、ほんのちょっとだけ期待することにしたい。

 (ツンデレ風に)ほんのちょっとだけ、だからね!