「世界最悪の事態」を迎えた人びと
安部首相が現在の日中関係を第一次世界大戦前の英独関係に例えたということが話題になっている。
今年は第一次世界大戦が勃発してからちょうど100年目ということもあり、何かと話題になることも多い。そこで、このエントリでは、当時の人びとが第一次世界大戦をどのように迎えたのかということを少し書いてみたい。もっとも、ぼくは専門家ではないので、大したことは書けないのだが。
ウォルター・リップマンは、20世紀の前半から半ばにかけてアメリカを代表するジャーナリストだった。第一次世界大戦が勃発した1914年夏、リップマンは偶然にもヨーロッパに滞在していた。イギリスでの仕事を終えてスイスへと向かう途中、リップマンはベルギーのブリュッセルでオーストリアがセルビアに宣戦し、ヨーロッパ情勢が急激に緊迫してきたことを知る。リップマンはその日の日記にこう走り書きしている。
ヨーロッパ戦争近し。ブリュッセルはパニック状態。銀行の取り付け騒ぎ。信用の瓦解。
(出典)ロナルド・スティール、浅野輔訳(1980=1982)『現代史の目撃者(上)』TBSブリタニカ、pp.102。
また、友人のイギリス人政治学者であるグレアム・ウォーラスには次のような手紙を書いている。
私は不安に襲われて次から次へと新聞を買いあさりました。駅という駅ではかつげるだけの荷物をかついだ人びとが、わめき合いひしめき合っていました。昨日オステンデから乗った汽車では、ドイツ語を喋ると身の危険を感じるような雰囲気でした。今夜スイスに直行します。
(出典)前掲書、p.102。
だが、リップマンはスイスに入れなかった。国境が封鎖されているという情報が伝わってきたからだ。やむなくリップマンはロンドンに戻り、ウォーラスの家へと転がり込む。次の日、リップマンは友人に向けて次のような手紙を書いた。
親愛なるフィリックス
今日は楽しい気分で手紙を書けるような日ではありません。ドイツがロシアに宣戦したというニュースが入ってから一時間が経過しています。今日中にはまちがいなくフランスも行動に出るでしょう。ウォーラス、ホブソン、ギルバート・ミューレイ、ホブハウスたちは反戦気運を盛り上げようとしていますが、勝負は五分五分です。われわれは居間でじっとすわり、おたがいの顔を見合わせては、ばかみたいにわざと明るい話題を探しているのです。その間にも、この恐るべき崩壊を誰も止めることができません。
その先はどうなるのか、誰にもわからない。思想も本もまったく小さな存在になってしまったように思われます。世論とか民主主義の希望とか、一体どこへ行ってしまったのか。くわで根こそぎにされる草花のように、はかなくはありませんか。
われわれは嘆願書を作成しました。午後にはトラファルガー広場で行進をする予定です。しかし誰もが狂っています。反戦の立場なのに、私にも、ドイツ人の首を締めてやりたいという気持が潜んでいるのです。
何も見えません。見えるものと言えば、完全に検閲された新聞を買いあさる人びとの姿だけです。ただ待つことしかできません。世界最悪の事態がわれわれのうえに襲いかかろうとしているのに、できることと言えば、過去24時間のあいだにロイター電を二行読んだだけです。
(出典)前掲書、pp.102-103。
このようにリップマンは戦争の勃発を暗澹たる気分で眺めていた。だが、それは事態の一面にすぎない。他方では、戦争を熱烈に歓迎していた人たちもいたからだ。
イギリスでは第一世界大戦が勃発した当初、徴兵令を施行しなかった。それは兵役に志願する人たちが殺到したためにその必要がなかったからだ。1914年8月の志願兵の募集が始まると9月までに75万人が、年末までには100万人を越える人びとがそれに応じた。1916年には同国でも徴兵令が施行されるが、それは基幹産業に必要な労働者が兵役に志願しないようにするためだとも言われる。
それでは、なぜそれほどまでに志願兵に殺到したのか。第一次世界大戦で登場した新兵器や塹壕戦での膨大な犠牲を思えば、まったく非合理的にも思える。
ポール・ファセルによれば、当時にイギリスにおいては戦争を一種の「スポーツ」のように捉える発想が蔓延していたのだという(Fussell, P. (1975) The Great War and Modern Memory, Oxford University Press)。20世紀初頭にアフリカの南端でボーア戦争があったものの、ヨーロッパでは長きにわたって大規模な戦争が行われていなかった。そのため、戦争に関するロマンチックな幻想が拡大し、退屈な日常を逃れて戦場での「冒険」に胸を躍らせる人たちが数多く存在したと言われる。しかも、1914年のクリスマスまでには戦争は終結するというのが大方の予想であったため、早めに志願しないと戦争が終わってしまうという焦りもあったのだという。
もうひとつ、そうしたロマンチックな幻想を煽り立てたのが、ドイツによるベルギー侵攻だった(木畑洋一(1987)『支配の代償』東京大学出版会)。大国ドイツが小国ベルギーを蹂躙している。これを放置することは大英帝国の名誉と誇りを汚すことである。このような「義憤」が戦争への熱狂的な支持を生み出すことになったのだという。今風の言葉を使えば、積極的平和主義といったところだろうか。第一次世界大戦中、さかんに用いられたスローガンは「すべての戦争を終わらせるための戦争」だった。リップマンもアメリカに帰国したのち、やがて同国の参戦を求める立場へと転じ、彼自身も戦争に深く関わっていく。
それでは、第一次世界大戦は何をもたらしたのだろうか。戦闘員の死者900万人、非戦闘員の死者1100万人。戦争によってスペイン風邪が蔓延し、直接の犠牲者以上の死者を出したとも言われる。
イギリスからは海を渡った兵士のうち91万人が命を失い、アメリカ人兵士の死者も13万人に及んだ。リップマンが戦争前にイギリスでテニスをともに楽しんだ若い友人たちも出征し、その多くは二度と生きてイギリスの地を踏むことはなかった。
戦争がもたらした荒廃は敗戦国ドイツに対する強烈な復讐心を生み、支払い不可能な賠償や同国の住民を分断するような国境線の確定をもたらした。経済学者のケインズは「講和の経済的帰結」で莫大な倍賞をドイツに課すことがいかに危険かを警告した。リップマンも同様にこの戦後処理に関しては批判的で次のように述べている。
賠償問題とは要するに、破産した人間を牢屋にぶちこみ、頭にピストルを突きつけて、10年間に1000万ドルを支払うという約束手形に署名させ、そのうえで10年間投獄するからそのあいだに模範囚としてそれだけの金を稼げ、と通告するようなものである。
(出典)前掲書、p.269。
しかし、復讐に燃える人たちにこうした声が聞き入れられることはなかった。そして、賠償に対するドイツ人の憤りはやがてヒトラーの台頭を生み、第二次世界大戦への道を拓くことになったのである。