擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

悲劇がもたらす命

 そろそろDVDも発売になるということで、さすがに『君の名は。』のネタバレをしても許されるだろう。ということで、以下では物語の核心に迫るネタバレがあります。

---

 『君の名は。』では、隕石の落下によって巨大な悲劇が発生する。で、なんやかんやあって、主人公とヒロインがもう一度その時間をやり直すことで悲劇の発生を食い止めるのだ。ううむ、二行で説明できてしまった。我ながら恐るべき要約力。

 それはさておき、この映画を見て考えたことがある。

 隕石の落下によっていったんは多くの人命が損なわれている。おそらくは隕石落下直後には、多くのボランティアが被災地を訪問し、生活支援を行ったことだろう。

 そのなかに若い男女がいたとしよう。二人はすぐに恋に落ち、やがて子どもが生まれた。幸せいっぱいの新しい家族の誕生である。

 ところが、そこに現われたのが、われらが主人公とヒロインである。二人の大活躍により、悲劇は回避された。悲劇が起きていたならば出会ったはずのボランティア二人は、お互いの存在すらも知らないままで生活を続ける。当然、二人のあいだに生まれたはずの子どもは最初からいないことになる。

 悲劇の発生を前提とした子ども。その消滅は果たして喜ぶべきことなのか…

 …というのは、単なるぼくの妄想である。

 ところが、たまたまウィンストン・チャーチル第二次世界大戦』(第4巻)を読んでいて、この妄想を思い出した。以下、少し長くなるが、同書から引用してみたい。米国での原爆実験が成功したという知らせをチャーチルが聞いたときの記述である。

このときまで、われわれは激烈な空襲と大部隊の進攻とによって日本本土を攻撃するという考えを固めていた。まっとうな戦闘においてのみならず、あらゆる穴や防空壕においても、サムライの捨身精神で死ぬまで戦う日本軍の無謀な抵抗のことを、われわれは考えていた。私の心には沖縄の情景が浮かんでいた。そこでは数千名の日本人が、指揮官達がハラキリの儀式を荘重に行なった後、降伏を選ばずに一列になって手榴弾で自爆する光景であった。日本軍の抵抗を一人ずつ押え、その国土を一歩ずつ征服するには、百万のアメリカ兵の命とその半数のイギリス兵の生命を犠牲にする必要があるかもしれなかった。(中略)

いまやこの悪魔のような情景はすっかり消えてしまった。それに代わって、一、二回の激烈な衝撃のうちに全戦争が終結する光景が浮かんだ。それは実際、快く輝かしいものに思われた。私が瞬間に思い浮かべたのは、私が常にその勇気に感嘆してきた日本人が、このほとんど超自然的な兵器の出現のなかに彼らの名誉を救う口実を見いだし、最後の一人まで戦って戦死するという義務から免れるだろうということだった。


(出典)ウィンストン・チャーチル、佐藤亮一訳(1984)『第二次世界大戦 4』河出書房新社、pp.432-433。

 もちろん、この引用をもって「原爆投下は正しかった」と言いたいわけではない。このチャーチルの記述に、連合国の首脳の一人として原爆投下を正当化したいという願望が反映されていることは疑いえないだろう。

 ただ、それとは別に、やはり考えてしまうことはある。もし仮に原爆が投下されず、日本政府が本土決戦を選択したら何が起きていたか。

 当時、まだ幼かったぼくの母は九州にいた。米国と英国が計画していた作戦によれば、まずは九州南部に軍を上陸させる予定だったようだ。戦闘が始まれば母もそれに巻き込まれていたかもしれない。

 また当時、ぼくの祖父は徴兵に取られて名古屋にいたと聞いている。本土決戦ともなれば、祖父が戦死した可能性は相当に高い。ぼくの父はもう生まれていたが、祖父が戦死していれば、その後の人生は大きく変化したことだろう。おそらく母と出会う機会もなかったはずだ。

 しかし、トルーマン大統領は原爆実験成功の報を聞き、本土上陸作戦の中止を決定する。そして、広島と長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦したこともあり、日本政府はポツダム宣言を受託した。

 言うまでもなく、人生には偶然が満ちており、さまざまな要素が影響を及ぼしあいながらその行く先を決めていく。それらの要素のなかで、原爆投下や本土決戦の中止だけを重視するのは恣意的と言えるかもしれない。けれども、やはりこの二つの歴史的出来事があったからこそ、ぼくは存在できていると言うことにそれほど間違いはないはずだ。ぼくの命は、間接的にではあれ、大いなる悲劇によってもたらされた。

 繰り返しにはなるが、だから「原爆投下は正しかった」と言いたいわけではないし、そんなことを言うつもりは決してない。また、このエントリになにか明確な結論があるわけでもない。

 ただ、自分の命が巨大な悲劇のうえに成り立っているということを改めて認識したというだけの話である。