擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

ジャーナリズムの精神

 NHKの問題をはじめとして、メディアやジャーナリズムのあり方が改めて問われている。ぼく自身はジャーナリストであったことはないし、偉そうに何かを言う資格もない。そこで、20世紀を代表する米国人ジャーナリストであるウォルター・リップマンに登場を願うことにする。

 もちろん、リップマンが常に正しかったなどというつもりはない。判断の誤りも多かったし、政治権力に取り込まれる場面も少なからずあった。それでも、以下で紹介する彼のスピーチは、ジャーナリズムだけではなく民主主義における主権者(つまり一般市民)のあり方を考えるうえでも良いヒントになるのではないかと思う。

 このスピーチは1959年9月、リップマンの70歳の誕生日を記念してナショナル・プレスクラブで行われたイベントでのものである。

 われわれはアメリカのリベラルな伝統のなかで育った新聞人であります。したがって一つのドグマに合わせてニュースを解釈することはしない。解釈にあたっては、いくつかの理論や仮説を立て、それを試行錯誤によって検証していくのであります。つまり、考えうる範囲で最も蓋然性の高い解釈、言い換えれば、生の素材が最もうまくあてはまると思われる一つの絵を提示し、その後のニュースがこの解釈に適合するかどうかを見守るのです。もし続報がごくわずかの修正でこの解釈にあてはまれば、もって瞑すべしでしょう。だが、続報がこの解釈に合わない、いや前に書いたことを根底から突き崩すような場合、やることは二つに一つ。拠って立っていた理論と解釈を捨て去る。これはリベラルな正直な人間であれば当然のことです。さもなければ、この処置しがたい続報を歪曲するか握りつぶすか、です。


 去年の夏、山荘の近くの森や山を散策しているとき、私は白昼夢に襲われました。週に何回か定期的に自分の意見と解釈を発表するという仕事をどう説明すべきか、これに何と答え、どう正当化するか、私は夢のなかで思いをめぐらせていたのであります。

 夢の中で評論家がこう話している。「世の中の森羅万象について何かわかったようなことを書けると思うのは、ばかげた話ではないか。きみは外交問題について書いている。世界各国から毎日国務省に入ってくる公電をきみは読んでいるのか。国務長官のスタッフ会議に出席しているとでも言うのか。国家安全保障会議の一員なのか。それにきみがあれこれ書いている諸外国についてはどうなのだ。イギリス首相官邸に自由に出入りできるのか。クレムリンの最高会議幹部会の議論をどうやって耳にするのか。要するにきみは部外者であり、したがって、たんなる知ったかぶりにすぎない。どうしてそれを認めようとしないのか。

 「アメリカ政府ばかりではなく、ほかの国の政府の政策について、解釈するどころか、批判したり反論をぶつなど、一体自分を何様だと考えているのか。

 「それに国内問題でも、ご託宣を下す特別な資格が本当にあるのか。たしかに、国内問題では機密事項はあまりないし、政治家にはまず誰とでも接触できる。聞かれたくない質問も遠慮なくぶつけることもできるし、政治家のほうは率直に答えたりはぐらかしたりもするわけだ。だが、機密はそれほどないとしても、謎とされるものが数多くあることはきみも認めるだろう。なかでも最大の謎は、有権者が何を考え、何を感じ、いまこの段階で何を望んでいるのか、ということだ。投票日に何を考え、感じ、望むであろうか。それに、議論や説得、脅しや約束、あるいは世論操作や指導力の発揮によって、有権者の頭にどのような考え、感情、欲求が注入されるか。これがわからない」


 たしかにこれは手厳しい批判でしたが、夢の中で私はこれに十分反論することができました。この評論家に私はこう反論したのです。


 「きみ、気をつけたほうがいい。きみの話は行きつくところ、われわれが民主主義の下で生きていること、すべての人に参政権があるということ自体ばかげているということになる。部外者でも部内者に対し主権を行使することができるとする民主主義の原則を非難することになる。きみの言わんとするのは、人びとが知ったかぶりの部外者だから、自治能力をもたないということなのだ。

 「もっと言えば、きみの議論によれば、部内者ですらまともに統治する資格がないことになってしまう。たとえば、国務省に毎日入ってくる公電を読んでいる人間、少なくとも読める立場にある人間の数は、多くて40人にすぎない。さらに言えば、わが国の政治を誰に託すべきかについて、非常にはっきりとした立場をもっている上院議員、下院議員、州知事、市長といった人びとのうち、何人がきみの言う公電を目にしているのだろうか。

 「世界の出来事というのは、概して誰もが部外者で、十分な知識をもってないということをきみは知っているだろうか。政府の中枢にいる人びとについても同じことだ。国務長官は、読みたいと思う文書はアメリカのものであれば何でも目にすることができる立場にある。だが実際、そのうちのどれぐらいに目を通しているだろうか。アメリカの文書は読めるとしても、イギリス、カナダ、フランス、ドイツ、中国、あるいはソ連の機密文書に目を通すわけにはいかない。しかも国務長官は、戦争か平和かという重大問題で決定を下さなければならないのだ。そして、この決定に対し、国務長官よりもはるかに情報量の少ない議会が、その態度を決定しなければならない。これが実際の姿なのだ」


 私はこの白昼夢で、私を批判する人に、人間というものは概して無知なのだという謙虚な気持になってほしかったのです。そのうえで彼に向かって、ワシントン常駐の記者仲間の存在について、恬として恥じることはないと、と相手の議論にふさわしい調子でこう答えたのです。


 「もしわが国が被治者の同意による統治という形をとっているとするなら、被治者は、統治者が自分たちに同意を求めている事柄について、何らかの意見をもたねばならない。どのようにして彼らは意見を形成するのか。

 「彼らは新聞やラジオで、ワシントンで起きているか、アメリカで何が起きているか、世界ではどのような事態が発生しているかについて、記者が伝えるものを基準に意見を形成する。この意味でわれわれ記者は、必要不可欠なサービスを提供しているのだ。それぞれの守備範囲でわれわれは、水面下で生起している事柄、水平線の彼方にある事態について、それが何であるかを発見し、これらの事態が昨日もっていた意味は何か、明日はどのような意味をもちうるのかについて、推論し想像し、思いをめぐらし、判断することを仕事としている。

 「このようにわれわれは、主権者たる市民がみずからその時間と注意を割いて行なうことのできない部分を埋めている、と言ってもよい。これがわれわれの仕事なのだ。これはけっしてつまらない仕事ではない。それに誇りをもち、これが自分たちの任務であることに喜びを感じて、何が悪いのだろう」


(出典)ロナルド・スティール、浅野輔訳(1980=1982)『現代の目撃者(下)』TBSブリタニカ、pp.286-288(一部改訳)。

 ソクラテス的ではあるが「人間というものは概して無知なのだ」という言葉はやはり胸に留めておきたい。いくらネットが発達しようとも、見たいものだけを見ているならばその事情に何らの変化はない。むしろ、見たいものだけを見ることのできる技術が発達してきたからこそ、われわれが見たくないもの、知りたくないことを知らせるジャーナリズムの役割はよりいっそう重要になっているとすら言える。

 もちろん、それは商業的利益を追求し、時として政治的圧力にさらされるマスメディアにとっては難しいことであるのは承知している。それでも、理想と現実のバランスはつねにどちらかが0でどちらかが100だというわけではない。

 前にもどこかで書いた気がするが、たとえ俗悪な報道があったとしても「だからマスゴミは…」などと全否定しても事態は一向に改善しない。子どもが悪さをしたからといって、その全人格を否定し続けるならば成長には寄与しない。悪いものは叱り、良いものは褒める。そうしないと本当に良いものは育たない。

 ネットによって一般の人たちでも手軽に情報発信ができるようになったいま、良質なメディアの育成はこれまで以上に「われわれ」の手にかかっている。悪質なデマをまき散らすまとめサイトが膨大なPVを稼いでいる現状は旗色がかなり悪いことを示しているが、それでも勝負が完全に決まったわけではない、と思う。