擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

知識人の消滅

(過去ツイートの再編集)
 國分功一郎さんと麻木久仁子さんの対談記事に気になる箇所があった。

(麻木さんの発言)特に学者さん、知識人階級の人たちね。まず最近の知識人は、遠慮してるのか謙遜してるのか知らないけど、自分たちが知識人階級だっていうことを必死に否定する。でもあなた方は厳然としてインテリゲンチャなんだ、そこを見て見ないふりをすべきじゃない、と私は思ってるの。
(出典)http://www.gentosha.jp/articles/-/410?page=4

 麻木さんは「知識人階級」という言葉を使っているが、「インテリ」と言い換えてもいいだろう。少なくとも、ぼくと同世代(つまり団塊ジュニア世代)以下の大学教員や研究者で、「自分は知識人である」「インテリである」と自己規定する人は、ほとんどいないんじゃないかと思う。

 言うまでもなく、その大きな理由の一つは「知識人」や「インテリ」がもはや蔑称でしかないことだ。たとえば、「自称知識人」「自称インテリ」といったフレーズでリアルタイム検索をしてみると、この二つの言葉への罵詈雑言を眺めることができる。このような状況で、知識人(インテリ)と自己規定するというのは、バカにして下さいと言っているのとほぼ同じだ。

 もう一つの理由としては、自分は「知識人」ではなく「専門人」だという縛りがあるのではないだろうか。専門人だということは、自分の専門については知識があるけれども、それ以外のことについては一般人と同じか、それよりも劣る存在だということを認めるということだ。

 実際、専門外のことに口を出すというのは、肩書きの濫用だという規範意識もある。本当はAという分野のことしか知らないのに、学者や研究者といった肩書きを利用してBのことにまで口を挟んだりすべきではないという意識だ。自分が知らないことに関しては「知らない」と言う。これが専門人の挟持でもある。

 それに対して、知識人というのは、どうもオールマイティな感がある。豊かな教養に裏打ちされたコメントを様々な分野に対して行えるというイメージだ。だが、これだけ専門分化が進んだ現代社会で、そのような知識人を演じるというのはきわめて難しい。何か発言したところで、専門家が出てきて「いやいや、それは…」と叱られて赤っ恥をかくのが関の山だろう。

 こうした傾向は、ネット内ではさらに顕著になる。ネット上では日々、優越感ゲームが繰り返されていて、シニカルなコメントで他人を揶揄したり嘲笑したりする人が人気を集める傾向にある。北田暁大さん風に言えば、ベタな存在をネタにして嗤うというコミュニケーションのモードは今でも健在だ。嘲笑するためのベタな存在としては、「自称知識人」や「自称インテリ」は格好の存在だろう。繰り返しになるが、そんな空間で知識人やインテリなどと自己規定することは、よほどの物好きだと言わざるをえない。

 そのようなコミュニケーションのモードが支配的な空間では、「自分は愚かである」ことを前面に押し出すのが無難なふるまいになる。「ぼくらは専門バカだから、専門外のことはわかりません」と言い切ってしまえば、余計な反感を買う心配も少ない。

 自己の専門分野にしても、外野からあーだこーだ言われるのが嫌なのなら、難しい専門用語を駆使して、アカデミズムの狭いサークルのなかでのみ読まれるような文章を書いていたほうが精神衛生的にははるかに楽だ。議論の前提を無視したような非難や中傷に晒されることもない。

 このように考えるなら、いま起きているのは「インテリ」と「大衆」との乖離というよりも、タコツボ化した狭いアカデミズムと、それ以外の世間との乖離ということになるのかもしれない。こうして、マスメディアやネット論壇の表舞台には「いつもの顔ぶれ」が並び、アカデミシャンの多くは舞台裏から苦々しくそれを眺めるものの、決して表には出てこないという構造が生まれる。

 「自称知識人」や「自称インテリ」といった絶滅危惧種に対する嘲笑だけが蔓延し、嘲笑する人が想定しているであろう当の大学教員や研究者たちの多くは「知識人」や「インテリ」であることを拒否し、狭い専門性の領域に閉じこもるという循環。好ましいとは思えないが、これがたぶん今の言論の状況なのだろうと思う。