(ツイートのまとめ+加筆)
責任者は責任を取れる立場にいるのか?
「責任者は責任を取るためにいる」という言葉がある。
これは、責任を取るべき立場にありながら、そこから逃げ出そうとする人を批判する言葉として解釈できる。「責任者はお前だろうが!」という話だ。しかし、これとは違う解釈もありえるのではないだろうか。
「責任を取る」ということは、生じてしまった結果をその人物が変えうる立場にいたということが前提になる。たとえば、前方不注意で交通事故を起こした人の責任が問われるのは、その人が前をちゃんと見てさえいれば事故は起こらなかったと想定されているからだ。逆に、ドライバーがどうやっても事故を回避できなかったとすれば、その人の責任を問うのは酷というものだ。
だが、特に組織の責任者ということになると、その人物が問題を回避するための選択肢を常に持っているかどうかは怪しくなる。組織の規模が大きくなればなるほど、責任者自身も歯車の一つにならざるをえない。責任者とは言っても一人の力で出来ることには限りがある。また、巨大な組織の末端にまで責任者が目を光らせることは困難だ。
たとえば、太平洋戦争の開戦。敗戦に至る責任の所在がどこにあったかと言えば、もちろん当時の日本政府や軍部の首脳だろう。だが、たとえ彼らの一人が戦争反対を唱えたところで、歴史の流れが変わったとは思えない。圧倒的な戦力差があることは最初から判明していたとしても、開戦やむなしという「空気」の力の前には、個々人は無力だ。
それでも、敗戦や巨大事故のような厄災を前にしたとき、多くの人はその「責任者」を探さずにはいられない。「仕方がありませんでした」、「自然の力の前には無力でした」という言い訳は通用しない。厄災によって生じた巨大なストレスは、矛先を向ける相手をどうしても探し求める。だからこそ責任者は必要になる。
つまり、「責任者は責任を取るためにいる」というのは「本当のところは責任なんて誰も取りようがないのだけれど、それでは世間が収まらないから、泥をかぶる役目として責任者が必要になる」というふうにも解釈できるのではないだろうか。
責任とは虚構である
この点をさらに突き詰めて、小坂井敏晶さんは『責任という虚構』という著作のなかで次のように述べている。
自由だから責任が発生するのではない。逆に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。言い換えるならば自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論的な発想で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない。
(出典)小坂井敏晶(2008)『責任という虚構』東京大学出版会、p.157。
ここで「自由」というのは、選択の余地があるということを意味している。要するに、責任者を見つけて罰する必要がまず先にあり、その人には選択の余地があったという「虚構」を後から社会が作り出したのだと小坂井さんは述べている。
これは想像だが、刑事裁判でもある人物が引き起こした事件の規模が大きければ大きいほど、その人物に責任能力がなかったと判断するためのハードルは上がるのではないだろうか。具体的には、コンビニで万引きした人の責任能力を問う基準と、街なかで無差別殺人を引き起こした人の責任能力を問う基準とが異なる可能性があるのではないだろうか。もちろん、後者の事件のほうが「けじめ」を求める声は大きくなるために、加害者に責任能力を認めるように促す圧力は大きくなるだろう。
責任を問わずに済む状況のために
もちろん、以上のように述べたからといって、責任を問うことが無意味だと言いたいわけではない。そもそも、ある人物が一人の人格として尊重されるためには、その人物は責任を負うことができるという前提がなくてはならない。
逆に言えば、ある人物が何をしても責任を問われないというのは、その人物が独立した人格としては見なされていないということを意味する。生まれたての赤ちゃんが何か悪さをしたとしても、その赤ちゃんの責任を追求しようとは誰も思わないだろう。したがって、個人の人格を尊重するためには、たとえ責任なるものが虚構であったとしても、それを放棄することはできない。
とはいえ、多くの場合において責任がけじめを付けるために必要とされるものでしかないなら、必要になるのは個人の責任が問われるような状況そのものを最初から作り出さないことではないだろうか。
組織の巨大な圧力のもとで個人に取れる選択の範囲はたかが知れている。もちろん、英雄的、超人的な力によって圧力を跳ね返し、事態を変えていく力を持っている人もいるかもしれない。でも、個人にそこまで問うのは酷だとぼくは思う。
たとえば、戦場での軍隊による虐殺や性暴力は、それを遂行する側にしても拒否することが難しいのだという。拒否すれば仲間からの過酷な制裁が待っているからだ。ぼくがそうした状況下に置かれたとして、虐殺や性暴力に手を染めないという自信はない。むしろ、他人にそれを強制する側にまわっていたかもしれない。
となると、「虐殺や性暴力に手を染めるか、あるいは仲間から過酷な制裁を受けるか」というろくでもない選択そのものがどうすれば生じずに済むかを必死で考える必要がある。言い換えれば、そうした選択を生んだシステムそのものを問題にするということだ。
カレー味のう○こと、う○こ味のカレー、どちらを食べる?という選択があるとするなら、そもそもそういう選択を迫る状況そのものが間違っているのである。