擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

領域侵犯のモラル

 著名な社会学者である大澤真幸さんの文章が、多くの人によって批判されている。

 大澤さんがどれぐらい有名な社会学者かと言えば、人気アニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』でその言葉が登場人物に引用されるほどなのである。これを書きながら、ぼくの論文もいつかアニメで引用される日が来るのだろうかと一瞬だけ夢想したが、そもそも他の研究者からすらもほとんど引用してもらえないので、その夢はきっと叶わないだろう。

 いきなり話が逸れた。

 批判を浴びているのは、今度の選挙にまつわるこの文章である。このなかで大澤さんが日本経済の現状について詳細に論じていることが、おもに経済学に強い人たちから厳しく非難されている。

この際だから、もう一言、付け加えておこう。ほとんどの論者が、増税は、消費意欲を低下させ、経済成長に対してマイナスだ、という趣旨のことを述べている。ほんとうなのか、私は疑問に思っている。まず、純理論的には、増税が経済成長の脚を引っ張るということは、ありえない。徴収された税は、政府の金庫にしまっておくわけではなく、政府が使うことになるからだ。つまり、増税しても、有効需要は下がらない。むしろ、「小さな政府」にすることは、たとえば一部の公務員が解雇されるなど、有効需要の低下につながるだろう。
(出典)大澤真幸「オムレツができてから卵を割ろうとする者たち」

 正直な話、ぼくもこの文章を読んで「これはまずい」と思った。経済学者ですら意見が割れているような問題を、社会学者が断定口調で語るというのはいかにもな「領域侵犯」である。

 しょせん、研究者というのは自らの専門以外の領域では素人にすぎない。むしろ、知識が偏っている分だけ素人以下だとも言える。だから、自らの領域の外側の事柄については「分からない」とはっきり言うか、最初から何も言わないのが研究者としてのあるべき姿である。

 …というのが正論であるし、ぼくも基本的には同意する。ただ、特に社会学の場合(もしかするとその他の人文社会科学も)、その専門領域の輪郭がそれほどはっきりしていないことが割と多いんじゃないかとも思うのだ。さらにもう少し言うと、あまりに自分の専門領域の殻にこもってしまうと、学問として閉塞してしまう感もある。

 そのあたりが社会学の脇の甘さであり、他分野の人から批判される所以であり、なおかつ面白さでもあると思う。たとえば歴史社会学の場合、史学研究者から史料の扱いの粗さについて批判されることが多々あると聞く。

 あんまり人のことばかり言っていてもアレなので、ちょうどぼくがいま困っている問題についても書いておこう。マスメディアの社会学みたいな境界領域もいいところの研究者としての悩みだ。

 クリスチャン・ラーセンという研究者のThe Rise and Fall of Social Cohesion(社会的団結の高揚と没落(未訳)、Oxford University Press, 2013)という著作がある。この著作のなかでラーセンは、米国内における経済格差と人びとの認識とのギャップについて論じている。ラーセンによると、世帯の可処分所得をもとに分類すれば米国はなんだかんだ言って中産階級の人びとが多数を占める社会である。ところが意識調査によると、米国人は貧困層の人びとが社会に占める割合を実態よりも遥かに多く見積もる傾向にあるというのだ。

 社会の実態と人びとの認識のズレ。マスメディア研究者ならこのフレーズを聞いただけで、培養理論とかモラルパニックとかぶつくさ言いながら肩のウォーミング・アップを始めてしまうのではないだろうか。マスメディアが描き出す社会像が実態とズレているために、人びとの認識まで歪んでしまうという話にもっていきやすいだからだ。実際、ラーセンはこの著作のなかでマスメディアの分析をかなり詳細に行っている。

 ところが、である。

 このディスカッション・ペーパーによると、米国人は自らの社会の経済格差について「楽観的すぎる」。(このペーパーは経済学者ポール・クルーグマンのエッセイでも紹介されている)。つまり、米国人は貧困層が社会に占める割合を過少に評価しているというのだ。ラーセンの主張とまさに正反対なのである。しかも、面倒くさ、いや興味深いことに、このペーパーの著者(名前の読み方がわからない)とラーセンが引用している米国での意識調査はほとんど同じ結果を示している。

 それでは、なぜこのようなことが起きるのか。それは両者が使用している米国の経済階層のデータが大きく異なっていることによる。

 さきほど述べたように、ラーセンは世帯の可処分所得の分布に従って米国はなんだかんだで中流階級社会だと言っている。ところが、同じ可処分所得の分布を用いているはずのこのペーパーでは、なんだか難しそうなデータ処理をしたあとで、以下の図のように米国社会の多数は最下層に位置していると言っている。

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(出典)Judith Niehues 'Subjective Perceptions of Inequality and Redistributive Preferences: An International Comparison', p.10.

 つまり、社会の実態の把握の仕方がまったく違うので、同じように人びとの認識がズレていると主張していても、そのズレが見出される方向が180度逆になってしまうのだ。

 ともあれ、自分の論文で取り上げる以上、この主張の対立についてはどちらかが正しく、どちらかが誤っていると言いたいところだ。しかし、ぼくはしがないマスメディア研究者である。米国の経済階層の実態について、どちらが正しいのかを判断しろというのは無理ゲーにしか見えない。しかし、論文の流れ的にこれらの研究を取り上げないわけにはいかない…。

 …というのは一例だが、マスメディア研究のような境界領域にいると、こういう領域侵犯の問題にしばしば直面することになる。そのたびに隣接領域の研究について勉強することになるわけだが、もちろんその筋の専門家には遠く及ばない。だから最低限の礼儀として、自分がどのような研究に依拠しているのかをはっきりと述べておく。

 そこには「この研究に依拠しているのなら、まあ仕方がないか」というお目こぼしを願いたいというセコい思惑もある。しかし、自分がどの枠組みに乗っかっているのかを明示することが素人としてできる精一杯ではないかとも思う。それをやらない限り、素人の思い込みでしかないものに専門家としての発言という重みを与えてしまうことになりかねない。

 ここで冒頭の大澤さんの文章に戻る。もしかしたら、大澤さんは自らの社会学理論の論理に沿ってこの経済論を展開したのかもしれない。しかし、もしそうでなかったのなら、素人として領域侵犯をする以上、せめて自分がどのような経済学の枠組みを借用しているのかを述べておくべきではなかっただろうか。