擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

犯罪報道の二つの方向性

 多摩川沿いで中学生が殺害されるという痛ましい事件が起きた。

 事件の詳細についてはまだ部外者が何も語れる段階にはない。にもかかわらず、すでに少年法の改正を求める声が上がっている。容疑者が未成年である場合に氏名などの報道を禁じている規定の改正が必要だというのだ。

第61条 家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。
(出典)少年法

自民党政調会長の:引用者)稲田氏は「少年が加害者である場合は名前を伏せ、通常の刑事裁判とは違う取り扱いを受ける」と指摘。その上で「(犯罪が)非常に凶悪化している。犯罪を予防する観点から今の少年法でよいのか、今後課題になるのではないか」と語った。
(出典)「自公政調会長、少年法改正に言及 川崎の殺害事件受け」(『朝日新聞』)

 1990年代後半以降、少年による凶悪事件が起きるたびに厳罰化の要求が繰り返されてきた。そして実際に、厳罰化はかなり進められてきている(参照)。今回の少年法の改正要求もこうした「厳罰化」の一環として位置づけられるだろう。

 なお、こういった事件が起きるたびに繰り返される「(少年)犯罪の凶悪化」であるが、統計的にはそういった事態は確認されていない。むしろ、以前よりも凶悪犯罪がずっと減っていることは多くの人びとによって指摘されるところである(参照)。

 それは措くとしても、今回の「厳罰化」要求は、罰を与えると想定される主体が政府ではなくマスメディアだということに特色がある。つまり、マスメディアには社会的制裁を与える力があると暗黙のうちに認めたうえで、その権力を拡大しろと言っていることになる。

 だが、犯罪報道に関して以前から言われているように、マスメディアは国民から何らかの信任を受けた存在ではない。民主主義社会にとって健全なマスメディアは不可欠な存在であるとしても、それとマスメディアが社会的制裁を行うべきか否かはまた別の次元の話になるだろう。しかも、言うまでもなく逮捕された段階では「容疑者」にすぎないわけで、その時点での社会的制裁は真っ当な権力行使とも言い難い。

 以上の点を踏まえて、今後の未成年による犯罪の報道に関しては、おおまかに言って全く異なる二つの方向性が考えられる。

 一つは、これまで以上に情報の公表を進める、言い換えればマスメディアの既存の権力を拡大するという方向性だ。18歳を成人年齢とするのであれば、18歳以上については容疑者の氏名の公表を許可する。この方向をもっと進めれば、年齢に関わらず原則的に加害者の氏名を公表するということにもなる。

 たとえば英国では、1993年に当時2歳の男の子を当時10歳の男の子2人が殺害するというジェームズ・バルガー事件が起きたさい、加害者の生い立ち、氏名、顔写真がすべて報道されている。それ以外の未成年による事件でも、氏名と顔写真は普通に報道されている。

 こうした方向性のメリットの一つは、デマの発生を抑制できるというものだろう。ネット上での私刑がまかり通る状況のなか、正確な情報を伝達すれば、少なくとも無関係の第三者が容疑者扱いされるという事態は回避しやすくなる。隠されているからこそ不正確な情報が蔓延するということは確かに否定できない。

 もう一つの方向性は、逆にこれまでよりも情報の公表を抑制し、マスメディアが社会的制裁を与える権力を制限するというものだ。

 20歳以下の容疑者や加害者に関する報道の抑制はもちろん、成人であっても裁判で有罪が確定するまでは容疑者の氏名の報道は控えるという話になるだろう。それによって未成年の加害者や裁判で無罪となった人びとの社会復帰の促進を目指す。ネットの普及によって過去の犯罪歴がいつまでも記録され続ける状況を考えると、こちらの方向性にも合理性は認められる。

 「前科者の社会復帰など不要だ」という主張も散見されるが、彼らの社会復帰が困難になるほど、再犯の可能性が高まり、新たな被害者が生まれることにもなりかねない。犯罪者を全員死刑あるいは仮釈放なしの終身刑に処するといった極端な方策でも取らない限り、社会復帰はどうしても必要になる。

 たとえば、上で紹介したバルガー事件では、加害者の少年たちが釈放されたさい、英国政府は彼らに新しい氏名を与え、マスメディアにはそれを報じることを禁止している。彼らの社会復帰に費やされた公費は膨大な額に上るという。最初から氏名や顔写真を報道していなければ、そういった公費を節約できた可能性は高いだろう。

 また、容疑者に関する情報公開を進めるべきだという主張の論拠の一つは、被害者の情報ばかりが報道されるのは不公平だというものだ。実際、犯罪被害者に関する報道はしばしば加熱し、場合によっては被害者やその遺族へのバッシングすら生じてしまう。それを踏まえるなら、容疑者または加害者に関する報道のみならず、被害者に関する報道も抑制すべきだということにもなる。

 つまり、こちらの方向性を突き詰めていくと、人びとが被害者や加害者の氏名を知ることに公益性はないのだから、犯罪に関する実名報道全般を止めるべきだという話になっていく。

 しかし、こちらの方向性を追求した場合、問題となるのは真偽不明な情報が蔓延しやすくなることだ。正確な情報が隠されているほど、それに対する欲求は強まる。したがって、こちらを目指すのであれば、真偽不明な情報の流通に加担しないというネットユーザーの意識の向上が、前者の方向性以上に重要になる。

 以上のようにこのエントリでは相反する二つの方向性について考えてきた。以前には、世の大勢はつねに前者の方向性を支持しているとぼくは思っていた。情報の欠乏に対する根強い不満がある以上、人びとはどんな時であれ情報の更なる開示を求めると考えていたからだ。しかし、以前のエントリでも述べたように、マスメディアが「不要な情報」を流すことに対する不満が強まっている(ように見える)現在では、少し風向きが変わってきているのかとも思う。

 なお、ここでは大雑把に方向性を二つに切り分けたが、実際にはもっと多様な組み合わせが想定できる。被害者や容疑段階での加害者に関する報道を制限する一方で、有罪が確定した加害者については年齢を問わず更なる情報公開を目指すといった方向性などが考えられよう。

 いずれにせよ必要なのは、マスメディアによる社会的制裁の是非といった従来の論点に加えて、それを行使する主体があやふやなネットという暴走しがちな新しい「権力」との関係性のなかでマスメディアの役割について考えていくことではないだろうか。

移民の受け入れと異文化の共生

アパルトヘイトエスニック・コミュニティ

 『産経新聞』に曽野綾子氏が掲載したコラムをめぐって、大きな騒ぎが起きている。曽野氏がアパルトヘイト肯定とも解釈できる主張を行なったからだ。

 本人は誤解だとしているようだが、このコラムは高齢者介護のために移民受け入れの必要性を論じる一方、かつての南アフリカの事例を取り上げたうえで「住居だけは別にしたほうがいい」と語っている。アパルトヘイト肯定として解釈されても仕方がないように思う。

 ともあれ、ネットで急速にシェアされ、ネット系のメディアが取り上げ、海外メディアが「安倍首相の元アドバイザー」の発言として報道するようになった。アフリカ日本協議会や在日南アフリカ大使から『産経』への抗議が行われて事件となったことで、やや遅れて日本のマスメディアも取り上げ始めている。

 曽野氏の主張に関してはすでに数多くの批判が行われており、その多くは的確なものだ。アパルトヘイト肯定とも受け止められない論理は言うまでもなく、介護職への蔑視や黒人への偏見など、これが新聞に載るということ自体が不思議な感じすらする文章である。

 しかし、その一方で、もし仮に大規模に移民を受け入れるのであれば、住居の問題というのは確かに避けては通れない問題である。

 そもそも、曽野氏が主張するまでもなく、移民を受け入れればエスニック・コミュニティは自然にできる。ぼくがいま暮らしているロンドンでも、日本人が数多く暮らしている地域は存在する。日本語で教育を行う幼稚園や小中学校があり、日本食を扱う食料品店や日本語が通じる不動産屋や病院もある。なんだかんだ言って非常に便利であることは否定できない。多民族社会であるロンドンにはこういったエスニック・コミュニティがたくさん存在している。

 言うまでもなく、自生的なエスニック・コミュニティの発生とアパルトヘイトのように強制的に居住地区を指定するのとでは事情は全く異なる。無理やりに特定の地域に住まわせることと、便利さを求めて自発的に人びとが集まることとの違いはきわめて大きい。

 ただし、たとえ自生的に生まれたコミュニティであったとしても、それが周囲のより大きな社会からの孤立に帰結するのであれば、好ましい状況だとは言えない。とりわけ貧困がそこに関係する場合、都市は大きく荒廃していく。

移民は不信を増大させるのか

 『孤独なボーリング』などの著作で知られる米国の社会学者ロバート・パットナムは、2007年に発表した論文で、移民の増加によって社会全体での「社会関係資本」の低下が生じているとの主張を行なった。

 大雑把に言えば、社会関係資本とは人と人とのつながりによって生み出される信頼のようなものだ。これが増していくことで社会全体の効率性も増大するとされる。見知らぬ他人が信頼できなければ、駅のホームで行列の先頭に立つことすらできなくなるだろう。

 パットナムは移民が米国に経済的利益をもたらしていることを認めつつも、社会のなかの多様性が増していくことでお互いの信頼が失われ、人びとはより自分の殻に閉じこもるようになっていると主張している。

 このような「移民は社会に対してどのような影響を及ぼすのか」という問題は、欧米の政治・社会学では重要な研究テーマとなっており、パットナムの主張に対しても様々な批判が寄せられている。

 たとえば、エリック・アスラナーの「米国および英国における信頼、多様性、隔離」(2011年)という論文によると、社会の内部における信頼を低下させるのは多様性そのものではない。そうではなく、背景の異なる人びとが分かれて暮らしているということが社会の内部で不信を蔓延させる要因になるというのだ。逆に言えば、多様な人びとが暮らしていたとしても、彼ら、彼女らが社会にきちんと統合されていれば信頼は損なわれない。

 そうした現象が生じる理由としては、居住地域の分離が移民に対する不安を増大させるということが考えられる。日常的な接点が乏しいがゆえに、エスニック・コミュニティに関する情報は口コミやメディアを介したものとなる。どちらにしてもセンセーショナルな情報が好まれる傾向にあるので、コミュニティの外部に漏れ出てくるのは「ろくでもない話」ばかりになる。結果、移民の実像からは乖離したイメージがひとり歩きをして人びとの不安をかきたてていく。

 ただし、人びとが移民との接点を持つようになれば、すべてうまくいくようになるというわけでない。この点については後で論じることにしよう。

 話を戻すと、理由はどうあれ移民の増大が社会の内部での信頼を傷つけるとして、そこにいったい何の問題があるのかと思う人もいるかもしれない。しかし、不信の増大は結果として富の再分配福祉制度の導入・維持を困難にするとも指摘される。

 たとえば米国において福祉国家が発達しなかった大きな要因として、同国の人種的多様性を挙げる研究もある。つまり、貧困層にアフリカ系米国人が数多く含まれるという事実は、富の再分配福祉は彼ら、彼女らを潤わせるだけだという認識を多くの人に与える。結果として福祉国家への支持を集めることがきわめて困難な構造が生み出されているというのだ。

 ピケティ・ブームにも象徴されるように、経済格差が大きな問題として語られるようになっている。しかし、社会の内部での不信感が増大していくことは、その是正をより一層難しくしてしまう可能性がある。

エスニック・コミュニティの孤立をいかに防ぐか

 それでは、エスニック・コミュニティの孤立をいかにすれば防ぐことができるのか。まず考えられる方策としては、エスニック・コミュニティの形成を抑制したり、分散させるというものだ。異なる背景を持つ人びとが混ざり合って暮らすようになれば、偏見も是正され、信頼も維持されやすくなるとも考えられる。

 ところが、先に少し触れたように物事はそんなに簡単にはうまくいかない。それは、エスニック・コミュニティから切り離されてしまうことで、とりわけ子どもの養育が困難になってしまう可能性が生まれるからだ。

 実際、言葉や文化が大きく異なる環境に放り込まれた子どもが受けるストレスはかなりのものだろう。助け合える仲間が少なければ、勉強についていくことも容易ではないはずだ。なかには非行に走る子どもも出てくる。

 さらに、まったく孤立した状況に置かれる移民は、どうしても偏見にさらされやすい環境に置かれることになる。確かに、生活習慣が違ったり、経済苦から大人数でルームシェアリングをすることが、結果として摩擦を生むことはある。ただし、問題はそれだけではない。

 たとえば、日本のマンションにマナーの悪い日本人が住んでいたとする。その場合に「日本人はやはりマナーが悪い」という判断がなされることは稀だろう。ところが、それが外国人であった場合には「○○人はやはりマナーが悪い」という判断にすぐに結びつく。マジョリティであれば個人の性格や特性と見なされるものが、マイノリティの場合にはすぐに集団としての属性だと判断されてしまうのだ。

 そのようなまなざしは、移民を「犯罪者予備軍」であるかのように見なす認識を背後から支える。ラベリング理論が教えるように、特定の集団を「犯罪者予備軍」と見なす認識は、その人たちを本当に犯罪者にしてしまいかねない。

 このような観点からすれば、異なる背景を有する人たちが同じ地域に住むようになれば問題は解決すると考えるのは早計だと言わざるをえない。実際、ジャック・ドンズロの『都市が壊れるとき』という著作によれば、支援を受けて貧困にあえぐエスニック・コミュニティから離れ、中産階級の住宅地で暮らすことを選択した人びとの子どもは、かえって犯罪に走ることが多くなってしまったのだという。

 ドンズロの著作が教えてくれるのは、人びとを特定の地域に無理やり押し込めることも、そこから無理やり引き離すことも良い解決策だとは言えないということだ。そうではなく、移民を積極的に支援することで、彼ら、彼女らが自分たち自身で住む場所を決めることができるようにすることが、長い目で見れば孤立を防ぐためには非常に重要になってくるのだ。

移民の受け入れをどう考えるか

 かなり長くなってきたので、そろそろまとめたい。これまで見てきたように、異なる背景を有する人びとが一緒に暮らすということは容易ではない。その点に関してだけは、曽野氏に同意してもいい。

 だから、どうしてもそれに耐えられないという社会的合意が広く存在するのなら、移民を受け入れないという結論に至るしかない。それが民主主義的な決定だからだ。

 他方で、移民を受け入れることなくしては日本社会の存続が困難になるというのであれば、それはもう徹底的に取り組むしかない。すでに日本で暮らしている外国人や、新たに日本にやってきた人たちが社会の一員としてやっていけるよう、その権利をきちんと保障するとともに積極的な支援を行なっていく必要がある。

 もっとも好ましくないのは、抜け穴的な手法を使うことで移民をなし崩し的に受け入れていくことだろう。低賃金の労働力として劣悪な環境下でこき使い、使えなくなったら遠慮なく切り捨てる。

 そういったやり方は、日本人の賃金を低く抑えることにもなりかねないし、それによって蓄積されたフラストレーションが移民自身に向けられるという悪循環につながる。極右の政治家が自らの求心力を高めるために移民への反発を煽り、生活苦に苛まれる人びとの多くがそうした政治家を支持するようになる。それが今まさにヨーロッパで起きていることだ。

 曽野氏のエッセイはたしかにろくでもないものだが、今後の日本社会がいかにあるべきかを考える良き機会となることを期待したい。

参考文献

Alesina, A. and Glaeser, E. (2004) Fighting Poverty in the US and Europe: A World of Difference, Oxford: Oxford University Press.
Putnam, R. (2007) ‘E Pluribus Unum: diversity and community in the twenty-first century,’ in Scandinavian Political Studies, vol.30(2), pp.137-174.
Uslaner, E. (2011) ‘Trust, diversity, and segregation in the United States and the United Kingdom,’ in Comparative Sociology, vol.10(2), pp.221-247.
ジャック・ドンズロ、宇城輝人訳『都市が壊れるとき 郊外の危機に対応できるのはどのような政治か』人文書院
安田浩一 (2010) 『差別と貧困の外国人労働者』光文社。

紛争地域の報道とメディアの責任

 人質事件に端を発し、紛争地域での取材活動が大きな問題となっている。

 1月26日には『朝日新聞』のイスタンブール支局長がシリアのアレッポに入り、2月1日には現地からの記事が同紙に掲載された。『毎日新聞』は1月31日にその事実を報じ、『読売新聞』や『産経新聞』がそれに続いた。

 『毎日』の記事は、外務省が『朝日』に記者の出国を要請したという事実を報じるだけの短いものだ。しかし、『読売』や『産経』の記事は、『朝日』の記者が外務省の退避要請を無視してシリアに入国したことを伝えており、批判的なニュアンスが強い。

 『読売』や『産経』のこうした姿勢に対して、ぼくは強い不快感を覚えるのだが、このエントリではその理由について述べてみたい。

 そもそも、危険な地域での取材活動というのは誰かがやらねばならない仕事だ。情報の欠落はその地域で何が起きているのかを外部から見えなくしてしまう。もし第三者の観点から事態を報じる人びとがいなければ、現地から出てくるのは紛争当事者からの大本営発表や、Youtubeなどの過激なプロパガンダ動画、あるいは安全な地帯に避難した人びとからの断片的な情報だけということになってしまう。

 実際、多くのメディアはかなりのリスクを背負いながら危険な地域からの報道を行なっている。たとえば、リンク先の動画は英国の公共放送局BBCが昨年の11月にシリアのアレッポからのニュースとして報じたものだ(リンク)。この動画を見る限り、レポーターはかなりのリスクのもとで取材をしていることがわかる。

 また、今年の1月31日には同じく英国の『ガーディアン』紙の記者がシリア北部のコバニに入り、現地の状況を伝えている(リンク)。クルド人ISISから奪回したために当時とは状況が変わっているとはいえ、コバニは殺害された後藤健二さんが拉致された場所だとも言われている。なお、英国政府は「すべての英国民」に対してシリアからの即時退去を求めている(リンク)。

 もっとも、誤解してもらいたくないのだが、危険な地域に記者を派遣するメディアが優れていて、派遣しないメディアが劣っていると言いたいわけではない。メディアにはそれぞれ得意分野やリソースの違いがある。たとえば日本の地方紙に対して世界各地に記者を派遣しろというのは無茶な要求だろう。

 だからこそ、メディアは一方においては競争をしながらも、他方では情報を融通しあうことで広範囲にわたる報道を行なっている。加盟している通信社からニュースを受け取るというのはその典型的な事例だし、あるメディアがスクープを飛ばせば、他のメディアも後追いで取材をしなくてはならないことも多い。競争に熱心な記者にとっては悔しい話だろうが、違う角度から見ればこれも一種の協力体制だと言えなくもない。

 しかし、それでもリスクの大きな危険な地域からの報道というのはどうしても不足しがちになる。フランスの国際通信社であるAFPがシリアの反体制派の支配地域における取材を断念し、当該地域に関するフリーランスの記者からの記事も買わないという判断をしたというのはネットでもよく知られているが(リンク)、その理由としてもリスクの大きさが挙げられている。

 ただ、AFPはなおもシリアの首都であるダマスカスに支局を置き、ニュースを発信している。ダマスカス近郊ではまだ戦闘が続いているにもかかわらず、である(リンク)。つまり、そこで求められているのは「記者をシリアに入国させるか否か」という大雑把な判断なのではなく、「シリアのなかで特に危険な地域に記者を送るか否か」という判断だ。そういった判断は、最終的にはジャーナリスト個人やメディア組織が自らの持つ情報やリソースと相談しながら行なっていくしかない。政府が一律に決められるような話ではないのだ。

 しかも、あえて言えば『読売』と『産経』の両紙には紛争地域からの情報伝達により大きな責任がある。両紙ともに現政権の集団的自衛権や積極的平和主義という外交方針に賛同する姿勢を見せているからだ。

 個人的には、その方法論は入念な検討が必要だとはいえ、日本が世界の紛争解決に積極的に関与していくという方向性は間違っていないとは思う。そして、もしそうなのであれば、日本の有権者には紛争地域に関する情報がこれまで以上に必要になる。

 当該の紛争地域における日本の貢献はそもそも可能なのか、いかなる貢献をすべきなのか、現状の貢献は妥当なのか等々、有権者としてはそれらを知ったうえで政権の評価する必要がある。その際には海外メディアに依存するだけではなく、日本人の視点からの情報は欠かせない。

 有権者がそうした情報を欠いたまま、政府が積極的平和主義に関与していくのであれば、それは政府への白紙委任にほかならない。民主主義にとって決して望ましい状況とは言えない。『読売』と『産経』が集団的自衛権や積極的平和主義を支持するのであれば、両紙には紛争地域に関する情報の発信をより積極的に行なっていく道義的責任があると言っていい。

 とはいえ、両紙が現時点では記者をシリアに送ることができないという判断を下したのであれば、それ自体は必ずしも批判されるべきことではない。シリア全土が危険すぎると見なし、安全を確保しながら取材をするためのリソースが自社にはないと判断したのであれば、それはやむをえないだろう。

 だが、そうであってもリスクを取った『朝日』に関する告げ口的な報道を行うというのは、やはり報道機関としての挟持矜持を疑わせるには十分である。それは言わば、危険地域の情報という他のメディアが生み出す共有財産にフリーライドしながら(厳密に言えばフリーライドではないのだろうが)、その共有財産を豊かにしようとする試みを妨害していることにほかならないからだ。『朝日』の混乱に乗じて同紙の読者をかすめ取ろうとする昨年来のセコい戦略の続きであるようにも見える。

 急減させているとはいえ、『読売』はなおも世界一の発行部数を有する新聞社である。その部数を誇るのであれば、報道機関としての覚悟をもう少し見せてくれても罰は当たらないだろう。

 以上、偉そうなことをつらつらと書いてきたが、ぼく自身は安全なところでぬくぬくと調べ物をしたり、論文を書いたりしているしがない研究者にすぎない。しかし、だからこそ安全面を十分に考慮したうえで、なおもリスクを取る決断をした個々人や集団は応援していきたいと思う。

二つの自己責任論(再録)

(以前(2013年9月)に書いたエントリですが、時期に適ったテーマである気がするので再録します。ただし文末に追記があります。)

 日本では自動車に乗るさい、シートベルトの着用を義務づけられている。近年では後部座席に座るさいにも義務づけられるようになった。

 考え方によっては、これは非常にお節介な話である。シートベルトをするかしないかというのは基本的に個人の選択の問題であって、もし事故にあって自分の体が車から飛び出すようなことになっても、それは本人が死ぬだけの話だ。だから、国があーだこーだ口を出すような問題ではない。これは「自己責任」の問題なのだから。

 ケント・グリーンフィールドは著書『<選択>の神話』(紀伊國屋書店)のなかで、このような考え方とともに、自己責任に関するもう一つの考え方を紹介している。

 シートベルトの例を再び用いると、それをしないことによって害を被るのは決して本人だけではない。車を飛び出した自分の体が誰か別の人にぶつかるかもしれない。あるいは車から体が飛び出す瞬間を目撃させることでたまたま周辺にいた人にトラウマを与えてしまうかもしれない。

 仮に死ななかったとしても、それを救護する人、家族にのしかかる様々な負担などなど、シートベルトをしなかったことで、その人は多大な迷惑を周囲に与えることになる。この点を踏まえるなら、自己責任を全うするとは周囲に余計な迷惑をかけないよう慎重に行動することなのだと考えることもできる。

 つまり、自己責任論には、その結果を受け入れるならば何でも自分の好きなことをやって良いという考え方(選択的自己責任論)と、そもそも結果を全て引き受けることなど不可能なのだから周囲に迷惑をかけないよう慎重に行動すべきだという考え方(分別的自己責任論)があるというわけだ。

 グリーンフィールドは前者、選択的自己責任論を厳しく批判する。その背景には、グリーンフィールドが暮らすアメリカの政治状況がある。アメリカでは政府が国民の生活に介入することをひどく嫌う風潮がある。たとえば、オバマ大統領の医療保険制度改革にしても、それに反対する立場からはそれが国民の選択の自由を奪うという声が盛んに聞かれる。つまり、保険に入るか入らないかは自己責任の問題なのだから、国が強制的に保険に加入させるというのは誤りだというわけだ。

 それに対してグリーンフィールドは、不健康な生活を送っていれば往々にして自分では責任を取れないような事態を招くと主張する。つまり、周囲に迷惑をかけないように慎重に行動すべきだという分別的自己責任論に依拠したうえで、強制的な保険加入を推進したほうがよいと論じるのだ。

自己責任が…具体的な責任をとることを意味するのなら、国民に分別ある判断を求めて、家族のために健康保険を購入するよう要請することは、その意味で自己責任の考えかたにまったくかなっている。…しかし、不健康な生活を送る自由や、保険購入を拒絶する自由という選択肢を国民に認めてしまうと、実際にそのような選択をした人は、本質的に他人につけをまわしていることになる。
(出典)ケント・グリーンフィールド、高橋洋訳(2011=2012)『<選択>の神話』紀伊國屋書店、p.233。

 ぼくもグリーンフィールドと同様に、強制的な保険加入はありだろうと思う。しかし、日本の状況を考えると、この分別的自己責任論を強調しすぎることにためらいを覚えるのも確かだ。

 そもそも、日本での自己責任の語られ方を見ると、選択的自己責任論というよりも分別的自己責任論のほうが優勢なのではないかと思う。たしかに、選択的自己責任論に近い発想から、危険な国で誘拐された人たちや海で遭難した人たちに救出費用の返還を求める声もあるにはある。要は、自分でそういう行動を選択したのだから、その責任(=救出費用)はちゃんと背負えよ、という話だ。

 だが、それ以上に熾烈なのは、なぜそのような「軽率な」行動をしたのかという、分別的自己責任論に立脚した批判ではないだろうか。周囲の人たちに多大な迷惑をかけたじゃないか、お前たちはいったい何を考えているのか、という道徳的な批判だ。このエントリでも述べたように、日本ではとにかく他人に迷惑をかける行為は厳しく論難され、ネット炎上につながったりする。

 しかも、「迷惑」とされる行為の範囲が著しく拡大されており、自分は直接の被害を全く受けていなかったとしても「見てて不快だった」というだけで「迷惑」行為の認定が可能になっている。

 このような分別的自己責任論が充満した社会では、新しいチャレンジをすることは非常に難しくなる。「迷惑」行為の範囲が拡大するほど、社会から認められた行動パターンから外れた行為をすることはできなくなるからだ。だとすれば、実際にはその責任を負いきれないとしても、クールな選択的自己責任論でバランスを取ることも必要ではないかという気すらしてくる。

 もっと言えば、自己責任という発想自体を部分的にでも乗り越えていく必要があるのではないかという気もする。どんな人間でも多かれ少なかれ他人に迷惑をかけながら生きている。お互いに迷惑をかけあうことで社会は初めて成立するのだ。「迷惑」行為をした人をネットで罵倒することを生きがいにしている人にしても、交通事故に遭ったり、難病に侵されてしまえば周囲に多大な迷惑をかけて生きていかざるをえない。それが嫌だからといって自殺したとしても、周囲の人たちに多大な心理的ダメージを与えることで、やっぱり迷惑をかけてしまう。一生の心の傷を与えてしまう可能性だってある。

 もちろん、現代社会の根本原理に個人の自律ということが織り込まれている以上、自己責任の存在を完全に否定することはできないし、すべきでもない。「この人たちには責任能力がない」と言うことは、その人たちの自律的な意思決定を否定することであり、言わば尊厳を否定することにもなりかねないからだ。

 けれども、選択的自己責任論であれ、分別的自己責任論であれ、とにかく責任ばかりを言い過ぎる社会というのは正直しんどいよな、と思う。

(追記 2015/1/22)なお、上で述べているのは、あくまで自己責任論に関する話であり、テロリストの要求に従えという主張とイコールではないことに注意されたい。自己責任論に依拠するのではなくとも、たとえば功利主義的な観点からテロリストの要求を拒絶するという立場も想定されうるのではないかと思う。

「正しい情報」は伝わるのか

「どちらでもない層」を説得する

 先日、NHK国際放送とは別に「日本の立場を正確に発信する」放送局の創設を自民党が検討しているという報道がなされた。

自民党は14日、国際情報検討委員会(原田義昭委員長)などの合同会議を党本部で開き、慰安婦問題や南京事件などで史実と異なる情報が海外で広まっている現状を踏まえ、日本の立場を正確に発信する新型「国際放送」の創設を検討する方針を確認した。中国や韓国などの情報戦略を分析、在外公館による情報発信の拡充についても議論し、今年の通常国会会期内に結論を出すことにしている。
 会議で原田氏は「どういう形で相手国に情報が伝わるかにも目配りしながら、正しいことをきちんと発信していくことが大事だ」と述べ、「攻めの情報発信」の意義を訴えた。
(出典)http://www.sankei.com/politics/news/150114/plt1501140037-n1.html

 このニュースに対して、はてなのブックマークコメントでは「そんなプロパガンダ放送を誰が信じるんだ」といった散々な評価がなされている。ぼくもまったくの同感である。どのような「史実」が想定されているのかが気になるところではあるし、むしろ日本の評判がかえって悪くなるだけなんじゃないかという予感しかしないからだ。

 そもそも、多くの人びとに何かを信じさせようとする場合、その対象は三つのカテゴリーに分けられることが多い。(1)すでに信じている層、(2)その正反対を信じている層、(3)どちらでもない層、である。そして、説得という観点からすれば、もっとも重要なのが(3)ということになる。

 なぜなら、(1)の層はもう説得する必要がないし、(2)の層を説得することは不可能ではないかもしれないが、きわめて困難だからだ。したがって、意見の固まっていない(3)の層をどうやってひきつけるかが重要な課題になる。

 ところが、(自分の目から見て)「正しい情報」を伝えることにばかり気を取られている人は、往々にして(1)の層しか喜ばないようなメッセージを伝えることを好む。人は自分の好みや信念に合致する話を聞くことが好きなので、そういったメッセージは確かに(1)の層には届く。しかし、問題は(1)の層にしか届かないということだ。広くメッセージを伝えるはずだった試みは、ごく狭い層だけを満足させるだけの内輪受けに終わる。

 それでは、どうすれば(3)の層をひきつけることができるのか。この点において他国のプロパガンダ担当者や国際放送局はさんざん苦労してきた。というのも、(3)の層をひきつけようとする努力は、「正しい情報」だけを伝えることに執着する人からすれば気に食わないことが多いからだ。

冷戦期米国における対外宣伝担当者の苦悩

 たとえば、冷戦初期の米国による対外宣伝活動について言うと、当時のソ連は米国を遥かに凌ぐ予算を対外宣伝に投じていたという(以下の記述はL. Belmonte, Selling the American Way (2008, University of Pennsylvania Press)を参照)。そこで米国でも対外宣伝が重視されることになるわけだが、これがなかなかうまくいかない。

 ソ連側は「米国はウォール街の金持ち連中によって牛耳られ、貧富の格差が大きく、人種差別の酷い国だ」というネガティブ・キャンペーンをさかんに展開してくる。それに対抗するためには「米国では労働者の生活が保障されており、人種差別も解消されている」ということを強力に打ち出すよりほかない。さらに、米国の素晴らしさとして「自由と民主主義」が掲げられる。ソ連にはない思想や言論の自由が存在しているというわけだ。様々な娯楽情報を交えつつ、米国の対外宣伝担当者は外国の人びとの目から見て魅力的な米国の姿を描き出そうとした。

 ところが、当時の米国の保守主義者、なかでもマッカーシズムの波に乗る人たちから見ると、そのような米国のイメージは実に「左翼的」に見える。たとえば、海外で実施された米国のモダンアートの展示会を保守主義者たちは攻撃する。そんなものは「反愛国的」だというのだ。

 また、当時の米国は対外宣伝の一環として同国の書物を集めた図書館を多くの国々に設置していた。図書館を通じて米国の自由な思想に触れてもらおうというわけだ。だが、マッカーシズムな人たちからすると、それも気に食わない。彼らは図書館の蔵書をチェックして、そこに「共産主義的」な書物があることを告発する。

 こうしたムードのなか、対外宣伝を担当する国務省とその管理下にあるVOA(Voice of America)は「共産主義者の巣窟」と見なされるようになり、スタッフの相互監視と密告が推奨されるようになる。VOAの内部では疑心暗鬼が蔓延し、そのパフォーマンスも低下していく。他方、米国でのマッカーシーの跳梁は海外にも広く伝わり、図書館の蔵書が検閲されているという事態に衝撃が走る。かくして「自由と民主主義」の国としての米国のイメージは大きく毀損することになったのだった。

BBCの放送=英国政府の姿勢」?

 国際的な情報伝達の難しさを伝える、もう一つのエピソードを紹介しておこう。第二次世界大戦が始まる少し前の英国での話だ。当時、スペインではフランコによる反乱が始まっており、英国からはフランコと戦うべく多くの義勇兵が内戦に参加していた。

 英国の挙国一致内閣はスペインには不干渉の立場を取り、『デイリー・メール』のような保守系の新聞はフランコ側に立って参戦することを求めていた。フランコが倒そうとしていた左派政権が気に食わなかったからだ。そうした立場からすると、「中立」であろうとするBBCの放送が実に「偏向」しているように見える。たとえば同紙は次のような社説を掲げる。

多くの『デイリー・メール』読者からの手紙により、我々はBBCのニュース解説にほぼ毎日示されている偏向について記さざるをえない。それは、英国人としての健康的で自然な偏向なのではなく、奇妙にも赤い類の「主義」に傾斜した偏向なのである。社会主義、急進主義、平和主義、そして国際主義。つまりは多くの国際連盟主義である。しかし、そこに愛国主義は少ない。
(出典)Daily Mail 1937/1/13

 そうしたムードのなか、英国政府の外務官僚もBBCに干渉を試みるようになる(以下の記述はBBC文書アーカイブの内部資料に基づく)。彼らの理屈はこんな感じだ。海外では「BBCの放送=英国政府の姿勢」だと見なされている。そして、フランコはどうやらBBCや『タイムズ』の報道姿勢が自らに敵対的だと感じているようであり、したがって英国政府もフランコに敵対的だと考えているかもしれない。その場合、フランコが内戦に勝利した暁にはドイツやイタリアに接近してしまうかもしれない…というのだ。

 しかし、BBC側の見解からすると、海外で同局が信頼されているのはそれが「中立」で「公平」だと見なされていることにある。つまり、BBCが英国政府の言いなりだと海外の人びとが考えるようになれば、その国際的評価は地に落ちてしまうということだ。

 当時の英国政府とBBCの見解、どちらが正しかったのかを論じることは難しい。人びとが当時、BBCの海外放送をどのように聴いていたのかを調べることは容易ではないからだ。

 ただ、現在のBBCの高い国際的なプレステージを踏まえると、「中立」で「公平」だと見なされているがゆえに信頼されているという自己評価はそれほど的を外していないように思われる。実際、わりと最近の調査で「世界で最も信頼されているニュース放送局」としてBBCの名前が挙げられている(まあ、ソースがBBCというのがアレなのだが…)。実際には英国政府からの様々な圧力に屈してきた歴史があるとしても、キャメロン首相に厳しい質問を投げかけている同局のニュース番組を見ていると、信頼が生まれる理由もなんとなくわかる気がする。
 

一方的な「正しい情報」は伝わらない

 いろいろと寄り道をしてきたが、ここでようやく最初の話に戻る。(3)のどちらでもない層をひきつけるためには、信頼に値する情報源だと見なされる必要がある。一方的な観点からだけの「正しい情報」は伝わらないどころか、そうした姿勢そのものが国のイメージをかえって悪くしてしまいかねない。

 一方から見た「正しい情報」を伝えるためには、それと対立している側から見た「正しい情報」もまた公平に伝えねばならない。そのうえで最終的な判断はそれを見る人に委ねるしかない。とりわけ国際的な知名度の低い極東の放送局が信頼を勝ち取ろうとすれば、「公平」や「中立」とは何かを真剣に考える必要がある。

 このエントリの冒頭で引用した記事によると、自民党内では「従来の枠内では報道の自由など基本的な制約が多いため、今日の事態に十分対応できない」という意見が出ているのだという。数多くのメディアが人びとの限られた時間を奪うべく激しく競い合っているなかにあって、「報道の自由」から外れたような放送をいったいどこの暇人が見るのだろうかという疑問が浮かぶ。

 他方で、「公平」で「中立」の放送局があったところでいったい何の役に立つのかと考えるひともいるかもしれない。だが、たとえ両論併記における一方でしかなかったとしても、自分たちから見た「正しい情報」を広く伝えるチャンネルを持っているということは、決して無意味なことではないはずだ。

 もちろん、「正しい情報」が本当に正しいのか、ということにもよるわけだが。

『リベラル・ナショナリズムと多文化主義』紹介

 以前、このブログで「リベラル・ナショナリズム」について取り上げたことがある(参照)。矛盾する思想と見なされることの多いリベラリズムナショナリズムとを組み合わせ、それを肯定しようとする立場の議論だ。

 このリベラル・ナショナリズムの思想をより深いところまで突き詰めた著作が、安達智史さんの『リベラル・ナショナリズム多文化主義―イギリスの社会統合とムスリム』(勁草書房、2013年)だ。イギリスの移民政策をケース・スタディとしつつ、リベラル・ナショナリズム多文化主義について書かれた大作である。

 本書はまず、移民の急激な増加によって「超」多様化するイギリス社会を取り巻く現状について概観する。そこでは移民に対する反発が強まる一方で、移民なしではもはや社会が立ち行かなくなっているイギリス社会の実情が明らかにされる。

 次に、本書の理論的な背景として、政治哲学の領域に踏み込み、ロールズサンデルなどによるリベラル・コミュニタリアン論争から多文化主義、そしてリベラル・ナショナリズム論に関する考察が行われる。ここでのポイントは、個々のエスニック集団の文化的独自性を強調する多文化主義と、ネーションとしての統合を重視するリベラル・ナショナリズム論とが対立するものではなく、むしろ相互に支え合う関係になりうるということだろう。

 そこから戦後のイギリスの社会統合政策の歴史が論じられ、移民に関してどのような問題あったのか、それに対していかなる制度的解決が試みられてきたのかが分析される。このあたりは戦後のイギリスの政治社会史としても読むことができる。

 本書の後半では、イギリスにおけるムスリムに主たる焦点が当てられている。よく知られているように、現在のイギリス社会においてもっとも敵視されることの多いマイノリティがムスリムである。

 なかでも、外国から移住してきた一世ではなく、二世以降のイギリス生まれのムスリムの過激化がしばしば問題視されている。イラクやシリアで勢力を拡大しているイスラム国にも数百名のイギリス生まれのムスリムが加わっているとも報道されている。

 本書では、なぜそういった過激化が進んでしまったのか、それに対してどのような対応がなされてきたのかということのみならず、ムスリムの若者たちが「イギリス人」としての自分と「ムスリム」としての自分をどのように考えているのかという点にまで踏み込んだ調査・分析が行われている。

 フランスでの新聞社襲撃テロによって欧州全域でムスリムに対する視線は厳しさを増しているが、この問題について考えるうえでも本書における以下の指摘はきわめて重要だと言えよう。

 (ムスリムの若者たちは:引用者)イスラームの教えを具体的な文化的慣習から切り離すことにより、その教義をより寛大に解釈し、イギリス社会との接合を図っている…。

 若者ムスリムのこのような姿は、マス・メディアで流布されているムスリムの不統合という言説と異なっている。彼女/彼らは、イギリス社会でキャリアを築き、生活することを当然のこととしてとらえており、その世界で生きることに疑問を感じていない。こういってよれければ、彼女/彼らは、ムスリムでありつつ、十分にブリティッシュネスを共有している。

 だが、マス・メディアや政治的な言説はそのような事実に触れることは少なく、少数の者による逸脱や異常な振る舞い・慣行に焦点を当て、それにイスラームの名をかぶせる。このことは、政治やマス・メディアによる、ムスリムの不統合という言説が、ムスリムの若者にいつまでも満たすことのできない要求をおこなっていることを示している。なぜなら、それはすでに達成されているのだから。

 ムスリムをテロリストとしてとらえることは若者らに鬱積した雰囲気を作り出す危険がある。ムスリムの逸脱言説はまた、政府による外交政策、警察の取締まり、コミュニティへの介入を正当化し、ムスリムの不満に耳を塞ぐことに寄与する働きを有している。

(出典)安達智史(2013)『リベラル・ナショナリズム多文化主義勁草書房、pp.382-383。ただし、ウェブ上での引用にあたって一部改行を加えた。

 以上の分析を踏まえたうえで、本章の最後の部分ではリベラル・ナショナリズム論の再検討が行われ、その可能性と限界とが示される。ナショナリズムが肯定されつつも、ナショナリズムをいかに「リベラル化」しうるのかが探求される。この部分では非常にバランスが取れた考察が行われており、最終的にリベラル・ナショナリズム論を肯定するにせよ否定するにせよ、読者は多くのことを学べるはずだ。

 そもそも、リベラリズムナショナリズムとはどうしても不整合をきたす部分を有しており、その意味ではリベラル・ナショナリズムには理論としての弱みがある。イギリス社会の文脈で言うなら、その不整合がさらに大きくなるのがムスリムの存在について考えるときだろう。

 ナショナリズムの論理からすれば、マイノリティとしてのムスリムの存在はどうしても不整合を生じさせやすい。他方、リベラリズムの観点からしても、強制的な見合い婚やゲイに対する偏見など肯定しづらい慣習や価値観が見られる(もちろんゲイに対する偏見はムスリムに限った話ではない)。

 このように思想と社会的現実とがもっとも乖離しやすい領域の問題に正面から取り組むことで、本書はリベラル・ナショナリズムが矛盾をはらみつつも現実との対応関係のなかで何らかの着地点を見出そうとする思想であることを描き出している。リベラル・ナショナリズムはそのような矛盾の存在を前提として生まれてきた議論なのであり、その視点を欠いたままリベラル・ナショナリズム論を輸入しようとすれば、単なるナショナリズムへと帰結してしまう可能性は決して低くない。

 最後に一つ残念なことを言えば、本書の値段は高い。7,000円+税もする。科研費の出版助成を受けると必然的に価格設定が高くなるので著者の責任ではないのだが、もっと手に取りやすい価格帯で本書の貴重な知見が広く共有されるようになって欲しいと思う。

「表現の自由」の終焉?

表現の自由」=「強者だけの自由」?

 フランスでの新聞社襲撃に端を発する一連のテロ事件。「表現の自由」を脅かす深刻な事態であることは明らかであり、襲撃犯が厳しく罪に問われるべきことは言うまでもない。

 その一方で、日本語でのツイートを見ていると「あの新聞社の風刺は酷すぎる」という声は少なくない。また、ツイッター検索で“satire hate speech”で検索をかけると多くのツイートがヒットするのは、英語圏でも風刺とヘイトスピーチの違いについて疑問を持つひとがいるのだろう。

 いずれにせよ、「表現の自由」という原理は、とりわけマスメディアのそれが関係する場合、もはやそれほどの訴求力を持たないのではないだろうか。言うまでもなく、表現に携わる人びとにとって自由はきわめて重要であり、それを維持するための努力は常に求められる。しかし、「言論の自由」や「表現の自由」が「強者だけの自由」でしかないという主張もまた存在する(かなり以前にどこかで読んだのだが、残念なことにそれがどこだったのか思い出せない)。つまり、マスメディアというのは強者にほかならず、それが主張する自由というのは強者のための自由でしかない、ということだ。

 実際、政治家や官僚など、政治に関わるさまざまな人びとに意見を聞くと、政治に影響力を持っている存在としてもっともよく挙げられるのがマスメディアなのだという(蒲島郁夫ほか『メディアと政治』有斐閣)。政策の細部にまでマスメディアが影響を及ぼすことは稀だが、内閣支持率をマスメディア報道が左右するケースなどは確かにある。

 しかし、それほどまでに大きな力を持つと認識されているにもかかわらず、マスメディアが有するとされるその権力には正統性がない(まわりくどい書き方になっていて申し訳ない)。

 民主主義のもとでは選挙という有権者の洗礼を政治家は受けている。他方、マスメディアには市場の淘汰があるぐらいで有権者から何かを託されたわけではない。放送メディアの場合、放送免許の壁に守られて市場の淘汰からすらも守られていると言えるかもしれない。

 にもかかわらず、マスメディアはそれが攻撃する対象に社会的制裁を与える力を持っている。この観点からすれば、政治家とマスメディアとが対立したばあい、前者を弱者として擁護する一方、後者を権力として批判する動きが出てきても不思議ではない。

 もちろん、政治権力による言論弾圧を重視する従来の見方からすれば、こうした発想は倒錯しているとしか言いようがないだろう。マスメディアの歴史は言わば政治権力による弾圧に対抗する歴史なのであり、戦いのなかで「表現の自由」は勝ち取られてきたのだから(小糸忠吾『新聞の歴史 権力とのたたかい』新潮社など)。

「人民 vs 権力者」というフィクションの終焉

 だが、時代は変わる。その変化のなかで、弱者としてのマスメディアが強者としての宗教権力や政治権力と対立するという図式は説得力を失ってきた。だからこそマスメディアの「表現の自由」に対する支持も失われてきたのではないだろうか。

 その変化をもたらした一つの要因は、「人民 vs 権力者」というフィクションを維持できなくなってきたことだろう。

 ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』で論じているように、マスメディアはネーション(国民共同体)の出現と密接に結びついていたと言われる。人びとはマスメディアに接することで、見たことも話したこともない「同胞」の存在を認識するようになる。たとえば関東圏からほどんど出たことのない人が、行ったこともない九州で暮らしている人たちを「自分と同じ日本人」として感じるのは、マスメディアが九州を含む日本列島各地で起きる出来事を「日本の出来事」として報道するからだということになる。

 マスメディアはこのように「想像の共同体」としてのネーションを形成するうえで重要な役割を果たしてきた。だからこそ、一枚岩な存在としての人民(国民)が権力者に対峙するという構図のもと、人民を代弁する声として自己を位置づけやすかったと言える。

 しかし、一枚岩の人民というのはどこまでいってもフィクションでしかない。人民のなかに様々な対立があることは言うまでもないし、ネーションの枠組みには回収されないエスニック・マイノリティも存在する。大規模な移民が行われているばあい、人民のなかの多様性は大きくなるばかりだ。

 そして、一枚岩としての人民というフィクションに決定的な打撃を与えたのが、言うまでもなくネットの登場だろう。それまでは発言の機会を持たなかった人びとがネットで声を発するようになったことで人民内部の亀裂はさらに見えやすくなる。

 しかも、有名人や芸能人がネットを使って情報発信を行い、自分自身に関する報道を訂正するような場合、権力としてのマスメディアがいかに情報伝達をねじ曲げてきたのかがこれまで以上に見えやすくなる。

 そうした状況のなかでは、「人民 vs 権力者」という従来の構図のもと、前者を代弁しようとするマスメディアの「表現の自由」は訴求力を失う。それは「一部の人民にとっての自由」であり「その他の人民にとっての抑圧」でしかないと見なされてしまうからだ。

表現の自由」と対話

 とはいえ、それでも「表現の自由」が重要な原理であることに疑いはない。マスメディアの「表現の自由」だけが制限されて、一般の人びとの「表現の自由」は保護されるという状態はたぶん存在しない。両者は一蓮托生だ。

 求められるのは、マスメディアが振り回す「表現の自由」が他者に与えるダメージに対してより自覚的になることだろう。もちろん、たとえ多くの人びとを不快にさせるとしても、マスメディアには情報を発信することが求められる場合がある。しかし、そこに居直って良いわけではなく、人を不快にさせる表現(たとえば信仰の根幹に関わるもの)を本当に発信すべきかどうか、それをあえて発信しないことで「表現の自由」がどれだけ脅かされるのかを、きちんと対話したうえで考えていく必要がある。

 さもなければ、「表現の自由」は「強者だけの自由」として、その価値を喪失していくのではないだろうか。