擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

二つの自己責任論(再録)

(以前(2013年9月)に書いたエントリですが、時期に適ったテーマである気がするので再録します。ただし文末に追記があります。)

 日本では自動車に乗るさい、シートベルトの着用を義務づけられている。近年では後部座席に座るさいにも義務づけられるようになった。

 考え方によっては、これは非常にお節介な話である。シートベルトをするかしないかというのは基本的に個人の選択の問題であって、もし事故にあって自分の体が車から飛び出すようなことになっても、それは本人が死ぬだけの話だ。だから、国があーだこーだ口を出すような問題ではない。これは「自己責任」の問題なのだから。

 ケント・グリーンフィールドは著書『<選択>の神話』(紀伊國屋書店)のなかで、このような考え方とともに、自己責任に関するもう一つの考え方を紹介している。

 シートベルトの例を再び用いると、それをしないことによって害を被るのは決して本人だけではない。車を飛び出した自分の体が誰か別の人にぶつかるかもしれない。あるいは車から体が飛び出す瞬間を目撃させることでたまたま周辺にいた人にトラウマを与えてしまうかもしれない。

 仮に死ななかったとしても、それを救護する人、家族にのしかかる様々な負担などなど、シートベルトをしなかったことで、その人は多大な迷惑を周囲に与えることになる。この点を踏まえるなら、自己責任を全うするとは周囲に余計な迷惑をかけないよう慎重に行動することなのだと考えることもできる。

 つまり、自己責任論には、その結果を受け入れるならば何でも自分の好きなことをやって良いという考え方(選択的自己責任論)と、そもそも結果を全て引き受けることなど不可能なのだから周囲に迷惑をかけないよう慎重に行動すべきだという考え方(分別的自己責任論)があるというわけだ。

 グリーンフィールドは前者、選択的自己責任論を厳しく批判する。その背景には、グリーンフィールドが暮らすアメリカの政治状況がある。アメリカでは政府が国民の生活に介入することをひどく嫌う風潮がある。たとえば、オバマ大統領の医療保険制度改革にしても、それに反対する立場からはそれが国民の選択の自由を奪うという声が盛んに聞かれる。つまり、保険に入るか入らないかは自己責任の問題なのだから、国が強制的に保険に加入させるというのは誤りだというわけだ。

 それに対してグリーンフィールドは、不健康な生活を送っていれば往々にして自分では責任を取れないような事態を招くと主張する。つまり、周囲に迷惑をかけないように慎重に行動すべきだという分別的自己責任論に依拠したうえで、強制的な保険加入を推進したほうがよいと論じるのだ。

自己責任が…具体的な責任をとることを意味するのなら、国民に分別ある判断を求めて、家族のために健康保険を購入するよう要請することは、その意味で自己責任の考えかたにまったくかなっている。…しかし、不健康な生活を送る自由や、保険購入を拒絶する自由という選択肢を国民に認めてしまうと、実際にそのような選択をした人は、本質的に他人につけをまわしていることになる。
(出典)ケント・グリーンフィールド、高橋洋訳(2011=2012)『<選択>の神話』紀伊國屋書店、p.233。

 ぼくもグリーンフィールドと同様に、強制的な保険加入はありだろうと思う。しかし、日本の状況を考えると、この分別的自己責任論を強調しすぎることにためらいを覚えるのも確かだ。

 そもそも、日本での自己責任の語られ方を見ると、選択的自己責任論というよりも分別的自己責任論のほうが優勢なのではないかと思う。たしかに、選択的自己責任論に近い発想から、危険な国で誘拐された人たちや海で遭難した人たちに救出費用の返還を求める声もあるにはある。要は、自分でそういう行動を選択したのだから、その責任(=救出費用)はちゃんと背負えよ、という話だ。

 だが、それ以上に熾烈なのは、なぜそのような「軽率な」行動をしたのかという、分別的自己責任論に立脚した批判ではないだろうか。周囲の人たちに多大な迷惑をかけたじゃないか、お前たちはいったい何を考えているのか、という道徳的な批判だ。このエントリでも述べたように、日本ではとにかく他人に迷惑をかける行為は厳しく論難され、ネット炎上につながったりする。

 しかも、「迷惑」とされる行為の範囲が著しく拡大されており、自分は直接の被害を全く受けていなかったとしても「見てて不快だった」というだけで「迷惑」行為の認定が可能になっている。

 このような分別的自己責任論が充満した社会では、新しいチャレンジをすることは非常に難しくなる。「迷惑」行為の範囲が拡大するほど、社会から認められた行動パターンから外れた行為をすることはできなくなるからだ。だとすれば、実際にはその責任を負いきれないとしても、クールな選択的自己責任論でバランスを取ることも必要ではないかという気すらしてくる。

 もっと言えば、自己責任という発想自体を部分的にでも乗り越えていく必要があるのではないかという気もする。どんな人間でも多かれ少なかれ他人に迷惑をかけながら生きている。お互いに迷惑をかけあうことで社会は初めて成立するのだ。「迷惑」行為をした人をネットで罵倒することを生きがいにしている人にしても、交通事故に遭ったり、難病に侵されてしまえば周囲に多大な迷惑をかけて生きていかざるをえない。それが嫌だからといって自殺したとしても、周囲の人たちに多大な心理的ダメージを与えることで、やっぱり迷惑をかけてしまう。一生の心の傷を与えてしまう可能性だってある。

 もちろん、現代社会の根本原理に個人の自律ということが織り込まれている以上、自己責任の存在を完全に否定することはできないし、すべきでもない。「この人たちには責任能力がない」と言うことは、その人たちの自律的な意思決定を否定することであり、言わば尊厳を否定することにもなりかねないからだ。

 けれども、選択的自己責任論であれ、分別的自己責任論であれ、とにかく責任ばかりを言い過ぎる社会というのは正直しんどいよな、と思う。

(追記 2015/1/22)なお、上で述べているのは、あくまで自己責任論に関する話であり、テロリストの要求に従えという主張とイコールではないことに注意されたい。自己責任論に依拠するのではなくとも、たとえば功利主義的な観点からテロリストの要求を拒絶するという立場も想定されうるのではないかと思う。