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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

マスメディア批判の中心

社会

 マスメディアの報道は昔から繰り返し批判されてきた。

 誤報、事実の歪曲、閉鎖的な記者クラブ、政府の発表をただ流すだけの発表ジャーナリズム、センセーショナリズム、取材対象との癒着、他社よりも少し早いだけの無意味なスクープ合戦、調査報道の欠如などなど。マスメディア批判の文脈で用いられる言葉は昔から驚くほど変化していない。

 しかし、ここ数年、マスメディアが批判される理由が少し変わってきたのではないかという印象もある。このエントリではその変化について考えてみたい。

 かつて、マスメディア批判の根本には「必要な情報をマスメディアが報道しない」という問題意識があったように思う。つまり、権力に屈したり、情報操作に乗せられるかたちで、読者や視聴者が本当に必要としている情報を届けていないということが批判されていたわけだ。記者クラブにしても、その横並び体質が調査報道の発達を妨げ、発表ジャーナリズムの温床になっているということが批判されてきた。あるいは、重大な犯罪を犯した未成年の氏名や顔写真が報道されないことに対する批判もここに位置づけられよう。

 それに対して、ネットで行われる最近のマスメディア批判の多くは「不必要な情報をマスメディアが報道している」ことを問題視する。典型的なのは災害報道で、救助活動がまだ行われている現場に殺到し、それを妨害しながら無意味な中継をしたり、ただでさえ傷ついている犠牲者の遺族に無神経にマイクを向けることが厳しく批判される。たとえそれが事実であったとしても、そんな情報は要らないというわけだ。

 こうした変化が生まれた理由の一つは、インターネットの普及だ。ネットによってアクセス可能な情報が爆発的に増えると、個々の情報が持つ価値は自ずと下がる。過剰とも言えるほどの情報があるために、「必要な情報が流れない」ことよりも「不必要な情報が流れる」ことに対する不満のほうが強くなってきたと言えるのではないだろうか。

 そして、ネットの普及とも関わるもう一つの理由が、マスメディア批判の主体が変わってきたことにある。かつての批判の中心は、元記者やフリーのジャーナリスト、あるいは大学の研究者だった。つまり、情報を発信するのに近い立場からの批判からであって、だからこそ取材の突っ込み不足が問題として映る。元記者の場合であれば「自分が若いころにはもっと頑張っていた」という懐古的なニュアンスがあったのかもしれない。

 他方で、現在の批判はネットを通じてより一般の人びとの立場から行われることが多い。だからこそ、取材活動や報道がもたらす弊害に対してより関心が高まる。ネット上でメディア・スクラム報道被害に対する批判がさかんに行われる理由はそこにあると言っていいだろう。

 後者の立場からすれば、「政治権力vsマスメディア」という対立図式よりも、「マスメディアという権力vs一般人」という対立図式のほうが遥かにリアリティを持つ。時には「マスメディアが余計な情報を加えることなど不要で、政府や企業の発表をそのまま流せばいい」という発表ジャーナリズムを全肯定する主張まで行われるようになってきた。

 ただし、「必要な情報をマスメディアが報道しない」という批判がなくなったわけではない。たとえば、社会運動に参加している人たちはしばしば、政治的立場に関係なくマスメディアが自分たちの活動を報じないことに不満を表明する。いまのマスメディア批判はこの二種類が混在しつつ、「不必要な情報をマスメディアが報道している」という批判のウェイトが重くなってきたと言えるだろう。

 もちろん、この二種類の批判を組み合わせて「必要な情報はもっとガンガン流し、不必要な情報は流すな」と言うのは簡単だ。けれども、二種類の批判はいつも整合的であるわけではない。たとえば、従来の記者クラブ批判を受け入れて、それを解体したとしよう。それによって個々のマスメディアやジャーナリストの自由な取材活動が促進され、これまでよりも多様な情報が流れるようになるかもしれない。

 しかし、取材活動の調整を行う組織が存在しなくなるということは、「不必要」な情報が流れる可能性を今まで以上に高める。情報が多様になるほど、それらのうちのいずれかが「不必要」だと見なされる機会は多くなるからだ。そればかりか、相互調整が全く不在のままで取材が行われるようになれば、メディア・スクラム報道被害の問題が今までよりも大きくなる可能性すら考えられる。

 そもそも、何が必要な情報で何が不必要な情報なのかという判断は立場によって大きく変わる。政権担当者と政権に批判的な人間の間でこの判断が一致することはまずない。「不必要」な情報に対するあらゆる批判を受け入れていけば、残るのは天気予報と行楽情報だけということにもなりかねない。したがって、「不必要な情報」への批判に対するある程度の耐性がマスメディアには必要だと個人的には考えている。報道には「人びとが欲するもの」以上の何かを提供する役割があると思うからだ。

 とはいえ、マスメディア批判の重心が変わってきたという点には注意する必要があるだろう。マスメディアやジャーナリストの間の競争は維持しつつも、メディア・スクラム報道被害を防ぐための仕組みを業界全体で考えていく時期にあるのではないだろうか。