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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

自由な監視社会

 前回のエントリでは「監視社会」について述べた。

 ただ、監視社会というと、イコール自由のない社会だと解釈されてしまうことがありうるので、やや意味が強すぎるようにも思う。実際には、監視社会=自由のない社会、ではない。

 この点を理解するうえで、前回も参照した佐々木俊尚さんのツイートを出発点にしてみたい。

 注目したいのは、「社会から規範が消滅していく」という部分だ。規範が消滅していくのに、規範を逸脱した人が激しく批判されるというのは、いったいどういうことなのだろう?

 まず、「社会から規範が消滅していく」という部分については、「あるべき生き方が見えづらくなってきた」と解釈したい。つまり、いわゆる人生のレールというやつが失われつつあるという話だ。

 かつてであれば、学校に行き、卒業後には就職して結婚、子どもを作る、というのが典型的な人生のレールだと考えられていた(もっとも、このような人生のレールが多くの人にとって現実的に見えたのは、戦後の特殊な一時期だけだったとも言える)。

 ところが、現代ではそうした人生のレールという規範は急速に失われつつある。どこに就職するのか、結婚するか否か、子どもを作るか否かは、個々人の選択に委ねられるようになっている。この意味では、自由はどんどん拡大してきたのであり、規範は失われつつある。

 もっとも、そのような規範が完全に失われたわけでもない。場合によっては、特定の生き方を強制するような規範が今も強い影響力を発揮する。安藤美姫さんの出産が大きな注目を集めたのは、かつての規範がいまもそれなりの支持を集めていることの証左と言えるだろう。

 その一方で、安藤美姫さんの報道に対しては、ネットを中心に強い反発が生じ、『週刊文春』の「出産を支持するか」というアンケートが中止に追い込まれたのは周知の通りだ。ここに垣間見えるのは、別種の規範の存在だ。その規範とは「他人の生き方に口を挟むべきではない」、もっと言えば「他人に迷惑をかけるべきではない」というものだ。個々人の生き方が自由であるべきだとすれば、その自由を妨げる者は激しく糾弾されねばならない。

 このような二種類の規範のあり方は、「~すべき」という規範と、「~すべきでない」という規範の違いと言えるかもしれない。前者の規範が力を持っている状況では、あるべき生き方をしている限り、多少のモラルやマナーからの逸脱は大目に見られる。他方で、後者の規範が支配的になってくると、どういう生き方をするかは個人に委ねられる一方で、他人に迷惑を及ぼすと見なされた言動は厳しく批判される。

 たとえば、東京で電車に乗って感じるのはマナー広告の多さだ。不況で広告が集まらないのもあるのだろうが、「車内で携帯を使うな」、「背負ったリュックを人にぶつけるな」、「ウォークマンを音漏れさせるな」、「満員電車で足を組むな」、「車内で化粧をするな」等々、迷惑行為を諌める広告のオンパレードである。当たり前と言えば当たり前のマナーなのだろうが、それらを見ていると人に迷惑をかける行為がいかに忌み嫌われているのかがわかる。

 ここで注意が必要なのは、「迷惑」の範囲がどんどん拡大していく可能性があるということだ。しばしば指摘されるように、相次ぐネットの炎上でも攻撃の中心となるのは、直接に被害を受けた人たちではなく、まったくの第三者だ。直接に迷惑をかけられたわけではもちろんない。にもかかわらず炎上が起きるのは「食べ物を扱う店でこういういたずらを行うのは不快である」という理由に基づく。それが「迷惑」の中身だ。もちろん、前のエントリでも述べたように、彼らのなかには他人を陥れたい、破滅させたいという欲望に衝き動かされている人たちがいるとしても、明確な被害者が不在のうちに「迷惑行為」だけが語られ、一人歩きしていく(1)。

 そして、このように「~すべきではない」という規範が拡大していけば、局所的には「~すべき」という規範と変わらない部分も出てくる。「空気を読まない行為をすれば、他人に迷惑をかけてしまう」ということになれば、空気を読んで他人と同じように振舞うべきだということになるからだ。ただしそれは、「どのように生きるか」というところにまでは及ばず、その場その場でどう振舞うべきかという程度に留まるだろう。

 以上をまとめると、現代的な監視社会とは自由のない社会ではない。旧来の「~すべき」という規範が弱体化し、生き方については自由の余地が拡大してきた。しかし、その一方で「~すべきではない」という規範はむしろ強化され、他人に迷惑をかけると見なされた行為は厳しく断罪される。そのような「迷惑」行為を発見し、罰を与えるという目的にとって、ネットは格好のツールであり、炎上はネットの華になる。

 さらに、こうした現象が拡大するほど、組織は自己防衛的になる。大学のなかには、学生のアカウントを密かにチェックし、問題のある書き込みを発見した場合には、炎上する前にその学生を呼び出し、消去させているところもある。表面化していないだけで、多くの大学ではネットへの書き込みを理由に学生が処分されているはずだ。炎上が学生の将来に大きな影響を与える可能性を考慮すれば、大学がそのような方針に出ることをぼくは批判できない。

 ただ、このように書いたからといって、日本のネットはダメだとかそういうことを言いたいのではない。それでもネットは面白いし、ぼく自身は好きすぎて困るぐらいだ。だからこそ、もう少し大らかな空間になってほしいと願っている。

脚注

(1)もちろん、最終的に被害者となるのは炎上の舞台となった飲食店やコンビニだが、それらが損害賠償を求めるのは、いたずら行為によって被害が生じたからというよりも(そんなのは消毒すれば済む話だ)、炎上が生じて店の評判やブランドイメージに傷がついたからにほからない。その意味では、炎上させた店員側や客側=加害者、店舗側=被害者、という構図を第三者が無理やりに作り出していると言える。