読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

リベラルなナショナリストに勝ち目はあるか

社会

 前回のエントリが意外なことに結構多くのブックマークを集めた。ブックマークのなかには「リベラル・ナショナリズム」について言及しているものもある。そこで、このエントリではリベラルなナショナリズムを取り上げてみたい。

 …のだが、まずはぼくの個人的な体験談から。

 あれはぼくがまだ大学院生だったころの話。友人と飲み会のあり方について議論をしていたときのことだ。ぼくは以前のエントリでも書いたように、アルコールに弱いこともあり、一気飲みなどで盛り上がるのが好きではない。たとえそれほど盛り上がらなくても、個々人が好きなように飲めば良いではないかという立場だ。それに対して友人は、飲み会で重要なのは場のノリなのであって、そういう空気を乱す行為は良くないと主張していた。

 そこでぼくが思ったのは、思想の左右と集団主義的な思考というのはあまり関係ないのではないかということだ。というのも、思想的に見ればその友人はぼくよりもかなり「左」に位置していたからだ。

 実際、左翼団体でよくある内ゲバや分裂は、集団内での揺らぎを許容しえないという点において集団主義的な志向性の反映だと言える。集団的な思想の統一を厳格に追求するからこそ、対立する思想が許容しえなくなり、暴力や分裂が引き起こされるのだ。

 …というわけで、いきなり脇道に逸れてしまったが、とにかくリベラルなナショナリズムについてだ。まず、「リベラル」についてだが、よく言われるように米国と欧州ではリベラリズムの意味するところが大きく異なる。ぼくは政治思想の専門家ではないので大雑把にしか言えないが、米国流のリベラリズムというのは、個々人の選択を尊重する一方で、富の再分配の必要性も重視する思想だと言えるだろう。

 それに対して、欧州のリベラリズムは個々人の選択を重視するがゆえに国家が個々人の経済活動に介入することを嫌う。欧州では富の再分配を重視する役割は社会民主主義が担っている。

 このように内実はかなり違うのだが、ここでは「個々人の選択を重視する」という大雑把なくくりでリベラリズムを捉えておこう。言い換えれば、リベラリズムという思想には個人主義的なところがある。飲み会での事例で言えば、全体的なノリよりも個人が好きな飲み方で酒を嗜むことを重視する立場と言っていいんじゃないかと思う。

 このように個人主義的なリベラリズムナショナリズムのような集団主義的思想と相性が悪いと考えられることが多い。ところが最近では、リベラリズムナショナリズムとを組み合わせようという思想が出てきた。デヴィッド・ミラーやヤエル・タミールらに代表されるリベラル・ナショナリズムの思想だ。ミラーやタミールらの著作は日本語の翻訳も出ているので、興味がある人は読んでみてもいいだろう。

 リベラル・ナショナリズムが登場してきた理由の一つには、おそらく新自由主義への対抗軸を作り出そうという意図がある。新自由主義もいろいろな人が好き勝手に使う言葉なので定義が難しいのだが、ここでは個々人の自由を尊重し、富の再分配を否定する思想だとしておこう。つまりは、国の福祉に甘えることなく、個々人が自己責任をもって市場経済を生き延びろということになる。

 そのような新自由主義の思想に対抗して、ミラーは富の再分配(つまりは福祉)を実現するうえで、やはりナショナリズムは必要だと主張する。「なぜ見ず知らずの他人に手を差し伸べねばならないのか?」という問いに対して「同じ国民だからだよ!」で答えようというわけだ。

 ただし、ミラーにしても、リベラリズムの伝統も尊重するわけだから集団主義的なナショナリズムを肯定するわけではない。むしろ、ミラーに言わせれば、国のあり方は議論に開かれているのであり、特定の価値観に同調する必要は全くない。むしろ、国のあり方をめぐって民主主義的に喧々諤々やるのがあるべき国民の姿ということになる。前回のエントリの文章を使えば、「他の誰でもない、日本人としてわれわれはリベラル的な思想の重要性を説く」という話になるだろう。

 正直なところ、前回のエントリの最後で「ぼく自身は?う~ん、悩み中…」と書いたものの、実際には以上のようなリベラル・ナショナリズム論に立脚するかたちで論文を書いたこともある。しかし、「悩み中」でもある。次にその悩みの理由について書いてみたい。

 言うでもなく、リベラル・ナショナリズム論には様々な批判が寄せられている。それらの批判の一つに、リベラルなナショナリズムは保守系のナショナリズムと競合したさいに勝てないのではないか、というものがある。

 そもそも、ナショナリズムには他の政治思想とは違って核になる教義がない。だからこそ、リベラリズムや社会主義、あるいは共産主義とさえ融合することができる。とはいえ、ナショナリズムは集団の存在を重視する以上、個人主義的な思想とはどこかですれ違う部分が出てくる。

 上の飲み会でのエピソードでも書いたように、ぼくは全体のノリが優先される状況が好きではない。たしかに、日本が自由で、貧困が少なく、平和な社会であって欲しいと心から思う。しかし、その一方で、みんなで国歌を大声で斉唱したり、万歳三唱したりというのは、どうにも好きになれない。他人が敬意を払っているものには敬意を払うべきだと考えるので起立ぐらいはするけれども、無理やりに口を開かせられるのは御免だ。飲み会で盛り上がりたい人は盛り上がればいいと思うけれども、隅っこで別の話をする自由はあっていい。

 そういう腰の引けたナショナリズムが、果たして集団的な同調を前提とするようなナショナリズムとぶつかったときに、勝ち目はあるのだろうかという疑念がぼくのなかにはある。ミラーが言うようなリベラル・ナショナリズムは、個人主義的な思想が強く根を張っている社会では、それなりに有効かもしれない。しかし、それがないところでは、集団主義的なナショナリズムの前にただただ後退を繰り返すだけに終わるのではないかという疑念がどうしても拭えない。リベラルなナショナリストを名乗ったところで、「偽者の愛国者」として糾弾され、集団主義的なナショナリズムの渦のなかに巻き込まれてしまうだけの存在ではないかとも思うのだ。

 リベラリズムというのは、それが支配的になると、個々人の自助努力を強調し、社会的な支援を否定するだけの思想になってしまう可能性がある。たが、そもそもの出発点は、国家や社会の多数派が押し付けてくるノリから個々人の自由を守りたいということだったのではないだろうか。

 それを考えるとき、リベラルなナショナリズムが根源的に抱え込む困難を思わずにはいられない。