読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

リベラルのことばが届かない

 ネット上では「サヨク」や「リベラル」を嘲笑し、罵倒する言葉に溢れている。

 そもそも、誰が「サヨク」で誰が「リベラル」なのか、いまいちはっきりしないのだが、たとえば『朝日新聞』でよく見るような意見の持ち主を指すと考えていいんじゃないかと思う。護憲、歴史修正主義に反対、国際的融和の重視、反ナショナリズムといった主張がそれにあたる。他方で、格差や貧困の是正や社会保障の拡充などは典型的な左翼的主張だとも言えるが、この点についてはそれほど批判されない。

 いずれにせよ、ここではそうしたリベラルの「ことば」が届かないという事態について考えてみたい。まず、12月25日の『朝日新聞』に掲載された星野智幸さんの論説を一部紹介しておこう。

 それにしても、不思議に思う。あれほど政治や社会を熱く語ることを毛嫌いし、冷淡だった人たちが、今にしてなぜ、こうもナショナリズムに入れ込んでしまうのか。(中略)
 ナショナリズムは、それを信奉する人に一つのアイデンティティーを与えてくれる。「日本人である」というアイデンティティーである。このアイデンティティーの素晴らしいところは、決して傷つかないこと。日本社会の中で生きている限り、日本人だという理由でバッシングを受けることはない。そういう理由で批判をしてくるのは、近隣の外国であり、それに対しては「日本人」同士でまとまって反論することができる。だから、自分一人だけが傷つくことはない。
(出典)『朝日新聞』2013年12月25日

 ここで星野さんが語っているのは「分析のことば」だ。ぼくもこのブログでナショナリズムについて論じるときには同じようなことばを使う。つまり、自分をいったん客観的な観察者の立場に置き(本当に客観的かどうかはわからない)、突き放した観点から社会の状況について分析したうえで、あるべき方向性について語るわけだ。

 そして、おそらくはそのことが、リベラルの言葉が多くの人びとに届かないことの一因になっている。

 もちろん、保守や右派とされる人たちも「分析のことば」を使うことがある。ただし、そうした言葉はあくまで「われわれ(日本人)」という強固な土台のうえに乗っかっている。いったんは分析のことばを使い、客観的な観察者として宙に浮かんだとしても、そこから着地する先はつねに「われわれ」である。

 ところが、リベラルな人たちは客観的な観察者の立場から飛び降りる先がない。おそらく、多くの場合には暗黙のうちに「われわれ」のもとへと着地することが前提となっている。「ナショナリズムの高揚を批判するのは、それが日本のためにならないからだ」という別種のナショナリズムだとも言える。

 だが、ナショナリズムを批判する文脈でそう語ることはなかなかに難しい。そのため、いつまでも客観的な観察者(繰り返すが、本当に客観的かどうかはわからない)のまま宙に浮き続けざるをえない。

 リベラルの言葉がどこか他人事のような、あるいは上から目線のような印象を与え、反発を生じさせてしまうのは、このような分析のことばの弊害があるのではないだろうか。そもそも人は自己の立ち位置や心理状態を分析されることを好まないことが多い。分析というものは、それだけで反発の原因になるのだ。

 それでは、このような状況を打開し、リベラルの言葉が届くようにするためにはどうすればいいのだろうか。一つには「われわれ」という立ち位置を明確にすることがある。他の誰でもない、日本人としてわれわれはリベラル的な思想の重要性を説くのだという方向性だ。

 日本人とは異なる「われわれ」を模索するという方向性も考えられるだろう。それは「アジア人」かもしれないし「地球市民」かもしれない。だが、それらの概念が即座に引き起こすであろう嘲笑と罵倒を想起するなら、その道は決して容易ではない。

 他方で、「われわれ」または「彼ら」といったカテゴリーそのものを「脱構築」してしまうという方向性もありうる。「われわれ」の内部がそれほど均質ではないこと、「われわれ」と「彼ら」を分け隔てる境界線が絶対的なものではなく、往々にしてきわめて恣意的であることを明らかにしようとする。近年の構築主義的なナショナリズム研究は、このような観点からネーションがいかに言説的に構築されてきたのかを明らかにしてきた。

 しかし、この場合、客観的な観察者の立場から最終的にどこに着地するのかがやはり見えにくくなる。カテゴリーを脱構築したところで、ナショナルなアイデンティティが消え去るわけではない。むしろ、保守系の論客の多くはカテゴリーが歴史的に構築されてきたものだということを受け入れたうえで、あえてそれを選択するという方向性を示している。

 あるいは、客観的な観察者なる立場そのものを捨ててしまい、「ぼく」はこう思う、こう考えるという主張を前面に押し出してしまうことも考えられる。ごちゃごちゃと分析するのではなく「俺はナショナリズムが嫌いだ」といったシンプルな回答が導かれる。

 研究者としては取れないスタンスだが、一個人として、一論客としてであればそうしたスタンスも可能だろう。ただし、あくまで一個人としての声でしかない以上、それがどこまで社会的な妥当性を有するかという点で限界に突き当たるという点は指摘しておかねばならない。

 以上、いくつかの方向性を挙げてみたが、いずれにせよリベラルの「ことば」がどうすれば届くようになるのかはもう少し考えてみる必要があるんじゃないかと思う。

 ぼく自身は?う~ん、悩み中…。

(追記)続き?のようなエントリを書きました。