擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

美しさの落とし穴

 今回はアニメの話から始めよう。

 先日、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』の第一期の放送が終了した。火星独立運動のシンボル的存在である少女と、彼女の護衛を請け負った少年少女たち(鉄華団)が強大な敵と戦いつつ、地球へと向かう物語である。少しネタバレになるが、ここでは物語終盤のあるシーンに注目したい。

 少女と鉄華団は、敵に阻まれて目的地の都市に入ることができない。早く敵陣を突破しなくてはタイムリミットに間に合わなくなってしまう。仲間が次々と傷ついていくなか、鉄華団のリーダーは無謀な作戦を立案、実行しようとする。彼は仲間たちに言い放つ。

もし乗ってくれるなら、お前らの命って名前のチップを、この作戦に賭けてくれ。(中略)ここまでの道で、死んでった奴らがいる。あいつらの命は無駄になんてなってねえ。あいつらの命も、チップとしてこの戦いに賭ける。いくつもの命を賭けるごとに、俺たちが手に入れられる報酬、未来がでかくなってく。(中略)誰が死んで、誰が生き残るかは関係ねえ。俺たちは一つだ。俺たちは家族なんだ。鉄華団の未来のために、お前らの命を賭けてくれ。

 この言葉に、鉄華団のサポートをしてきた女性は強く抗議する。

違う…そうじゃない、家族って言うのは…。こんなの間違ってる!

 それを聞き、鉄華団でメカニックを担当している年輩の男性もまた、「ああ、間違ってるさ…」と呟くのである。

 ぼくがこのシーンを見て思い出したのは、米国の政治学者カール・ドイッチュによる終末期のナチスドイツに関する記述だ。戦争での勝利が望めなくなっても、ナチスドイツは戦争を止めることができない。不利な戦況を伝える情報の流通は「ノイズ」として抑圧される一方、これまでの方針を曲げないことが「意思の強さ」として称賛される。

 そして、方針の転換を許さない論拠として持ちだされるのが死者の存在である。われわれは膨大な人命を犠牲にして今まで戦ってきた、この期に及んで和平を結ぼうなどと言うのは死者への裏切りである、という論理。つまり、「あいつらの命を無駄にしない」という発想が、破滅的な結果がもたらされるまで方針転換を不可能してしまうのだ。

 『ガンダム』に話を戻せば、もちろんフィクションなので、鉄華団が一方的に敵に掃討されて終わるといった類の後味の悪いストーリーにはならない。だが、常識的な判断ではたしかに鉄華団のリーダーの作戦は間違っているように思う。なにせ危険な作戦に参加するのは年端もいかない少年少女たちなのだ。すでに失ってしまった「仲間の命という名前のチップ」を諦められないがゆえに、鉄華団のリーダーは死者の存在がさらに死者を生み出すような作戦を生み出してしまったのである。

 以上の話から見えてくるもう一つの教訓は、リーダーとしての決断と、物語的な美しさとの相性は必ずしも良くないということだ。常識的な判断からすれば鉄華団のリーダーの決断は間違っている、と先に述べた。しかし、物語的な展開という観点からすれば、あの場面で兵を引くという決断はありえない。物語はまさにクライマックスを迎えており、あの場面で視聴者が見たいのは、多くの犠牲を払いながらも前に向かって進んでいく主人公たちの姿である。

 だからこそ、『ガンダム』の制作者は、鉄華団を見守る大人たちに「間違えている」と言わせた、というのは深読みが過ぎるだろうか。ストーリーの進行上、間違った決断を少年少女たちに押し付けざるをえない制作者サイドの償いとして。

 鉄華団のリーダーは「誰が死んで、誰が生き残るかは関係ねえ。俺たちは一つだ。俺たちは家族なんだ」と言う。たしかに、『ガンダム』ではリーダーもまた自分自身の命を賭けており、その意味では美しい物語になっている。

 だが、歴史や政治を語るさい、われわれは物語的な美しさに気を付けなくてはならない。美しさと正しさは往々にして相反する。美しさを過剰に強調する物語の背後には、安全な場所で「俺たちは一つ、俺たちは家族」といったフレーズを唱えながらも正しさの追求を怠ったリーダーたちを免責しようとする欲望が渦巻いていることが少なくないのだ。

参考文献

Deutsch, K. (1966) Nationalism and Social Communication: An Inquiry into the Formation of Nationality (2nd edition), MIT press.

保育園不足問題は「超政治化」できるか?

anond.hatelabo.jp
このエントリが話題である。

 はてなの「アノニマス・ダイアリー」(通称、増田)のエントリがここまで話題になるというのは、長年のはてなユーザーからすればある種の感動を禁じ得ない。だって、あの増田ですよ?通勤途中にう○こ漏らしたとかいう話題で盛り上がっているあの増田が国会デビューする日が来るとは、さすがにちょっと予想できなかった。ちなみに、増田には稀に文学的な文章が投稿されることがあり(「増田文学」と呼ばれる)、ぼくのお勧めは次のエントリだ。

anond.hatelabo.jp

「超政治化」と「脱政治化」の狭間

 …という前置きは措くとして、保育園エントリが話題になって以降、いくつかの動きが出てきた。このエントリで取り上げたいのは、保育園不足の問題を政治的党派間の争いに利用しないで欲しいという主張、そしてもう一つはこの問題の重要性を否定、もしくは切り下げようとする主張だ。後者の主張には、子どもが保育園に入れないぐらいで文句を言うのはわがままだといった発言のほか、この問題について声を上げた人たちの属性(抱っこ紐の値段がどうとか、どこかの政党のメンバーだとか)を疑問視することで、問題提起の価値を切り下げようとする発言も含まれる。

 そこでまず参照したいのが、イギリスの政治学者コリン・ヘイによる政治化/脱政治化に関する議論だ。ヘイによれば、世の中のさまざまな社会問題は政治化へ向かうこともあれば、脱政治化へと向かうこともある。政治化について言えば、それまでは当たり前のこと、仕方のないことと見なされていたことがらが私的な会話で問題として語られるようになる(政治化Ⅰ)。次に、社会運動やマスメディアなどによってそうした問題が広く周知されるようになる(政治化Ⅱ)。そしてそれがやがて政治的な問題として選挙や議会での争点になる(政治化Ⅲ)。

 もちろん、すべての社会問題がスムーズに政治化Ⅰから政治化Ⅲに進むわけではない。待機児童問題で言えば、長らく政治化ⅠおよびⅡの段階で止まっていて、政治化Ⅲの段階まで進むことはほとんどなかったと言って良いのではないだろうか。ところが今回、増田のエントリの文章が刺激的だったこともあり、マスメディアでも大きく取り上げられ、民主党の議員が国会で取り上げたことから、大きな注目を集めるに至った。

 そうしたなかで、先にも挙げたように、この問題を政治的党派間の争いに利用しないで欲しい、現政権を攻撃する材料に使わないで欲しいという声が上がってきた。これは、野党や左派の運動に対する強烈な不信感に加え、政治化Ⅲの段階をさらに越えて、保育園不足の問題をいわば「超政治化」したいという願望の現れだとも考えられる。つまり、この問題は政治的党派に関係なく国の将来にとって重要な問題なのだから、一致団結して問題解決に動いて欲しいという発想だ。

 他方、保育園不足問題の重要性を否定しようとする声は、これを政治以前の状態へと押し戻す「脱政治化」を目指していると言える。つまり、子どもを保育園に入れられないのを当たり前のこと、仕方のないこととして受け入れろという主張ということになる。具体的な対処法としては、「妻が家庭に入って一家で四畳半に住む」ということになるかもしれない。

 以上のような政治化および脱政治化を図にすると次のようになる。なお、「超政治化」については、ヘイのもともとの図にぼくが書き加えたものだ。 

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政治の回避

 超政治化と脱政治化を目指すこれらの動きは、一見すると対極的であるように見えるが、政治を避けているという点では共通している。しかし、脱政治化を否定し、保育園不足が重大な社会問題であることを受け入れたとしても、超政治化の領域へと至ることは難しい。どこまで行っても資源配分の問題からは逃れられないからだ。そして、資源配分をめぐる闘争とはすなわち政治である。限られた資源を誰かがより多く得るということは、(少なくとも短期的には)誰かが損をするということである。

 保育園不足の処方箋として提起される教育・保育バウチャー制度にしても、その原資が税金である以上、政治的な資源配分の問題から逃れることはできない。制度を導入したところで、配分されるバウチャーの額面いかんでは格差の問題が顕在化してしまう(大阪市では経済的な理由で塾に通えない子どものために教育バウチャー制度が導入されたものの、その額面が少ないために利用が進んでいないという報道もある)。

 加えて、現政権と保育園不足問題との相性は、控えめに言ってもよろしくない(注1―追記)。安倍首相やその周辺はどうやら「家庭での伝統的な子育て」にご執心の様子であり、だからこそ「育児休業を3歳まで伸ばす」とか「三世代同居の推進」とか、明後日の方向を向いた話ばかりが出てくる(ちなみに、家庭での子育てが本当に「伝統的」であるかどうかは意見の分かれるところだろう)。

 にもかかわらず、超政治化への期待とともに、現政権への攻撃を控えようという発想が出てくる背景には、少なくとも当面のあいだは(もしかすると半永久的に)、政権交代が行われないだろうという予測があるのではないかと思う。自公政権がずっと続くのであれば、野党による攻撃材料に使われて政権の機嫌を損ねるよりも、たとえ相性は悪くとも政権内部の人にもちゃんと理解してもらって問題解決のために動いてもらったほうが賢明だという判断があるのかもしれない(ただし、政権運営に余裕ができるほど、政権は自分たちのコアな支持層のほうに向いた政治を行うようになる、というアメリカ政治における知見は覚えておいてよいかもしれない)。

 こう考えると、超政治化を求める声が上がる背景には、子育て世帯の受け皿となりうる政権交代可能な野党の不在があると言ってもいいだろう。言い換えればそれは、政治のアリーナにおいて自分たちの要求が実現されることに対する諦めと、それでも何らかのかたちで自分たちの抱える問題を解決して欲しいという願望の現れなのではないだろうか。

(注1―追記)
ただし、保守層からの支持の厚い安倍政権だからこそ、この問題に関してドラスティックな政策変更を実現できる可能性もある。リベラルな政権であれば「バラマキ」と呼ばれて火だるまになりそうな政策でも、現政権が実施するのであれば保守層の反発を抑えられるかもしれないからである。

アジェンダ設定理論からの示唆

 ところで、増田のエントリに端を発する今回の流れについては、マスコミュニケーション研究におけるアジェンダ(議題)設定理論の観点からも分析することができる。

 ここで言うアジェンダ設定理論とは、マスメディア上で話題となった出来事(メディアアジェンダ)が、人びとが関心を持つ事柄(公衆アジェンダ)に大きな影響を与えると考える理論を指す。メディアアジェンダが公衆アジェンダとなれば、やがてそれは政治的な争点(政策アジェンダ)にまで波及しうる。

 ただし今回の場合、増田のエントリがネット上で話題になり、それがマスメディアでも大きく取り上げられたのが発端であることを考えると、公衆アジェンダがメディアアジェンダとなり、やがて政策アジェンダに転化したと考えるべきだろう。

 ちなみに、アジェンダ設定理論では、メディアアジェンダに飛びつくのは野党であることが多いとされる。野党は政権の問題点を探すための「レーダー」としてマスメディア報道を使うからだ。逆に言えば、野党が国会で取り上げでもしない限り、政権がメディアアジェンダに乗ってくることはあまりない。その意味では、政権攻撃の材料に用いられたからこそ、保育園不足問題は政策アジェンダに転化したと見ることもできる。

 また、政権がメディアアジェンダに対応する場合、その政策変更はシンボリックな次元に留まるケースが多いとされる。つまり、実質的な予算の配分や大規模な方針転換というよりも、有権者に対して「何か手を打っています」とアピールするためだけの政策変更ということだ。マスメディアの報道は基本的に飽きっぽいので、実質的な政策変更に必要となる長い期間にわたって関心を持続させることができない。

 今回の騒動を受けて、保育園の「具体的な改善策」を示すという方向性が政府から示されたものの、その頃になって世論がこの問題に飽きていれば、その「改善策」はごくごく小規模なものに留まる可能性が高いだろう。そうならならないためにも、息の長い取り組みが必要になるのだろうと思う。

 そして、そうした取り組みがより大規模な政策転換を望むならば、政治を避けることはたぶんできない。

参考文献

ヘイ,コリン(2012)吉田徹訳『政治はなぜ嫌われるのか 民主主義の取り戻し方』岩波書店
Gilens, M. (2012) Affluence and Influence: Economic Inequality and Political Power in America, Princeton University Press.
Kingdon, J. (2011) Agendas, Alternatives, and Public Policies (Updated 2nd edition), Longman.
Walgrave, S. and van Aelst, P. (2006) ‘The contingency of the mass media’s political agenda setting power: toward a preliminary theory,’ in Journal of Communication, vol.56 (1), pp.88-109.

「意識高い系」はなぜ批判されるのか

 こういうブログを読んだ。

www.jimpei.net

 これに関するブックマークコメントを見ると、「意識高い系が批判されるのは、実力もないくせに他人を見下して馬鹿にするからだ」という趣旨のものが多い。要するに、「意識高い系」とされる人たちも、それを批判する人たちもお互いに馬鹿にされていると感じているわけで、この溝はわりと深い。

 これは完全な思い付きだが、「意識高い系」に対する批判が出てきた背景には、SNSの普及があるのかもしれない。SNSによって「前向きであること」と自己表現とが深く結びつくようになってきたからだ。

 たとえば、英語力を身につけたいと思って地道に頑張っている人に向かって「意識高い系」という揶揄がぶつけられることはあまりないだろう(たぶん)。しかし、たとえばSNSに「TOEIC800点突破!次は900点を目指します!」とか書くと「意識高い系」と見なされる可能性は上がる。そこからさらに進んで「日本の英語教育はクソ!俺はオンライン英会話で鍛えてます!」とか書き始めると、「意識高い系」と見なされる可能性は飛躍的に上がる。

 加えて、人脈形成がフェイスブックなどで可視化されるようになったことも作用していると考えられる。もちろん、人脈づくりなんてのは今に始まった話ではなく、昔からそういうのに熱心な学生は頑張ってやっていたのではないかと思う。だが、いまはSNSでそれをやっている過程が他人にも見えてしまう。そのことが「アイツは意識高い系だ」という批判を招き寄せやすくする。

 他方、そういう批判を受ける側は、「われわれが意識高い系だと批判されるのは、周囲の意識が低いからだ。頑張ってないからだ」という発想になり、意識高い系批判を裏付けるような言動に走ってしまう。「意識高い系が批判されるのは、前向きな人間を引きずり降ろそうとする日本社会の悪癖」なんていう日本社会論まで展開してしまうかもしれない。

 しかしこれは不幸なすれ違いだと思う。この構図のなかで重要なのは、頑張ること自体は誰も否定していないことだ。問題なのは、頑張るか頑張らないかということではなく、自分自身をSNSでどう表現するかということにすぎない。

 だからまあ、自分を意識高い系だと思う人も、意識高い系が嫌いな人も、とりあえず他人のことは放っておいて自分を高めることに必死になれば良いんじゃないだろうか。

 あと、ぼくは研究者なので研究者のことしか分からないのだが、(仮にいたとして)「大学の教員をやっている自分の姿に憧れる」タイプの人はたぶん駄目で、「自分のやりたい研究をやるうえでは大学の教員をやるのが一番望ましい」ぐらいの人のほうが研究者としては伸びると思う。前者のタイプだと、大学の教員になった時点で目標が叶ってしまうので、そこから先の成長が期待できない。

 最後に。ぼくの知人の一人は大変な努力家であるのだが、その一方で普段は愚痴ばかりたれている。「後ろを向きながら前に向かって全力疾走する」タイプだ。どちらかと言えば、ぼくはそういう人が好きである。

「ダブルシンク」としてのミサイル報道

 イギリス人作家、ジョージ・オーウェルの『1984年』は、全体主義国家による徹底した管理を描いたディストピア小説としてよく知られている。

 この小説に登場する全体主義国家では、「ダブルシンク(二重思考)」と呼ばれる思想統制方法が用いられている。それによって国民は、本来は矛盾するはずの二つの信条を矛盾のないものとして受け入れることが可能になる。

 たとえば主人公が勤める真理省は、国家の方針に沿って歴史を都合よく書き換えるための国家機関を指す。真理省で働く者は歴史の捏造に手を染める一方で、そこで生み出される「歴史」が真実であると信じねばならないのだ。

 このダブルシンクを彷彿とさせるのが、昨日、北朝鮮が発射した「事実上の長距離弾道ミサイル」に関する報道だ。北朝鮮政府は人工衛星の打ち上げと主張しており、実際に「地球観測衛星」を軌道に乗せた可能性もあるという。

 言うまでもないことだが、日本が人工衛星を発射するために用いているのは「ロケット」だ。だが、すでに多くの人が指摘するように、多くの報道では北朝鮮の人工打ち上げに関しては頑なに「ロケット」という言葉の使用が拒否され、「事実上の長距離弾道ミサイル」という言葉が用いられている。つまり、同じ人工衛星を発射するのでも、日本が打てば「ロケット」だし、北朝鮮が打てば「ミサイル」だと考えるようにわれわれは求められているのだ。

 これも多くの人が指摘するように、「ロケット」と「長距離弾道ミサイル」との区別はそれほど明確なものではない。人工衛星を乗せれば人工衛星の打ち上げに、核弾頭を乗せれば敵国の攻撃にも使える。だからこそ、1957年にソ連人工衛星スプートニク1号を打ち上げに成功したとき、世界中で大きな衝撃が起きたのだ。

 日本のロケット開発も例外ではない。

 中日新聞社編『日米同盟と原発』(中日新聞社、2013年)によれば、冷戦下において、日本の核武装が検討されたことがあった。しかし、国際関係から考えて核武装は現実的な選択ではない。そこで、核武装の代替手段として「潜在的な核武装能力」をアピールすることが考えられた。そのための具体的な方策が「原子力の平和利用」と「国産ロケット開発による人工衛星の打ち上げ」だったというのだ。少し長いが、引用してみよう。

 68年1月20日付の外交政策企画委員会議事録には「軍事利用と平和利用とは紙一重というか、二つ別々のものとしてあるわけではない」「ロケット技術が発達すれば、原子爆弾さえ開発すれば軍事に利用できるわけだね」など、幹部クラスのやりとりが記されている。

 当時、外務省科学科長として議論を仕切った現在83歳の元フランス大使、矢田部厚彦は「日米同盟を考えると、当時も今も核武装は現実的ではない」としながらも「可能性のあるふりをすることが抑止力になる。その方法が科学技術を高めることだった。科学技術を高めることで、必然的に核のポテンシャル(潜在力)が上がる。そこに、政権の意思さえ加われば、核のオプション(選択肢)になるのだから」と明かす。

 日本は59年、ロケット技術の開発方針を決定している。この時、所管する科学技術庁(現・文部科学省)の長官は54年に戦後初の原子力予算を議員提案した中曽根康弘(41)だった。

 元科技庁次官で、現在88歳の伊原義徳は60年代初めに、自民党議員がロケット予算について「あれはあれだから、よろしく頼むよ」と話し合うのを耳にした。「核爆弾の搭載手段として期待していたのでしょう」と推察する。

(出典)中日新聞社編(2013年)『日米同盟と原発中日新聞社、pp.129-130。

 もっとも、こういう話があったからといって、日本の国産ロケット開発が「潜在的な核武装能力」のアピールだけを目的として進められたというのは言い過ぎだろうとは思う。数ある思惑のうちの一つ、ぐらいではないだろうか。

 いずれにせよ、人工衛星の打ち上げに用いるロケットと長距離弾道ミサイルの開発とは深く結びついてきた。実際の開発においてはロケットに求められる仕様と、長距離弾道ミサイルに求められる仕様との間には違いがあるとはいえ、同じ人工衛星を打ち上げるのでも日本がやれば平和的な「ロケット」で、北朝鮮がやれば軍事的な「ミサイル」というダブルシンク的な用語法はどうにも気持ちが悪い。言語という人間の思考の基礎そのものを操作しようとする試みに見えてしまうからだ。

 「ロケット」と「ミサイル」が近しい関係にある以上、北朝鮮が実際に衛星を打ち上げていようといまいと、それが国際的な安全保障にとって重大な脅威だと論じることは可能だろう。日本も北朝鮮も同じようなものを打ち上げているとしても、国際的な枠組みに沿って行っている日本と、それを無視して実施している北朝鮮とを区別して論じることはできる。

 全体主義国家と対峙するにあたり、全体主義的な手法を用いることは、自らの正当性を切り崩すことになりかねない。自他を差異化するのであれば、それは論理のうえで行うべきであって、「ロケット」と「ミサイル」のようなダブルシンクまがいの言語使用で実施すべきではないように思う。

(追記)こうしたダブルシンク的な言語使用の問題の一つは、それが「自分たちのやっていること」を客観的に眺めるのを難しくする点にあるように思う。今回の北朝鮮政府の発表や、先に引用した元外交官の発言が明確に示しているように、「自分たちがやっていると主張していること」と「外部からどう見られているか」はズレることがある。

 「自分たちが打ち上げているのは平和的なロケット」であり「彼らが打ち上げているのは軍事的なミサイル」というダブルシンク的な言語使用は、「自分たちは誰にも力を誇示せずに、平和的に生きている」という観念だけを強化し、少なくとも潜在的には日本もかなりの軍事力を有する国家なのだという認識を難しくする。結果、外国が日本を潜在的な脅威として認識(米国ですらそうした認識を完全には捨てていないと思う)するかもしれないという事実を見えづらくしてしまうのではないだろうか。

ぼくの良識

 自分で言うのも何なのだが、ネット上でのぼくはわりと良識的なのではないかと思う。

 ツイッターやブログでも攻撃的だったり差別的だったりすることはなるべく書かないようにしているし、ぼくが書いたものを読んで傷つく人がいなければいいなとも思っている。もちろん、書いているものが下らない、内容がない、間違っている等々の批判はあるとは思っているが、それとこれとは別の話だ。

 そんな良識的なぼくのことだ、ツイッターでフォローしている人たちも良識的な人たちばかりだ。政治的な書き込みは多いけれど、人を差別したり中傷したりする人はいない。ただ最近は、ぼくがフォローしている人のあいだでいざこざが多いのが気になると言えば気になる。

 そんなぼくのタイムラインをさいきん賑わせているのが、「反差別や平和を掲げているのに差別的だったり、攻撃的だったりする人」に関する話題だ。ぼくも以前のエントリで、そういう人たちを批判したことがある。

 彼らのなかには反差別や平和を掲げているにもかかわらず、意見の異なる人たちに対して脅迫的なツイートをしたり、個人情報を暴露したり、差別的な言葉を投げかけたりする。あるいは、自分たちを批判する人が非常勤講師をしている大学に「辞めさせろ」という抗議を行ったという話も聞いた。良識的だと自負する人間としては、やはり問題だと感じざるをえない。

 こういう話を聞くと、結局、反差別だとか言っても、差別を行っている連中と同じ穴の狢ではないかという気持ちになってくる。まさに「どっちもどっち」だ。『差別の現在』という著作の以下の記述は、こうした気分をうまく要約してくれていると思う。

ヘイトスピーチが新聞紙上で盛んに報道されている。ある記事を読んでみる。そこには、ある集団が「朝鮮人出て行け!」と連呼し、他方で「レイシスト(人種差別主義者)!お前たちこそ出て行け!」と別の集団からの怒号が飛び交う。そして多くの人びとが、眉をひそめて、彼らの様子を遠巻きにしてみていると書かれていた。

記事は、朝鮮人差別をめぐる粗暴で硬直した言葉の応酬を伝えている。反差別を訴える言葉もまた、排除や差別を叫ぶ暴力的な声と同じ次元で対抗しており、その意味で同じように粗暴で硬直した叫びなのである。
(出典)好井裕明(2015)『差別の現在』平凡社新書、p.105。

 加えて言えば、差別者を糾弾する言葉のなかに、しばしば別の種類の差別が入り込んでしまう。だからこそ、差別を批判しているはずが、別の差別に加担するかのような構造が生まれてしまう。先の引用文でも書かれているように、良識的なぼくとしては、眉をひそめたくなるし、近づかないでおこうという気持ちにもなる。

 もちろん、差別は良くないことだ。ぼくの良識的なタイムラインには批判の意味を込めたリツイート以外ではヘイトツイートは滅多に登場しないけれども、それでもヤフーのコメント欄やはてなブックマークで上がってきたサイトなどで、差別的な書き込みを見ることはある。良識的なぼくはもちろん眉をひそめる。けれども、そんなのをいちいち気にしても仕方がない。だから少しのあいだ眉をひそめるだけで、さっさとスルーしてしまえばいい。1分後にはもう忘れている。

 差別と言えば、ぼくのタイムラインでもたまに差別を激しく批判している人もいる。でも、少し気にしすぎなのではないかとも思う。少しぐらい差別的なリプライをされたところで、気にしても仕方がない。

 だいだい、そんなに差別なんてされているのかよと思い、その人にどんなリプライがなされているのかを調べてみる。

「いいから帰れ」「ああ、日の丸燃やす輩の事か。確かにテロリスト予備軍だな(^o^)/」「怖い!在日韓国人を扇動するお前の罪は重い」「典型的な差別反対を叫ぶ差別主義者「相変わらず醜悪な面だからキチガイだらけなのに一発でわかったわ(笑)」「今こそ祖国で立ち上がれ! そして、日本には帰ってこないでください」「在日と言う国籍は無い!オマエが言う在日は日本にとって存在が迷惑な在日朝鮮人である」「南北統一の機運が盛り上がってきた。祖国での活躍のチャンスだ。早いほうがいいと思うぞ」「朝鮮文化を継承し誇るなら? チョゴリの正しい着方を学ぶべきだなw(この後、差別的なサイトへのリンク)」「差別だのと不都合な真実を言論封殺する在日集団凸撃かw」「韓国人と結婚し韓国に帰国しても日本の特別永住許可にしがみつく在日? 日本には、差別は無く、在日特権が有るという証かw」「難民を利用すんな、カス」「相変わらず下品で気持ち悪いツイート」「つーか在日が政治活動すんなよ 自分の祖国でやれ」「日本人を差別しないで下さい。日本人を平和に暮らさせて下さい!」「吐く息がウンコ臭いんだよ とっとと日本から出て行け!」「あなたが我々日本人へのヘイトスピーチをしていますね」「そもそも、日本に差別なんて無い」「なるほど。だから嫌韓が増えるんでしょうね。」「いつまでも日本に居座り悪さ嫌がらせ? 在日こそ恥ずかしいw」「祖国に帰って韓国朝鮮のためにがんばってくれ」「差別ゴロとして、法廷で抗い居直る韓違いw 在日の連鎖を断ち切ろう!」「精神異常のせいでは?」「都合の悪いことはすぐ忘れる、精神異常者」「いっそのこと、<<ヘイト半島>>って改名したらどうよwww」「(●>艸<):;*.':;.ブッ!ヘイト半島ピッタリです。」「在日朝鮮人過激派に注意」「お前ら朝鮮人は本当に頭悪いな」「ついに狂ったか…(笑)」

 ここ2週間ほどのリプライだ。わかりやすいものだけを抜粋し、文脈的にわかりにくいものは除いてあるから、実際にはこれよりもはるかに多い。これが一人の人物に向けられている(注1)。

 集団全体に向けられたものを知りたければ、ツイッター検索を使って「朝鮮人」で検索すればいい。1分間のあいだに5~10ツイートぐらいの勢いでヘイトツイートが量産されているのがわかる。自動でヘイトを撒き散らすボットが動いているのだろう。それが、2015年の日本のインターネット。

 それでも、ヘイトツイートは、そのターゲットとなった人たちの通知欄にたまっていくが、良識的なぼくのタイムラインには表示されない。それを批判するツイートもそれほど見ない。もはやインターネットではヘイトスピーチが日常化されていて、改めてそれを批判したところで目新しさもない。目新しくないということは、それが自分に向かってこないかぎり、存在しないのと一緒だ。だいたい、懸命に抗議の声を上げるような振る舞いはスマートじゃない。

 その一方で、反差別や平和を掲げているのに差別的だったり、攻撃的だったりする人たちの存在は、そのギャップからしてもわりと新鮮だ。しかも、やっていることは確かに酷い。だから、それは一生懸命に批判するのが良識だ。マスメディアでも取り上げられたではないか!

 かくして、ぼくの良識は守られる。ぼくのタイムラインではないところで差別は続くが、たまに遭遇したとしても、眉をひそめるだけでいい。

 それが、ぼくの良識。


(注1)こういう話を知人にしたところ、「ネットでいろいろと書くからじゃないんですか」という反論が返ってきたことがある。「いじめは、いじめられている側に原因がある」といった主張にはおそらく反対する人物だ。ところが、国籍のラインをまたいだところで「いじめは、いじめられる側に原因がある」のと同型の主張があっさりと息を吹き返す。

「命の軽さ」が与えてくれるもの

 ずっと以前、「人口の多い中国では、命の重さが日本とは違う」という趣旨の文章を読んだことがある。いまでもネットで検索すれば、そういう文章をすぐに見つけることができる。

 しかし、本当にそうなのだろうか、とも思う。子どもを喪った中国人の父母は「じゃあ、また新しく子どもを作ろうかね」とドライにさっさと切り替えられるものなのだろうか。

メディア上での命の重み

 命の重さ、という点で言えばメディアの扱いもずいぶんと違う。

 13日の夜にフランスのパリで発生したテロ事件。日本ではメディアの対応が遅い、小さいという批判もあるが、それでも『朝日新聞』の14日夕刊と15日朝刊の一面はパリのテロが飾った。Facebookを眺めていても、フランス国旗をモチーフに自分のプロフィールをトリコロールにしている知人が何人もいる。フランス国民との連帯の意思を表明しているのだろう。

 その一方で、パリでテロが起きる前日、レバノンの首都ベイルートでは連続自爆攻撃が発生し、少なくとも43人が死亡、240人以上が負傷したと報道されている。『朝日新聞』の13日夕刊第二面に掲載された、この事件を伝える記事は以下の通りだ。

レバノンの首都ベイルート南部で12日、連続して爆発があり、レバノン保健省によると43人が死亡、240人が負傷した。AP通信などが報じた。現場はイスラム教シーア派組織ヒズボラが拠点とする地区。ヒズボラを敵視する過激派組織「イスラム国」(IS)が犯行声明を出した。(カイロ)
(出典)『朝日新聞』2015年11月13日夕刊

 これが全文である。文字数にして136字。1ツイートに収まる。(追記 11/16)もう一つ注目すべきは、記事の最後、(カイロ)という部分だ。ここからも確認できるように、『朝日』はベイルートには支局を置いていないため、国際通信社からの情報に頼らざるをえなかったのだろう。

 たまたま『朝日』について調べやすい環境にあるので同紙だけを取り上げているが、他の新聞も同じようなものだろう。Facebook上でレバノンの国旗である赤と白、そして緑の木をモチーフにしてプロフィール写真に手を加えた人をぼくは誰も見ていない。

 メディア上での人の命の重さを示す「等式」として「他の大陸での一万人の死=他国での千人の死=自国の周縁部での百人の死=首都での十人の死=一人の有名人の死」が挙げられることがある(Ginneken 1997)。つまり、他の大陸で1万人が亡くなった出来事が持つニュースとしての価値は、有名人が一人亡くなるのと同じぐらいだというのだ。

 しかし、この「等式」は間違っている。他の大陸で起きた出来事でも、それが先進国で起きるのか、それとも開発途上国で起きるのかによってニュースの重みは全く異なる。その意味では、外国で発生した出来事のうち、どれがニュースとしての価値を持つのかについてのガルトゥングらの古典的な研究のほうが参考になるだろう。

 それによると、ニュース制作のスケジュールに合致するタイミングで発生した出来事、重大な出来事、自国にとって関係が深いと認識された出来事、意外性のある出来事、以前から継続する出来事、大国で発生した出来事、悪い出来事、等々がニュースとして報じられやすい性格を持つという(Gultung and Ruge 1965)。

 レバノンでのテロ事件はこれらの要件をそれほど満たさない。だから扱いも小さくなる。「意外性」という点で言えば、途上国でテロが発生したと聞いても、もしかするとわれわれの多くは意外に思わないのかもしれない。

 途上国は暴力に満ちた土地であり、人口が多く、人命も軽いと見なされる。テロで多数の人命が損なわれたとしても、それは言わば日常の風景なのであって、意外でもなんでもない。だからこそ、ニュースが伝えられたとしても右から左へと流れていってしまう。

 他方でパリは違う。今年の初頭に世界的な注目を集めたテロ事件があったにせよ、先進諸国のなかでも屈指の知名度を誇る華やかな都市だ。普段からメディアで頻繁に取り上げられ、訪れたことのある日本人も多いだろうから心理的な距離も近い。

 そんな都市での大規模テロ事件の発生は、それだけに衝撃度、言い換えれば意外性が強い。メディアでの扱いも必然的に大きくなる。(追記)『朝日』にもパリ支局はちゃんとある。支局をどこに置くか、特派員をどれだけ配置するかという決定の時点ですでにニュースの価値は決められている。ただ、日本での報道が少し遅れたのは、日本時間では土曜日の早朝というタイミングで発生したためにニュース制作のスケジュールに合致しなかったのかもしれない。

出生率から見る命の重み

 もちろん、先進国であるフランスではそもそも命の重さが違う。少子化対策が功を奏して出生率こそ比較的高いとはいえ(合計特殊出生率は2013年で2.01人)、命が失われれば人びとは痛烈に悲しみ、われわれはそれに共感する。フランスはわれわれと同じ先進国クラブの一員であり、いかにも人が余っていそうな途上国レバノンでの命の重さとはわけが違うのだ。

 ところで、命の価値が軽そうに見えるレバノン合計特殊出生率はいったいいくつなのだろうか。ここでのデータによると、2013年の段階で1.5人である。実はフランスよりもずっと低いのだ。

 レバノンに限らず、多くの途上国ではいま、合計特殊出生率が急激に低下してきている。たとえばインドの場合、1980年には4.68人だったのが2013年には2.48人に、バングラディシュでは1980年には6.36人だったのが、2013年には2.18人にまで低下している。

 その背景には、栄養状態や医療の改善による幼児死亡率の低下、避妊に関する知識の広がり、育児コストの増大などが挙げられている。小さな子どもが死ななくなったぶんだけ出生数が減り、一人ひとりが大切に育てられるようになっているのだ。出生率という観点からだけで見ても、途上国において人の命は急速に重くなりつつある。

「途上国では人の命は軽い」という発想

 ただし、これはあくまで数字から見ただけの話だ。

 先日、バングラディシュの農村を取材したドキュメンタリー番組を見ていると、老夫婦が何十年も前に亡くなった自分の子どもの話をしているシーンが出てきた。彼らが子どもを喪ったのは今よりも出生率がずっと高かったころの話だ。それでも彼らは言う。自分たちはその子たちのことを死ぬまで忘れないだろうと。彼らの子どもの命は果たして軽かったのだろうか。

 もちろん、これは人命を重く考える現代の人権思想に侵された者の発想なのかもしれない。けれども、「途上国では人の命は軽い」という主張の背後には、もしかするとそう思い込みたいという願望もまた存在するのではないだろうか。

 途上国の人の命が軽いのであれば、悲惨な出来事のニュースを耳にしたとしても、それに思い煩わされる必要性はずいぶんと減る。心理的に楽になれる。冒頭で紹介した「中国では人命が軽い」という話は、旧日本軍が中国大陸で行なった殺戮行為を否定する文脈で出てきたものだ。「人口の多い中国人の犠牲などは大した話ではないのだ」という本音がそこに伏在していたようにも思う。

 しかし、このような発想こそが、もしかするとわれわれの世界認識を大きく歪めているのかもしれない。先進国でのテロとその被害ばかりが注目され、先進国の軍隊によるものも含む途上国での無数の死と、それに伴う無数の痛みとが視野の外に置かれる。結果として、あたかも途上国から先進国へと流れ込んできた暴力が一方的に先進国の人間を痛めつけているかのような錯覚すら生まれかねない。このサイトによると、9.11の報復として始まったアフガニスタンでの戦争において、巻き添えとなって亡くなった民間人は2万6千人以上に達するという。

変化の兆し

 ただし、変化の兆しはある。たとえば中東地域でもメディアは急速な発展を遂げており、世界の衛星放送チャンネルの38%がアラブ人によって所有されているというデータもある(千葉 2014: 4)。先進国のメディアや通信社が国際的なニュースの流れを支配する時代は終わりつつあり、これまでは不可視化されてきた途上国の人びとの死やそれに伴う痛みが発信される経路も生まれてきている。

 この記事によると、Facebookが大規模な自然災害のさいに用いてきた「安全チェック機能」をパリでのテロでは使用可能にしたのに、レバノンでのテロではそうしなかったことがレバノン人ブロガーにより批判され、数多くシェアされているのだという。このブロガーは言う。ベイルートでの死はパリでの死よりも重要ではないように思える、と。

 ただし、上の記事ではレバノンでは非常事態においてネットに接続することが難しく、ユーザーも少ないことから使用できたとしてもそれほど意味はなかっただろうとも指摘されている。加えて、「安全チェック機能」は先月のパキスタンでの地震でも使用されており、Facebookが途上国の人びとの命を軽んじていると断言するのは早計だろう。

 ともあれ、情報流通の流れの変化が今後も続くとするなら、先進国の人命だけを重く見るような認識のあり方はこれまで以上に大きな齟齬をきたすことになる。先進国での事件だけが世界的な注目を集めるという構造への批判はますます強くなっていくと予想されるからだ。

 もちろん、以上のように述べたからといって、パリでのテロが大したことない事件だとか言いたいわけではない。そうではなく、パリであれ、ベイルートであれ、バングラディシュの農村であれ、戦時中の中国であれ、人が死ねば悲しいし、それが理不尽なものであるほどに怒りも生まれる。どの命であれ決して軽いということはない。そのことをこれまで以上に強く意識する必要のある時代にわれわれは差し掛かっているのではないかと思う。

引用文献

Ginneken, J. (1997) Understanding Global News: A Critical Introduction, Sage.
Gultung, J. and Ruge, M. (1965) 'The structure of foreign news,' in Journal of Peace Research, vol. 2(1).
千葉悠志 (2014) 『現代アラブ・メディア』ナカニシヤ出版。

ヒロインはなぜ清楚系か

(ツイートのまとめ)

 実家に帰省中、奥さんが本を持ってくるのを忘れたので、ぼくが持っていた小説を貸した。すると、次のような質問がやってきた。

 「どうして貴方が愛読する小説の主人公はいつもうじうじ苦悩していて、ヒロインは決まって黒髪の清楚系で、おっとりしていて天然なのに、実はしっかりしているという設定なのですか」(大意)

 主人公がうじうじ苦悩しているというのは、その手の自意識過剰系の人物に共感できるからにほかならない。

 ヒロインがおっとりした清楚系というのは、見た目が派手で積極的な女性は遊んでいそうとか、浮気しそうというイメージ(偏見)があるのかもしれない。しかし、ぼくが考えるに、より根本的な理由がある。そうした女性は決して自分のような男性を恋愛対象としては認識しないだろうという意識があるのだ。あるいは、清楚でおっとりした女性であれば、自分の容姿や性格を蔑み、嘲笑したりはしないだろうという(考えてみれば根拠に乏しい)発想があるのかもしれない。

 ただし、おっとりしていて天然だといっても、男性の言うことになんでも従うようなヒロインを望んでいるわけではない。「自分が言うことに何でも従われる」というのは、行動の責任は全て男性にあるということにある。そこまでを背負う覚悟はないのだ。

 なので、男性の存在を全否定しない範囲で女性にも主体性を発揮して欲しいというこれまた身勝手な願望がそこにはある。あんまりにも自分が駄目なときにはちゃんと叱って欲しい感じと言えるかもしれない。

 ちなみに、こういうキャラクター造型の場合、男性あるいは女性の側の積極的なアプローチによって恋愛が成就する可能性は低い。双方が奥手だからだ。したがって、恋愛を促進する要因となるのは「外在的な状況」ということになる。

 何らかの偶発的な要因によって一緒に住まざるをえなくなる、一緒に活動せざるをえなくなる等々によって無理やりに関係性が生み出される。さすがに恋愛関係へと至るには何らかの主体的な行為が必要になるが、それは最後の最後、最小限の主体性によって成就される。全てがお膳立てされたところで「好きだ」とようやく言える/言ってもらえる。それが精一杯なのだ。

 …というのが、ぼくの回答になるわけだが、書いていてものすごく駄目な感じがしてきた。でも、こういうタイプの小説が読んでいて楽しいわけで、娯楽なんだから別にいいじゃないかとも思う。女性向けのマンガを読んでいても「ここまで女性にとって都合が良いだけの男が存在してたまるか」「男子高校生の頭のなかがここまで清浄の地であってたまるか」等々の感想をしばしば抱くので、お互い様と言ってよいのではなかろうか。

 とはいえ、ぼくが好む小説は奥さん的には気持ち悪いということなので、残念ではある。