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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「政治の季節」の過ごし方【追記あり】

【注】趣旨がうまく伝わっていない箇所と誤った箇所とがあったため、追記しました(2015/8/7)

「事実」による印象操作

 『朝日新聞』の富永格特別編集委員のツイートが炎上した。NHKなどのメディアでも報道され、富永氏はツイートを削除している。

朝日新聞社によりますと、特別編集委員は今月2日、ナチス・ドイツのカギ十字の旗などを掲げた人たちのデモ活動の写真を掲載したうえで、「東京での日本人の国家主義者によるデモ。彼らは安倍首相と彼の保守的な政権を支持している」などと英語で書き込みを行ったということです。
(出典)朝日新聞特別編集委員 不適切ツイートで謝罪

 ただし、富永氏がツイートを削除したことに対する反発も強い。富永氏の書き込みは事実であり、削除したことによってデマだという印象が広がってしまったというのだ。そのため、富永氏にツイッターで苦言を呈した『朝日新聞』の武田肇記者に対して激しい抗議が行われ、当該記者がツイッターを一時休止するという事態にもなっている。(参考

 それでは、富永氏のツイートは果たして事実なのだろうか。確かに、排外主義系の運動でハーケンクロイツが掲げられることはあるようだ。しかも、以前のデモでハーケンクロイツを掲げていた男性が安保法制賛成デモに参加していたという情報もある。だがその一方で、富永氏のツイートにあった写真のデモの主催者は安倍政権にきわめて批判的だという情報もある。要するに、よくわからない。

 しかし、やはり富永氏のツイートが事実であるか否かに関係なく、氏のツイートには問題があるとぼくは考える。富永氏は以下のようなツイートをしているが、元のツイートに「一般的に」という言葉が入っていようとも、やはり問題だ。

 それは、富永氏のもとのツイートが仮に事実だったとしても、露骨な印象操作になってしまっているからだ。つまり、「(日本のネオナチは)安倍首相と彼の保守的な政権を支持している」という言明は、「安部首相と彼の保守的な政権を支持する人たちはネオナチと親和性がある」というニュアンスを含んでいる。

 【追記】急速に低下してきたとはいえ、いまも安倍内閣の支持率は30~40%近くある。有権者の割合だけで考えたとしても3000~4000万人の人たちが安倍内閣を支持していることになる。安保法制に限ってみても、朝日の調査ですら26%の人たちが賛成している。富永氏のツイートはそれら膨大な数の人びとに対するネガティブな印象操作になってしまっている。

 こうした印象操作が厄介なのは、仮に数人、数百人、あるいは数万人(たぶん、そんなにはいない)であってもナチスを支持しつつ安倍政権を支持している人がいれば、それを「事実」として語ることができるからだ。【追記終わり】

 逆の立場から見てみよう。「極左勢力は国会前でデモを行っているSEALDsを支持している」という言明が繰り返されれば、「SEALDsは極左勢力の傀儡だ」という印象を持つ人が出てくることは不思議ではない。言うまでもなく、前者の言明は後者の印象とイコールではない。たとえ事実を述べた言明ではあっても、それが繰り返されることによって誤った印象が生まれることはよくある。

【追記】この記事をアップしたあとで「極左勢力はSEALDsを支持していない」という指摘を受けた。確かにSEALDsは極左勢力を排除しているという情報もあり、この点は誤解を招く表記だった。謹んでお詫びしたい。

 ただし、「極左勢力がSEALDsを本当に支持しているか」はどうかは、印象操作を試みる者にとっては全く重要ではない。実際、ツイッター検索で「SEALDs」と「極左」というワードで検索をかけると、両者のつながりを断言するツイートは山ほど見つけることができる。

 自らの運動が誰からの支持を受けるのかは運動体には決めることができない。したがって、世間的にはネガティブな評価を受けている団体から知らないうちに支持されていたとしても、それは運動体のせいとは言えない。しかし、それは容易に印象操作の材料にされてしまうし、場合によっては支持者を装う「なりすまし」が現れ、過激な言説を弄することで運動のイメージダウンが図られるケースもある。【追記終わり】

 世間からネガティブな印象を持たれている集団によって特定の政党や運動が支持されていると強調することはプロパガンダの基本と言っていい。民主党の選挙演説に嫌がらせのために太極旗をもって押し寄せた人たちがいたというのはその典型例だ。政治学者のエルマー・シャットシュナイダーによれば、ほとんどすべての政治団体、利益団体の一般的な評判は良くないため、それらの団体に対する敵意を利用することは有効な選挙戦術だという(内山秀夫訳『半主権人民』而立書房、1972年、p.75)

 もちろん、世間からネガティブな印象を持たれている集団が特定の政党や運動を実際に支持していることは当然にある。けれども、その事実をもって政党やそれを支持する人びと全体を貶めようとする言明はどこまで行ってもプロパガンダの域を出ない。新聞社の編集委員がそうした問題に気づかないとすれば、やはり軽率だと言わざるをえないだろう。

「味方」からの異議にどう応じるか

 敵と味方とが鋭く分かれる「政治の季節」では、味方に有利なのか、それとも敵に有利なのかという論理がどうしても幅を利かせるようになる。そうしたなかでは、味方だと思われていた集団のなかからの異論の提起は「裏切り行為」として敵以上に激しい攻撃の対象になる。『朝日』の武田記者が厳しく批判されたのはその一例だ。この点について、社会学者のジグムント・バウマンは次のように述べている。

多くの政党、教会、国家主義的ないしは党派的な組織は、公然たる敵よりも、それ自体の反対者と戦うことに多くの時間とエネルギーを費やしている。概して反逆者や裏切者は、公然と自ら認めている敵よりも、強く憎まれる傾向がある。国家主義者や政党の闘士にとって、「わたしたちの一員」でありながら敵方に走った者、あるいは敵であることをはっきり宣言しない者ほど嫌悪感を催させる敵はほかにない。
(出典)ジグムント・バウマン、奥井智之訳『社会学の考え方』(HBJ出版、1993年)、p.75。

 政治・社会運動を展開している人たちが「味方」からの異議申し立てに対して神経質になる理由はわからないでもない。とりわけ左派系の運動は内部分裂に苛まれてきたことから、分裂の芽は早いうちに摘んでおきたいのではないだろうか。内部分裂の問題は日本の左派運動に限った話ではなく、たとえば政治哲学者のウィル・キムリッカは次のように述べている。

左派の人々は、社会が直面する現実の問題に95%同じ意見を持ちながら、意見が異なる5%の争点にすべての時間を費やし、意見の一致する95%の問題のために共闘しようとしない。
(出典)ウィル・キムリッカ、岡崎晴輝ほか訳『土着語の政治』(法政大学出版局、2012年)、p.470。

 こうした観点からすれば、お互いのあいだに意見の違いがあったとしても、より大きな目的のためにとりあえずはまとまることが必要だということになる。

 しかし、多様な人たちがお互いの違いを曖昧にしたままでまとまることは、結果として印象操作の対象となるリスクを増すことになる。「味方」の陣営のなかでもっとも極端な意見を持っている人物や集団が選び出され、あたかもその人物や集団が「味方」全体の意見を代表しているかのようなイメージを敵側によってばら撒かれやすくなるのだ。こういう観点からすれば、ぼくの前回のエントリもそうした印象操作を受けた結果なのかもしれない。

【追記】以上の点を踏まえると、安保法制に賛成する人たちからは、排外主義・歴史修正主義的な動きと一線を画する声がもっと上がってもよいのではないかと思う。政治学者の大嶽秀夫は戦後の日本において再軍備を訴える主張が復古主義的なイデオロギーと結びついていた点について、以下のように述べている。

再軍備は、軍事政策をめぐる争点である以上に、伝統的社会の復活、維持の象徴となったといってよい。したがって、占領政策(と米兵が持ち込んだアメリカ文化)によってもたらされた「戦後の悪弊」を一掃するための全面的な「戦後体制の見直し」政策の一環であり、その突破口と見なされていた…。
(出典)大嶽秀夫(2005)『再軍備ナショナリズム講談社学術文庫、pp.212-213。

 近頃話題になった自民党武藤貴也議員による以下のツイートは、こうした大嶽の指摘がいまも生きていることの証左と言える。

 防衛政策とこのような復古主義的なイデオロギーの結びつきは、それに反対する側による印象操作をより容易にしてしまっているのではないだろうか。
【追記終わり】

 加えて、ネット上の可視化された環境において「味方」内の異論を押さえつけようとすることが運動全体に対する印象をかえって悪くしてしまう可能性もある。敵側は容赦なく運動のそうした言論弾圧的性格を槍玉にあげてくることだろう。

【追記】しかも、異論を押さえつけようとする人たちの乱暴な言葉遣いは、一部の層には受けたとしても、それ以外の人たちを遠ざけていく。安保法制への反対運動の広がりが「いままでの平和なくらしを守りたい」という動機によって少なからず支えられているとすれば、「平和なくらし」とは無縁なはずの乱暴な言語使用は運動にシンパシーを感じるはずの人たちを疎外するからだ。「政治運動は怖い」「異論を唱えると総括される」といった深く根付いた意識を再活性化させ、長期的に見れば日本の政治・社会運動の根幹を蝕むだろう。【追記終わり】

 「味方」内の異論と激しくやりあえば内ゲバとして嘲笑され、異論を曖昧にすれば敵側からの印象操作の対象となる可能性を増し、異論を押さえつけようとすれば言論統制全体主義といった批判がやってくる。敵と味方の対立構造が存在する以上は、「味方」内の異論に対してどのように対処しようとも攻撃は受ける。

 明確な結論があるわけではないが、「政治の季節」というのはなかなかに過ごしにくい季節である。

【追記】最後に上で紹介したバウマンの著作から、もう少し引用を続けてみたい。

これらの(反逆者あるいは裏切者に対する:引用者)非難は、次のように考える…人々に向けられる。自分の国家や政党や教会や運動と公然の敵との間の分割線は絶対的なものではなく、相互の理解や合意さえも可能だ、あるいは自分の集団の名誉には汚点がないわけではなく、集団そのものが非のうちどころがないとか、いつも正しいというわけではない、と考える人々である。
(出典)ジグムント・バウマン、奥井智之訳『社会学の考え方』(HBJ出版、1993年)、p.75。

【追記終わり】