擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

安保法制について

 以下は、安全保障論にも憲法論にも全く素人の戯言である。

 現政権は安保法制がどうしても必要だという。

 その理由はいまいち明快に語られないのだが、おそらくは中国の領海拡張路線に対する強い警戒感があるのだろうと思う。しかし、それを国会などの場で明確に語ってしまうと、そのこと自体が深刻な外交問題を引き起こしかねない。だからこそ、よく分からない比喩を持ちださざるをえない。その意味では、テレビカメラの前で生肉を使って解説せざるをえなかった安倍さんに少し同情する(それでも、2015年度の防衛白書では中国についてかなり踏み込んだ記述をしているようだが)。

 安保法制を推進する側は「はっきりとは言えないの!わかるだろ?察しろよ!」と言外に伝えているのに、反対する側は「何を言っているのやら、サッパリ分かりませんね」と理解できないふりをして、その比喩のあやふやさを攻撃するという「ゲーム」をやっているのかもしれない。

 そうした「ゲーム」の是非は措くとして、現政権が中国の拡張路線を警戒したくなる気持ちは理解できなくもない。繰り返しになるが、ぼくは安全保障論の素人なので、たとえば冷戦期のソ連と比較して現在の中国がどれほどの脅威なのか、冷戦期における日米関係と現在のそれとでどれほど状況が違うのかといったことを判断する材料を持たない。それでも、中国の拡張路線が多くの国々から警戒されており、かなり困った状況を引き起こしていることはたぶん事実だろうと思う。米国の国防費が削減されるなか、同盟国である日本にも相応の負担が求められるということもあるのかもしれない。

 こうした問題意識からすれば、これまでの憲法解釈から多少は逸脱したとしても、日米安保の枠組みを強化するために集団的自衛権の行使を可能にしたいという発想も理解できなくもない。もちろん、それならそれで解釈改憲のような迂回戦術を取るのではなく、憲法9条を改正するという正攻法を選ぶべきだというのは正論だ。

 だが、先日、国会前のデモを見学に行って思ったことだが、憲法9条に象徴される平和国家としての日本のナショナル・アイデンティティは良くも悪くもかなり深く根づいているのではないだろうか。

 たとえば、今年の5月に『朝日新聞』が報じた世論調査によると、憲法9条改正の是非について「変えないほうがよい」が63%、「変えたほうがよい」が29%という結果だったという(『朝日新聞』2015年5月2日朝刊)。改憲を社論とする『読売新聞』の世論調査ですら、9条1項は言うまでもなく(改正賛成14%、改正反対84%)、戦力を持たないことを定めた9条2項ですら改正に反対する声の方が大きい(改正賛成46%、改正反対50%)のである(『読売新聞』2015年3月23日朝刊)。おそらく、憲法9条を改正しようとする動きは今回の安保法制以上の強い反対運動を引き起こし、いくら支持基盤の強さを誇ってきた安倍内閣であってもさすがに持たないのではないかと思う。

 以上を踏まえると、今回の安倍内閣の強引な手法も理解できなくはない…ような気もするのだが、根本的なところでひっかかりを覚えてしまう。

 やはり国家が守らねばならないルールが恣意的に解釈されてしまうことに対する不安があり、その不安のさらに根底に何があるのかと言えば、現政権に対する不信感だ。

 といっても、ぼくはアベノミクスについてはわりと好意的に評価している。在外研究中に円安が急激に進行したせいで、個人的にはずいぶんな支出を被ることになったし、経済学についてもぼくは全くの素人だ。しかし、雇用情勢が良くなったことは確かだし、大学生の就職活動を見ていても売り手市場になったことは素直に喜びたい。

 さらに言えば、現政権が戦前回帰を目指しているという一部に見られる主張も、さすがに言い過ぎではないかとも思う。徴兵制もたぶんやらないだろう。

 けれども、自民党改憲案や歴史修正主義的な動きを見ていると、「もしかして、本気で戦前に戻りたいと思っているのではないか」という疑念が頭にもたげてくる。たとえば、近頃話題の日本会議のホームページには次のような文言がある。

特に行きすぎた権利偏重の教育、わが国の歴史を悪しざまに断罪する自虐的な歴史教育、ジェンダーフリー教育の横行は、次代をになう子供達のみずみずしい感性をマヒさせ、国への誇りや責任感を奪っています。かつて日本人には、自然を慈しみ、思いやりに富み、公共につくす意欲にあふれ、正義を尊び、勇気を重んじ、全体のために自制心や調和の心を働かせることのできるすばらしい徳性があると指摘されてきました。…私たちは、誇りあるわが国の歴史、伝統、文化を伝える歴史教育の創造と、みずみずしい日本的徳性を取りもどす感性教育の創造とを通じて、国を愛し、公共につくす精神の育成をめざし、広く青少年教育や社会教育運動に取りくみます。
(出典)日本会議がめざすもの

 上の文章で言うところの「かつて」が「戦前の日本」を指し、「みずみずしい日本的徳性をとりもどす」ことが運動の目的なのだとすれば、確かに戦前こそが彼らの目指すところなのではないかと勘ぐってしてしまう。

 ちなみに、戦前日本の「みずみずしい日本的感性」については、『「昔はよかった」と言うけれど』(新評論)や『戦前の少年犯罪』(築地書館)といった著作が参考になる。同様に、先日の言論統制に関する自民党議員の発言も、そういった戦前回帰的志向性を強く感じさせる材料になっている。

 仮にこういった戦前回帰志向がぼくの杞憂にすぎなくとも、集団的自衛権は日本の存立にどうしても必要だと現政権が考えるのなら、どうして戦前回帰的に見える動きを控えることができなかったのだろうか。国家の存立を第一に考えるのであれば、その目的の足枷になるような動きは厳として慎み、政治的資源をもっと有効に活用すべきではなかったか。

 実際、現政権の歴史修正主義的な動きは、日本の防衛力強化に対する国際的理解を大きく損なってきたように思える。過去の歴史を反省したくないが防衛力は強化したいというのであれば、それこそ日本政府は大日本帝国の再建を目指しているという主張にある程度の説得力を与えてしまう。欧米メディアの論調を見ていても、「歴史修正主義者」に対するまなざしは決して暖かいとは言えない。

 日本の側に「自分たちの側から戦争を仕掛けるなんてことはありえない」という確信があったとしても、外側からもそのように見てくれるとは限らない。中国の拡張路線に対する警戒感はあったとしても、日本の戦前回帰的に見える動きへの警戒感と相殺されて「どっちもどっち」に落ち着いてしまう。

 国家の防衛がリアリズムと合理性に依るべきものだとすれば、現政権の動きはその水準をクリアしているとは言いがたいように思う。その点からすれば、集団的自衛権が絶対に必要だという主張の「リアリズム」もまた疑わしく見えてくる。それはもしかして、戦前日本の「高いモラル」に対する幻想と同じ類のものではないかとも思えてくるのだ。

 自分たちで作り出した世界観のなかに安住し、それに反する意見を言う者を「反日」や「外国の手先」として片付けてしまう。「反日」か「親日」、「愛国」か「売国」しか存在しない世界。許容される言論の幅はどんどん狭くなり、中身のないスローガンだけが横行するようになる。

 そうなってしまえば、もはやリアリズムも合理性もへったくれもない。その先にあるのは、なんだかよくわからないうちに、なんだかよくわからない戦争に突入するという事態であるのかもしれない。

 これがぼくの杞憂であることを切に願う。