擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「意識高い系」はなぜ批判されるのか

 こういうブログを読んだ。

www.jimpei.net

 これに関するブックマークコメントを見ると、「意識高い系が批判されるのは、実力もないくせに他人を見下して馬鹿にするからだ」という趣旨のものが多い。要するに、「意識高い系」とされる人たちも、それを批判する人たちもお互いに馬鹿にされていると感じているわけで、この溝はわりと深い。

 これは完全な思い付きだが、「意識高い系」に対する批判が出てきた背景には、SNSの普及があるのかもしれない。SNSによって「前向きであること」と自己表現とが深く結びつくようになってきたからだ。

 たとえば、英語力を身につけたいと思って地道に頑張っている人に向かって「意識高い系」という揶揄がぶつけられることはあまりないだろう(たぶん)。しかし、たとえばSNSに「TOEIC800点突破!次は900点を目指します!」とか書くと「意識高い系」と見なされる可能性は上がる。そこからさらに進んで「日本の英語教育はクソ!俺はオンライン英会話で鍛えてます!」とか書き始めると、「意識高い系」と見なされる可能性は飛躍的に上がる。

 加えて、人脈形成がフェイスブックなどで可視化されるようになったことも作用していると考えられる。もちろん、人脈づくりなんてのは今に始まった話ではなく、昔からそういうのに熱心な学生は頑張ってやっていたのではないかと思う。だが、いまはSNSでそれをやっている過程が他人にも見えてしまう。そのことが「アイツは意識高い系だ」という批判を招き寄せやすくする。

 他方、そういう批判を受ける側は、「われわれが意識高い系だと批判されるのは、周囲の意識が低いからだ。頑張ってないからだ」という発想になり、意識高い系批判を裏付けるような言動に走ってしまう。「意識高い系が批判されるのは、前向きな人間を引きずり降ろそうとする日本社会の悪癖」なんていう日本社会論まで展開してしまうかもしれない。

 しかしこれは不幸なすれ違いだと思う。この構図のなかで重要なのは、頑張ること自体は誰も否定していないことだ。問題なのは、頑張るか頑張らないかということではなく、自分自身をSNSでどう表現するかということにすぎない。

 だからまあ、自分を意識高い系だと思う人も、意識高い系が嫌いな人も、とりあえず他人のことは放っておいて自分を高めることに必死になれば良いんじゃないだろうか。

 あと、ぼくは研究者なので研究者のことしか分からないのだが、(仮にいたとして)「大学の教員をやっている自分の姿に憧れる」タイプの人はたぶん駄目で、「自分のやりたい研究をやるうえでは大学の教員をやるのが一番望ましい」ぐらいの人のほうが研究者としては伸びると思う。前者のタイプだと、大学の教員になった時点で目標が叶ってしまうので、そこから先の成長が期待できない。

 最後に。ぼくの知人の一人は大変な努力家であるのだが、その一方で普段は愚痴ばかりたれている。「後ろを向きながら前に向かって全力疾走する」タイプだ。どちらかと言えば、ぼくはそういう人が好きである。