擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

美しさの落とし穴

 今回はアニメの話から始めよう。

 先日、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』の第一期の放送が終了した。火星独立運動のシンボル的存在である少女と、彼女の護衛を請け負った少年少女たち(鉄華団)が強大な敵と戦いつつ、地球へと向かう物語である。少しネタバレになるが、ここでは物語終盤のあるシーンに注目したい。

 少女と鉄華団は、敵に阻まれて目的地の都市に入ることができない。早く敵陣を突破しなくてはタイムリミットに間に合わなくなってしまう。仲間が次々と傷ついていくなか、鉄華団のリーダーは無謀な作戦を立案、実行しようとする。彼は仲間たちに言い放つ。

もし乗ってくれるなら、お前らの命って名前のチップを、この作戦に賭けてくれ。(中略)ここまでの道で、死んでった奴らがいる。あいつらの命は無駄になんてなってねえ。あいつらの命も、チップとしてこの戦いに賭ける。いくつもの命を賭けるごとに、俺たちが手に入れられる報酬、未来がでかくなってく。(中略)誰が死んで、誰が生き残るかは関係ねえ。俺たちは一つだ。俺たちは家族なんだ。鉄華団の未来のために、お前らの命を賭けてくれ。

 この言葉に、鉄華団のサポートをしてきた女性は強く抗議する。

違う…そうじゃない、家族って言うのは…。こんなの間違ってる!

 それを聞き、鉄華団でメカニックを担当している年輩の男性もまた、「ああ、間違ってるさ…」と呟くのである。

 ぼくがこのシーンを見て思い出したのは、米国の政治学者カール・ドイッチュによる終末期のナチスドイツに関する記述だ。戦争での勝利が望めなくなっても、ナチスドイツは戦争を止めることができない。不利な戦況を伝える情報の流通は「ノイズ」として抑圧される一方、これまでの方針を曲げないことが「意思の強さ」として称賛される。

 そして、方針の転換を許さない論拠として持ちだされるのが死者の存在である。われわれは膨大な人命を犠牲にして今まで戦ってきた、この期に及んで和平を結ぼうなどと言うのは死者への裏切りである、という論理。つまり、「あいつらの命を無駄にしない」という発想が、破滅的な結果がもたらされるまで方針転換を不可能してしまうのだ。

 『ガンダム』に話を戻せば、もちろんフィクションなので、鉄華団が一方的に敵に掃討されて終わるといった類の後味の悪いストーリーにはならない。だが、常識的な判断ではたしかに鉄華団のリーダーの作戦は間違っているように思う。なにせ危険な作戦に参加するのは年端もいかない少年少女たちなのだ。すでに失ってしまった「仲間の命という名前のチップ」を諦められないがゆえに、鉄華団のリーダーは死者の存在がさらに死者を生み出すような作戦を生み出してしまったのである。

 以上の話から見えてくるもう一つの教訓は、リーダーとしての決断と、物語的な美しさとの相性は必ずしも良くないということだ。常識的な判断からすれば鉄華団のリーダーの決断は間違っている、と先に述べた。しかし、物語的な展開という観点からすれば、あの場面で兵を引くという決断はありえない。物語はまさにクライマックスを迎えており、あの場面で視聴者が見たいのは、多くの犠牲を払いながらも前に向かって進んでいく主人公たちの姿である。

 だからこそ、『ガンダム』の制作者は、鉄華団を見守る大人たちに「間違えている」と言わせた、というのは深読みが過ぎるだろうか。ストーリーの進行上、間違った決断を少年少女たちに押し付けざるをえない制作者サイドの償いとして。

 鉄華団のリーダーは「誰が死んで、誰が生き残るかは関係ねえ。俺たちは一つだ。俺たちは家族なんだ」と言う。たしかに、『ガンダム』ではリーダーもまた自分自身の命を賭けており、その意味では美しい物語になっている。

 だが、歴史や政治を語るさい、われわれは物語的な美しさに気を付けなくてはならない。美しさと正しさは往々にして相反する。美しさを過剰に強調する物語の背後には、安全な場所で「俺たちは一つ、俺たちは家族」といったフレーズを唱えながらも正しさの追求を怠ったリーダーたちを免責しようとする欲望が渦巻いていることが少なくないのだ。

参考文献

Deutsch, K. (1966) Nationalism and Social Communication: An Inquiry into the Formation of Nationality (2nd edition), MIT press.