擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

子どもを産まないというモラル

<ずっと前に別のところに書いた文章に加筆、修正>

「だいじょうぶよ」というのが、その頃の妻の口癖だった。つづく言葉は、「なんとかなるって」。そう言って、いつも疲れてはいるけれど屈託のない笑みを浮かべるのだった。(中略)

だが、いまの妻は、めったに「だいじょぶよ」とは言わない。「なんとなるって」が「なんとかするわ」に代わってから、もうずいぶんたつ。(中略)

「俺、7時半に帰ればいいよな」
「だいじょうぶ?」
「なんとかなる」
私もこんなふうに言っていたのだ、確か、昔は。

(出典)重松清『ナイフ』新潮文庫、p.302およびp.378

 子どもを産まない理由として、しばしば挙げられるのが経済的要因だ。つまり、「子どもを育てるのにはお金がかかる」というものだ。

 ここから、子どもを産まない人々のモラルの欠如を批判する声が噴出することがある。「今の恵まれた日本社会で『お金がかかる』などとは理由にならない」、「今の自由で豊かなライフスタイルを崩したくないという自己中心的な考えが根底にあるのだ」、「要するにモラルや愛国心が欠如しているから少子化が進むのだ」云々。

 しかし、雇用の不安定化や社会保障の負担などを考えると、いまの若い人たちが子どもを産み、衣食住を与えるということの経済的負担は決して小さくない。加えて、子どもを「ちゃんと」育てるということを前提とするならば、子どもを持つことの経済的負担はさらに大きくなる。

 片や、激化する競争社会でのサバイバル技術を身につけさせるためには、小さいうちから塾に通わせ、英会話を学ばせ、吹き溜まりとなりつつある公立の学校ではなく私立に進学させ、有名大学にまで進学・卒業させねばならないというような脅迫観念がある。

 逆に、子どもを塾にも行かせず、中学や高校は当然公立…ということになれば、競争社会から落ちこぼれてフリーターニート、下手をすると犯罪者になるかもしれないという不安もある。まあ、我が家は公立に進学させる予定ではあるのだが。

 つまり、周囲に迷惑をかけないような子どもを社会に送り出すためには、相当のコストがかかるということになっているわけだ。そして、そのコストを負担するのが難しい場合、むしろ変な子どもを社会に送り出して迷惑をかけるよりも、子どもを産まない、もしくは産む子どもの数を減らすというのが道徳的な行動だとは言えないだろうか。

 たとえば、「社会全体での子育て」に厳しい意見を述べる杉並区のある区議はブログで次のように述べている。

待機児童問題、というよりも本質的には「待機親問題」なので以下待機親という言葉を使うことにするが、待機親の辛さは想像できる。想像できるというのは、私はまだ親ではないので実体験がないからだ。子供というものは、基本的には親が家で育てるものだと思ってきた。最低限の物質的・精神的備え、つまりは経済力だとか人間力だとか、そういう準備も覚悟もなしに子供というものは易々と持つべきではない、持つ資格がないと自分自身に言い聞かせてきた。よく、その歳(現在37歳)まで独り身でいるとはどういうことかとお叱り気味に言われることがあるが、私に言わせれば、もしも結婚した時、果たして本当に妻や子供を幸せにできるか、その自信を持つのに人によって多少の時間はかかるのである。

(出典)http://blog.tanakayutaro.net/pages/user/iphone/article?article_id=62737267

 このように、子どもを育てる自信がまだないから産まない、つくらないというのも、モラルの一種だと言える。存在しない子どもは、絶対に社会に迷惑をかけないからだ。

 もちろん、冒頭で触れたような享楽的なライフスタイルを捨てたくないがゆえに産まないという人びとも存在しているのかもしれない。けれども、それらの人びとの自己中心性を非難し、子どもをきちんと社会に送り出す責任を訴えれば訴えるほど、そのような責任の重さに耐え切れず、モラルゆえに子どもを持たないという傾向を加速してしまいかねないのではないだろうか。

 とまあ、いろいろと書いてきたものの、こうすれば少子化が止まるなどというアイデアを僕が持っているわけではない。ただ、責任感よりも、ある種のお気楽さに訴えたほうが、子育てに対する恐怖感やリスク意識を軽減することができるのではないかとは思う。

 躾で多少は手を抜いても、私立中学に入学させなくても、一流大学に進学させなくても、有名企業のコア社員にすることができなくても、人はそれなりに幸せに生きていけるという確信を持てるのであれば、子どもが成長の過程で多少の間違いを犯したとしてもそれはいずれ乗り越えていける問題なんだという安心感さえ持つことができれば、モラルだの愛国心だのに関係なく子どもを持つという選択をする人はもう少し増えるのではないだろうか。

 付言すれば、最初から「完璧な親」として生まれくる子どもを迎えることなどできない。子どもは一人ひとり違う存在なのだから、目の前にいる子どもと向かうあうなかで親としてのありかたを考えるしかないからだ。ある子どもにとっての「完璧な親」は別の子どもにとっての「毒親」である可能性だってないとは言えない。だから親として必要な人間力(なんだそれは?)を獲得してから親になる、みたいなことを考えていたらその日はおそらく永久に来ない。

 冒頭で引用したのは、重松清の短編「ビタースィート・ホーム」の一節。子育ての難しさに直面した夫婦の物語。この物語で示唆されているように、「なんとかする」という責任感ではなくて、「なんとなる」という楽天主義こそが、子育てというハードルを乗り越えるための打開策になる…といいんだけど。