擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

努力を「語る」流儀

学歴の話はなぜ荒れるのか

 学歴というのはとても荒れやすいテーマだ。

 ほとんどの人が学校教育を経て成人する現代社会において、それはやむを得ない部分もある。それぞれに様々な経験があり、それらから導き出された何かしらの考えがある。自分と違う意見を見れば批判したくもなる。万人に支持される意見を語ることはおそらく不可能だ。

 たとえば、赤木智弘さんによるこのエントリも、コメント欄ではさまざまな意見が書き込まれている。赤木さんの文章の一部を引用する。

子供の学力は子供の意志に関係なく、子供の親が子供に対してしっかりと金を使い、勉強に没頭するような環境を用意できるかどうかで決まってくる。学歴というのは親が用意した道に他ならず、本人の努力すら親が用意したものなのである。
(出典)努力という言葉に見る日本の落日

 さてここで、ぼく自身の経験を振り返ってみたい。ずっと以前にもブログに書いたことがあるが、こんな話だ。

 今から20年以上前、ぼくは成人式に出席するために地元に戻っていた。成人式自体は荒れることもなく終わり、中学校時代の知人と一緒に会場の外に出た。

 会場の外は再会を懐かしむ声の渦だった。ぼくもそれなりに旧交を温めていたものの、なかには楽しくない再会もある。昔からソリの合わなかった知人がぼくに聞こえるように大声で言う。「いいよな、東京の大学に行けるやつは」

 その言葉にぼくは腹を立てた。ぼくはたしかに東京の私立大学に進学していた。しかし、そこに至るまでにはストレスの溜まる浪人生活があり、自宅で愛用していた半纏の袖が擦り切れるまで勉强したのだ。

 しかし、いまにして思えば、その知人の言葉には真実があった。高校3年生になるまでほとんど勉强しなかったツケを予備校生活で払うことができ、東京の私立大学に進学させてもらえる経済的環境がぼくには確かにあったからだ。もっと言えば、ぼくがいま研究者として何とかやっていけているのも、生得的な環境によるところがきわめて大きい。

 とはいえ、大学進学直後のぼくがそれを認めることは難しかったはずだ。当時のぼくが赤木さんのブログを読んでも腹を立てていたに違いない。来る日も来る日も予備校と図書館に缶詰めとなり、不毛な暗記作業に精を出す生活を経たあとで「お前が大学に行けたのはすべて環境のおかげだ」と言われるとさすがに反発したくもなる。

 環境的な諸要因が学歴に与える影響に関する議論が荒れやすい理由の一つは、それらの要因と学歴とのあいだに「努力」というファクターが入り込むからだ。環境要因を重視する側は努力ができるのも環境の影響だと主張し、学歴の価値を強調する側は努力が環境には還元されないことを強調するという流れになりやすい。

「すべては環境のおかげ」か

 そもそも、多くの人は自らの業績については(謙遜する場合を除いて)努力の価値を語ることを好み、環境要因を認めたがらない。他方、(とりわけ嫌いな)他者の業績については「環境のおかげ」を持ち出す傾向が強い。ここで紹介したいのが、米国のアファーマティヴ・アクションに反対するアフリカ系米国人に関する話だ。

 言うまでもなく、アファーマティヴ・アクションとは歴史的・社会的要因によって不利な立場に置かれてきた人たちのための制度だ。典型的には、大学進学や就職、昇進などでマイノリティを優遇することで不平等の是正を図る。

 実際、このアファーマティヴ・アクションのおかげで少なからぬアフリカ系米国人に社会的上昇の機会が開かれた。少し古いがジグムント・バウマンの著作から引用しておこう。

黒人家庭の三分の一が、今では全米の平均(現在3万5千ドル)かそれ以上の年収を得ているが、ほんの四半世紀前、その割合は4分の1以下であった。黒人家庭の5分の1以上が、アメリカの豊かさの指標である5万ドル以上の収入を得ている。多数の黒人弁護士、医師、企業経営者が生まれており、政治的な影響力を行使したり、自ら発言したりしている。こうしたことはすべて、アファーマティヴ・アクションなしに起こりえただろうか?最近、ニューヨーク大学ロースクールが行った調査によると、ロースクールの学生となり、アメリカでもっとも有利な職業につく機会をえた3435名の黒人のうち、自分の試験結果の力だけで入学を果たしたのは687名にすぎなかった。
(出典)ジグムント・バウマン、伊藤茂訳(1998=2008)『新しい貧困』青土社、pp.115-116。

 にもかかわらず、近年ではアフリカ系米国人のあいだでもアファーマティヴ・アクションに反対する声が上がるようになっているという。それは、この制度が存続する限り、彼らの成功は自身の努力の成果ではなく、政策(環境)のおかげということになってしまいかねないからだ。

 もちろん、制度的な支援があったとしても、彼らの上昇移動が彼ら自身の努力によるものであったことは否定できない。だが周囲の目は違う。先に述べたように、人は他人の業績については環境のせいにしたがる。いくら努力したとしても「あいつがいまの地位にあるのはアファーマティヴ・アクションのおかげだ」などとやっかみを込めて言われ続けたら、「そんな制度はもうやめてくれ」と言いたくもなるだろう。

 このような問題はアファーマティヴ・アクションに限った話ではない。たとえば、欧米に移住したアジア系移民には勤勉に学び、働く文化があると言われる。学校でもアジア系移民の子弟がホスト国のネイティブに勝る優秀な成績を納めることは少なくないようだ。

 しかし、こうした文化的要因を過剰に言い募ると、アジア系移民自身の努力を卑しめることになると盛山和夫さんは指摘する(盛山和夫(2006)『リベラリズムとは何か』勁草書房、p.171)。

 つまり、アジア系移民には勤勉な文化があると言われてしまうと、いくら頑張ったところで「文化(環境)のおかげ」にされてしまう。アジア系だろうと何だろうと努力はそれなりに辛いわけで、いくら社会学的に正しかろうと「努力できるのも環境のおかげだ」と言われてしまうと、さすがに嫌な気持ちがするはずだ。

 まとめると、いくら環境に恵まれていようとも、ある人物のなした業績をすべて「環境のおかげ」と言い切ってしまうことには問題がある。実際、恵まれた環境にあっても努力しない人は数多く存在する。とはいえ、すべてを「本人の努力のおかげ」に還元してしまうと、環境要因を無視することにもなり、結果として様々な不平等が見逃されることにもなりがちだ。不平等を是正するための有効な手段として教育機会の拡充を挙げる研究者は多い。

努力を「語る」流儀

 以上のように長々と書いてきたが、結局のところ、このエントリの結論は赤木さんのそれと異なるわけではない。他人を攻撃するためのレトリックとして「努力不足」が語られる状況は確かにある。生活に困窮している人たちに対して「努力が足りなかったからだ」という言葉を向ける人は多い。個々人にはそれぞれに違った環境要因があり、それを詳しく知っているわけでもないのに「努力が足りない」と言い募ることは往々にして非常に暴力的だ。

 他方で、努力に意味はなく、世の中の成功や不成功のすべてが環境要因や遺伝的要因で決まるということになれば、多くの人にとって前に進むための動機づけが失われてしまう。

 すべてが自分自身ではどうしようもない要因によって決まってしまうのであれば、環境や才能に恵まれない人びとに残されるのは残された生をただ自堕落に過ごすだけということになりかねない。努力は、環境や才能を自らが欠いていることを自覚してもなお前進するための唯一のルートになる。

 羽海野チカさんの将棋マンガ『3月のライオン』に登場する努力家型の棋士である島田は、天才型の棋士である宗谷について次のように語る。

宗谷は「天才」と呼ばれる人間のごたぶんにもれずサボらない。どんなに登りつめても決してゆるまず、自分を過信する事がない。だから差は縮まらない。どこまで行っても。しかし「縮まらないから」といって、それがオレが進まない理由にはならん。「抜けない事があきらか」だからって、オレが「努力しなくていい」って事にはならない。
(出典)羽海野チカ3月のライオン(4)』白泉社

 そうして彼は地道な努力を続け、その姿は劇中の若き棋士に大きな勇気を与える。元気づけられる読者も多いだろう。

 努力とは他人の努力不足を攻め立てるために語られるべきものではない。自らの今の地位を誇示するために語るべきものでもない。そうではなく、後に続く者たちを無言で叱咤し、激励するためのものではないだろうか。