「日本が嫌いなら日本から出て行け」の背後にあるもの
「社会で通用しない」の「社会」とは
以前、大学の同期と飲んでいたときの話。
外資系の企業に転職したばかりの奴の話をみんなで聞いていた。社内での立ち振舞いや給料の査定の話など、なかなかにシビアだ。大学のような浮世離れしたところで勤めているぼくだけではなく、普通に企業で働いている連中も驚きながら話を聞いていた。そのとき、この外資系で働いている奴が語る社会と、その話を聞いて驚いている奴が語る社会は全然違うんだろうな、と思った。
「そんなんじゃ社会で通用しない」や「社会はそんなに甘くない」という言葉は頻繁に語られる。しかし、それらの言葉に対しては、時にその「社会とは一体なに?と言われることがある。しょせん、一人の人間が体験できる社会など、その範囲は限られている。だとすれば、「社会で通用しない」と言う人が想定している社会とは、あくまで社会のごくごく一部でしかないのではないか。もっと言えば、上の話に出てくるのは同じ大学の同期生なのであって、その外には遥かに広い社会が広がっているはずなのだ。
「日本」の多面性
同じことは「日本」についても言うことができる。人口は減少しはじめたとはいえ、それでも日本には1億2千万以上の人間がいる。出身地域や階層、職業、ジェンダーなどが違えば、見えてくる日本の姿も大きく違ってくることだろう。
たとえば、ツイッターでも紹介したこのエントリ。都道府県ごとに大学進学率は大きく違うし、ジェンダーの格差が非常に強く出ている県もある。先日、炎上事件に起因して低学歴/高学歴論がネットを賑わしたことがあったが、あれが盛り上がった一つの要因は「自分たちがぜんぜん知らなかった日本が存在する」という驚きにあったのではないだろうか。
ぼくの場合、高校の偏差値はそれほど高いわけでもなかったが、それでも大都市に位置していたこともあり、ほとんどの生徒が大学進学を希望し(そして、ぼくも含めてそのほとんどが浪人したw)、それが当たり前という空気があった。そういう高校に通っていて見えてくる風景と、そうでない高校に通っていて見える風景、あるいは高校に進学しないことで見える風景は大きく違うはずだ。そのようなライフコースの違いは、大きく異なる「日本」を体験させることになるのではないだろうか。
「日本」を語ることを可能にしているもの
にもかかわらず、われわれが一つの日本を語ることができると思えるのは、学校教育やマスメディアの存在が大きいだろう。学校で教わる社会、地理、歴史などによって、われわれは日本を一つの総体として捉える思考様式を植えつけられる。たとえば、一部の地域だけが切り離され、時に色分けされた地図は、ひとまとまりの領土という認識を視覚的に強化する。「ここからここまでが『日本』ですよ」ということを当然のこととして知覚させるわけだ。
また、マスメディアは、たとえそれが切り取られたものであっても日本の姿を日々伝えることで、われわれが日本社会を理解しているという幻想を与えてくれる。実際には、報道されない出来事のほうがはるかに多いのだが、それでもニュースはわれわれを日本について「知っているつもり」にさせてくれる。
さらにもう一つ、われわれが日本を語ることを可能にするのが比較だ。日本を総体として語ることは難しくとも、ステレオタイプ化された諸外国との比較をすれば、なんとなく日本の姿を浮かび上がらせることができる。
一部の人たちが延々と韓国や中国の批判を繰り広げる一つの要因は、そうすることで「彼の国」とは違う日本を賞賛することができると直感していることにあるのではないだろうか。日本のどこが良いのかを具体的に語らずとも、他国の悪いところをあげつらっていけば、それとは対極的な存在としての日本を暗示することができる。
そう考えれば、彼らは韓国や中国についてばかり語っているようでいて、その実、それらの国々と対比される日本を語ろうとしていると言えるかもしれない。妙な言い回しを使えば、比較によってのみ存在しうる、空虚な記号としての日本という感じだろうか。
融通無碍な「日本」と八紘一宇
したがって、そのような文脈で語られる日本というのは極めて融通無碍な存在でしかない。要するに、その話者にとって都合のいいように日本の中身を規定できるということだ。だから、日本は常に自分の味方であり、自分はつねに日本を代弁することができる。逆に、自分とは意見を異にする連中は、いつでも日本の敵として規定することができる。意見を違える人に対して「そんなに日本が嫌いなら日本から出て行け」と平気で言えるのは、自己と日本とのそのような一体化がなければ不可能だろう。
しかし、ツイッターのほうにも書いたように、意見の相違を「日本が好き/嫌い」という読み替えをやっていると、最後には真に日本を愛しているのは自分だけということにもなりかねない。他人の心のなかを覗くことはできず、意見の違いを無くすこともできないし、無くすべきでもない(そうなれば、全体主義に一直線だ)。
にもかかわらず、意見の違いを「日本が好き/嫌い」という基準に読み替えようとすれば、結局は偽善者だけが見つかる事態になるというのは、ハンナ・アレントが教えるところである。意見が完全に合致する人などそうそういないのだから、(自分にとっては)ニセモノの愛国者ばかりが見つかるというわけだ。
ところで、戦時中の日本では「八紘一宇」という理念が掲げられていた。だが、この八紘一宇が具体的に何を意味するのかを論じようとすると、どうしても意見の対立が生じてしまう。当時の意見風土では、そうした意見の違いは容易に愛国心の欠如へと読み替えられてしまう。結果、八紘一宇の具体的な中身について誰も論じることができなくなったと井上寿一は指摘している。
「八紘一宇」は誰もが賛成した。しかし誰もその内容を説明することができなかった。誰も何もわからない「八紘一宇」が日本の新しい体制原理となった。
(出典)井上寿一(2007)『日中戦争下の日本』講談社選書メチエ、p.166。
このような状況が非合理的な主張の横行と目的の不明確な政策の展開をもたらすことは言うまでもない。したがって、「日本が好き/嫌い」みたいな軸で意見の違いを評価するような言論がこれ以上横行するようにならないことをとりあえず祈りたいと思う。
ところで、このエントリ、なんか途中でテーマが変わってしまった気がするのだが。