読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「命の軽さ」が与えてくれるもの

 ずっと以前、「人口の多い中国では、命の重さが日本とは違う」という趣旨の文章を読んだことがある。いまでもネットで検索すれば、そういう文章をすぐに見つけることができる。

 しかし、本当にそうなのだろうか、とも思う。子どもを喪った中国人の父母は「じゃあ、また新しく子どもを作ろうかね」とドライにさっさと切り替えられるものなのだろうか。

メディア上での命の重み

 命の重さ、という点で言えばメディアの扱いもずいぶんと違う。

 13日の夜にフランスのパリで発生したテロ事件。日本ではメディアの対応が遅い、小さいという批判もあるが、それでも『朝日新聞』の14日夕刊と15日朝刊の一面はパリのテロが飾った。Facebookを眺めていても、フランス国旗をモチーフに自分のプロフィールをトリコロールにしている知人が何人もいる。フランス国民との連帯の意思を表明しているのだろう。

 その一方で、パリでテロが起きる前日、レバノンの首都ベイルートでは連続自爆攻撃が発生し、少なくとも43人が死亡、240人以上が負傷したと報道されている。『朝日新聞』の13日夕刊第二面に掲載された、この事件を伝える記事は以下の通りだ。

レバノンの首都ベイルート南部で12日、連続して爆発があり、レバノン保健省によると43人が死亡、240人が負傷した。AP通信などが報じた。現場はイスラム教シーア派組織ヒズボラが拠点とする地区。ヒズボラを敵視する過激派組織「イスラム国」(IS)が犯行声明を出した。(カイロ)
(出典)『朝日新聞』2015年11月13日夕刊

 これが全文である。文字数にして136字。1ツイートに収まる。(追記 11/16)もう一つ注目すべきは、記事の最後、(カイロ)という部分だ。ここからも確認できるように、『朝日』はベイルートには支局を置いていないため、国際通信社からの情報に頼らざるをえなかったのだろう。

 たまたま『朝日』について調べやすい環境にあるので同紙だけを取り上げているが、他の新聞も同じようなものだろう。Facebook上でレバノンの国旗である赤と白、そして緑の木をモチーフにしてプロフィール写真に手を加えた人をぼくは誰も見ていない。

 メディア上での人の命の重さを示す「等式」として「他の大陸での一万人の死=他国での千人の死=自国の周縁部での百人の死=首都での十人の死=一人の有名人の死」が挙げられることがある(Ginneken 1997)。つまり、他の大陸で1万人が亡くなった出来事が持つニュースとしての価値は、有名人が一人亡くなるのと同じぐらいだというのだ。

 しかし、この「等式」は間違っている。他の大陸で起きた出来事でも、それが先進国で起きるのか、それとも開発途上国で起きるのかによってニュースの重みは全く異なる。その意味では、外国で発生した出来事のうち、どれがニュースとしての価値を持つのかについてのガルトゥングらの古典的な研究のほうが参考になるだろう。

 それによると、ニュース制作のスケジュールに合致するタイミングで発生した出来事、重大な出来事、自国にとって関係が深いと認識された出来事、意外性のある出来事、以前から継続する出来事、大国で発生した出来事、悪い出来事、等々がニュースとして報じられやすい性格を持つという(Gultung and Ruge 1965)。

 レバノンでのテロ事件はこれらの要件をそれほど満たさない。だから扱いも小さくなる。「意外性」という点で言えば、途上国でテロが発生したと聞いても、もしかするとわれわれの多くは意外に思わないのかもしれない。

 途上国は暴力に満ちた土地であり、人口が多く、人命も軽いと見なされる。テロで多数の人命が損なわれたとしても、それは言わば日常の風景なのであって、意外でもなんでもない。だからこそ、ニュースが伝えられたとしても右から左へと流れていってしまう。

 他方でパリは違う。今年の初頭に世界的な注目を集めたテロ事件があったにせよ、先進諸国のなかでも屈指の知名度を誇る華やかな都市だ。普段からメディアで頻繁に取り上げられ、訪れたことのある日本人も多いだろうから心理的な距離も近い。

 そんな都市での大規模テロ事件の発生は、それだけに衝撃度、言い換えれば意外性が強い。メディアでの扱いも必然的に大きくなる。(追記)『朝日』にもパリ支局はちゃんとある。支局をどこに置くか、特派員をどれだけ配置するかという決定の時点ですでにニュースの価値は決められている。ただ、日本での報道が少し遅れたのは、日本時間では土曜日の早朝というタイミングで発生したためにニュース制作のスケジュールに合致しなかったのかもしれない。

出生率から見る命の重み

 もちろん、先進国であるフランスではそもそも命の重さが違う。少子化対策が功を奏して出生率こそ比較的高いとはいえ(合計特殊出生率は2013年で2.01人)、命が失われれば人びとは痛烈に悲しみ、われわれはそれに共感する。フランスはわれわれと同じ先進国クラブの一員であり、いかにも人が余っていそうな途上国レバノンでの命の重さとはわけが違うのだ。

 ところで、命の価値が軽そうに見えるレバノン合計特殊出生率はいったいいくつなのだろうか。ここでのデータによると、2013年の段階で1.5人である。実はフランスよりもずっと低いのだ。

 レバノンに限らず、多くの途上国ではいま、合計特殊出生率が急激に低下してきている。たとえばインドの場合、1980年には4.68人だったのが2013年には2.48人に、バングラディシュでは1980年には6.36人だったのが、2013年には2.18人にまで低下している。

 その背景には、栄養状態や医療の改善による幼児死亡率の低下、避妊に関する知識の広がり、育児コストの増大などが挙げられている。小さな子どもが死ななくなったぶんだけ出生数が減り、一人ひとりが大切に育てられるようになっているのだ。出生率という観点からだけで見ても、途上国において人の命は急速に重くなりつつある。

「途上国では人の命は軽い」という発想

 ただし、これはあくまで数字から見ただけの話だ。

 先日、バングラディシュの農村を取材したドキュメンタリー番組を見ていると、老夫婦が何十年も前に亡くなった自分の子どもの話をしているシーンが出てきた。彼らが子どもを喪ったのは今よりも出生率がずっと高かったころの話だ。それでも彼らは言う。自分たちはその子たちのことを死ぬまで忘れないだろうと。彼らの子どもの命は果たして軽かったのだろうか。

 もちろん、これは人命を重く考える現代の人権思想に侵された者の発想なのかもしれない。けれども、「途上国では人の命は軽い」という主張の背後には、もしかするとそう思い込みたいという願望もまた存在するのではないだろうか。

 途上国の人の命が軽いのであれば、悲惨な出来事のニュースを耳にしたとしても、それに思い煩わされる必要性はずいぶんと減る。心理的に楽になれる。冒頭で紹介した「中国では人命が軽い」という話は、旧日本軍が中国大陸で行なった殺戮行為を否定する文脈で出てきたものだ。「人口の多い中国人の犠牲などは大した話ではないのだ」という本音がそこに伏在していたようにも思う。

 しかし、このような発想こそが、もしかするとわれわれの世界認識を大きく歪めているのかもしれない。先進国でのテロとその被害ばかりが注目され、先進国の軍隊によるものも含む途上国での無数の死と、それに伴う無数の痛みとが視野の外に置かれる。結果として、あたかも途上国から先進国へと流れ込んできた暴力が一方的に先進国の人間を痛めつけているかのような錯覚すら生まれかねない。このサイトによると、9.11の報復として始まったアフガニスタンでの戦争において、巻き添えとなって亡くなった民間人は2万6千人以上に達するという。

変化の兆し

 ただし、変化の兆しはある。たとえば中東地域でもメディアは急速な発展を遂げており、世界の衛星放送チャンネルの38%がアラブ人によって所有されているというデータもある(千葉 2014: 4)。先進国のメディアや通信社が国際的なニュースの流れを支配する時代は終わりつつあり、これまでは不可視化されてきた途上国の人びとの死やそれに伴う痛みが発信される経路も生まれてきている。

 この記事によると、Facebookが大規模な自然災害のさいに用いてきた「安全チェック機能」をパリでのテロでは使用可能にしたのに、レバノンでのテロではそうしなかったことがレバノン人ブロガーにより批判され、数多くシェアされているのだという。このブロガーは言う。ベイルートでの死はパリでの死よりも重要ではないように思える、と。

 ただし、上の記事ではレバノンでは非常事態においてネットに接続することが難しく、ユーザーも少ないことから使用できたとしてもそれほど意味はなかっただろうとも指摘されている。加えて、「安全チェック機能」は先月のパキスタンでの地震でも使用されており、Facebookが途上国の人びとの命を軽んじていると断言するのは早計だろう。

 ともあれ、情報流通の流れの変化が今後も続くとするなら、先進国の人命だけを重く見るような認識のあり方はこれまで以上に大きな齟齬をきたすことになる。先進国での事件だけが世界的な注目を集めるという構造への批判はますます強くなっていくと予想されるからだ。

 もちろん、以上のように述べたからといって、パリでのテロが大したことない事件だとか言いたいわけではない。そうではなく、パリであれ、ベイルートであれ、バングラディシュの農村であれ、戦時中の中国であれ、人が死ねば悲しいし、それが理不尽なものであるほどに怒りも生まれる。どの命であれ決して軽いということはない。そのことをこれまで以上に強く意識する必要のある時代にわれわれは差し掛かっているのではないかと思う。

引用文献

Ginneken, J. (1997) Understanding Global News: A Critical Introduction, Sage.
Gultung, J. and Ruge, M. (1965) 'The structure of foreign news,' in Journal of Peace Research, vol. 2(1).
千葉悠志 (2014) 『現代アラブ・メディア』ナカニシヤ出版。