『毎日』と『産経』のすれ違い
先日、『毎日新聞』に「『気持ちいい』は気味悪い」というコラムが掲載された。『産経新聞』を読むと気持ちが良いという声に疑問を呈する内容だ。自分と同じような意見だけを読んでいければ確かに気持ちが良いかもしれない。しかし、そこには落とし穴があると主張している。以下、その一部を引用してみよう。
同じ意見で塗りつぶした方が新聞として主張は確かに明確になる。でも新聞の役割とは何か。私たち毎日新聞は、例えば私も関わっている社説では憲法解釈変更に反対してきたが、賛成する記者のコラムも載せてきた。多様な意見を私たちは封じてはならないと考えるからだ。
(出典)熱血!与良政談:「気持ちいい」は気味悪い/『毎日新聞』2014年9月17日東京夕刊
このコラムに対して、『産経新聞』は次のように応答した。
新聞は、事実を正確に伝えるのがもちろん基本ですが、各社がそれぞれの立場から論点を提示するのは、言論の自由がある日本では、当たり前の話です。メディアが相互批判をするのも社会が健全な証拠です。
自分の考えに近い新聞を読んで、気持ちの良い一日のスタートを切る生活のどこが、気味悪いのでしょうか。
もちろん、国益を害したウソを32年間も放置するような新聞を毎日読んでいれば、「気持ちいい」朝は迎えられないでしょうが。
(出典)「編集日誌」「気持ちいい」新聞はダメ?/『産経新聞』2014年9月19日
言うまでもなく、最後の「国益を害したウソ」云々は『朝日新聞』の吉田証言にまつわる報道のことを指す。今回のエントリでは、それは措いて、この『産経』の主張について考えてみたい。
「報道」と「論評」との区別
まず注目したいのは、上の引用文で『産経』は「事実を正確に伝えるのがもちろん基本」と述べていることだ。そのうえで「それぞれの立場から論点を提示する」と言っている。これは、日本新聞協会の「新聞倫理綱領」にある「報道」と「論評」との区別に沿った主張だと言うことができる。
新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。
(出典)新聞倫理綱領
つまり、事実は正確に報道する一方で、それと新聞社自体の主張とはきちんと切り分けるべきということだ。こうした観点からすれば、『産経』の上のコラムの主張はごくまっとうなことを言っているようにも思える。
しかし実際には、報道と論評はそれほど明確には切り離せない。紙面や記者の数に限りがある以上、どの出来事を報道し、どれを報道しないのかという取捨選択は必ず必要になる。また、同じ出来事であっても、立場の違いによって見え方が大きく変わることがある。
そうした出来事の取捨選択や解釈にさいして、記者や新聞社の個性はどうやっても反映される。人間がつくるものである以上、「絶対的に客観的な報道」はありえないのだ。
もちろん、だからと言ってすべては個々人の主観に過ぎないという相対主義を主張したいわけではない。多くの場合、妥当性の高い事実と完全な虚偽との区別は可能だ。しかしそれでも、全員が同じ現実観を持つことは不可能だし、望ましくもない。現実にいろいろな見え方があるからこそ世界は豊かなのだとも言えるからだ。
「都合のよい事実」の誘惑
とはいえ、現実に対していろいろな見え方があるなかでは、どうしても自分にとって「都合のよい事実」だけを見ていたいということにもなる。
ここで言う「都合のよい事実」とは「自分の利益になる事実」とイコールでないことに注意しなくてはならない。厳密に言えば、自分の認識枠組みに合致するものこそが「都合のよい事実」だ。
福島原発事故に関連して、放射線による健康被害を危惧する立場を例にとってみよう。放射線の健康被害が発生することは誰にとっても望ましい事態とは言えない。しかし、「健康被害があるはずだ」という認識枠組みを採用した場合、「健康被害」を示しそうな情報に飛びつきたくなる衝動が生まれる。それによって自分が正しいことが証明されるからだ。
言い換えれば、「損害の発生」と「自分の正しさ」を天秤にかけて後者を選んでしまうことが時に起きるということだ。放射線の健康被害に限らず、悲観的な認識枠組みを採用する場合には知らず知らずのうちに人の不幸を願う態度が生まれやすい。それほどに個々人の認識枠組みの影響力は強い。
「気持ちよさ」の代償
以上の観点からすれば、自らの認識枠組みに沿って一面的な「事実」のみを提示するというのは『産経』に限った話ではないことが理解される。確かなことは言えないが、『朝日』の吉田調書に関する報道でも同紙の論調に合わせてそのようなメカニズムが働いた可能性もある。人間である以上、己の認識枠組みの影響から逃れることはきわめて難しい。ここでこんな偉そうなことを書いているぼく自身、自らの認識枠組みの奴隷に過ぎない。
もちろん先にも述べたように、妥当性の高い事実と完全なる虚偽との区別は可能であることが多く、相互批判によって虚偽の芽は摘んでいく必要がある。ほとんどの専門家が合意している事象であるにもかかわらず、少数の素人が強引な解釈で異議を唱えた結果、「真偽について論争がある」とされてしまうケースは少なくないからだ。
しかし、それでも異なる認識枠組みの間で優劣をつけられないケースは多々ある。そうした場合に、意見の異なる人びとの意見を聞くことは、物事を多角的に眺めることに寄与する。意見の違いは往々にして「現実をどのように解釈するか」という違いに起因しているからだ。たとえば、中国の現状をどのように認識するかによって支持する対中政策は大きく変わってくるだろう。
もちろん、自分のものとは異なる認識枠組みに触れることが「気持ちよい」とは限らない。自分と異なる物の見方に接したとき、人はしばしば不快になる。だがもし「客観的な報道」なるものがあるするならば、それは複数の認識枠組みの間にあるのではないだろうか。
そう考えると、「気持ちのいい」新聞にはやはり問題がある。報道と論評との区別をナイーブに考えていると、気がつけば「正確でも公正でもなく、記者個人の立場や信条に左右される」報道になりかねない。
というか、それを言うなら『朝日』が池上氏のコラムの掲載をいったんは拒否したことも批判できなくなると思うのだが。