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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「それは私にとって都合が悪い」

社会

 多くの人は自分の主張をするさい、何らかの理由づけをする。

 なぜそのラーメン屋に行くべきのかと問われれば「美味いから」「店員の女の子が可愛いから」などという答えは自然だろうが、それが「国益に叶う」からだと言われればさすがに引いてしまう人が多いのではないだろうか。

 いずれにせよ、自分の主張に対する理由づけは次の5つぐらいの水準に分けられるんじゃないかと思う。

(1)自分の利害、好み
(2)他人の利害、好み
(3)集団の利害、好み
(4)国家全体の利害、好み
(5)人類全体の利害

 抽象的に考えるとわかりにくいので、ここでは「なぜ移民に賛成/反対するのか」という理由付けを例にとって考えてみよう。

 まず、(1)について言えば、「自分にとって都合が良い/悪い」、「自分の好みに合う/合わない」がその理由になる。移民の事例に即していえば、「外国人が好き(嫌い)である」ということだ。

 このような個人的な理由付けは、明快であるがゆえに疑われる可能性は低い。ただし、集団での行動を決定するさいに自分の利害や好みばかりを主張していると、自分勝手だということにされやすい。しかも「外国人が嫌いだ」などと正面切って言うと、差別だと批判されかねない。そこで別の理由づけが必要になる。

 そこで時に持ち出されるのが(2)、つまり他人を理由付けに用いるパターンだ。典型的なのは「弱者」が持ち出され、「凶悪な外国人犯罪にお年寄りが狙われる」といった形を取りうる。逆に「戦争で苦しんでいる国の難民であれば受け入れるべき」とか「高齢者の介護に必要な労働力を海外から受け入れるべき」といったかたちで「弱者」が組み込まれるケースもありうる。だが、こういう主張は特にネットでは嫌われやすい。おそらく偽善的に感じられるのだろう。

 (3)は、自分だけではなく自分を含む集団の利益や好みが理由として持ち出されるということだ。たとえば、移民労働者は安い賃金で働くがゆえに仕事を奪う、あるいは平均賃金を引き下げる役割を果たすと見なされることが少なくない。そのため、「自分たちの権利を脅かす移民労働者には反対」という理由づけがなされる。逆に、「うちの会社で安くて優秀な労働力として使いたいから移民に賛成」という経営者目線の賛成論もありうるだろう。

 ただし、このような集団的な利益もまた「自分」が含まれるがゆえに既得権として攻撃されやすい。反対論に対しては「なんだかんだ言って今の自分の地位を脅かされるのが嫌なんでしょ?」「たまたま先進国に生まれただけで、なんで途上国の人たちよりもいい生活を送れると思っているわけ?」「途上国にはあなたよりも遥かに優秀なのに低賃金の人がいるですけど?」などと言われかねない。他方で、賛成論に対しては「お前の会社さえ儲かれば、移民のせいで他にどんな問題が起きても構わないというのか」などと言われることもありえるだろう。

 そこで持ち出されるのが(4)だ。つまり、国家全体の利害に格上げするのだ。「移民が来ると犯罪が増え、社会のマナーが悪くなる」「国家の文化的または言語的な一体性が失われる」「社会保障に依存する移民が現れる」等々。逆に「少子高齢化社会を支えるためには出生率の高い移民を受け入れるのが有効」「移民を受け入れることなくしては経済成長が損なわれる」「優秀な人材を世界中から集めることなくしては国家間競争に勝ち残れない」等々の理由付けも想定される。実際には国家のなかに自分自身も含まれるのだから(3)の亜種とも言えるが、一般的な水準にまで格上げされているので自己の利益とのつながりは見えづらくなる。

 この(4)の規模をさらに広げて、人類全体の利益を主張するという方向性もありうる。ただし、この場合には(2)との境界が曖昧になりやすい。そこまで規模を広げるからには自分以外の他者を気遣っていることを明示する必要があるからだ。たとえば「移民は途上国から優秀な人材を先進国へと流出させてしまうがゆえに、せっかく育成した人材を失うという点で途上国には大きなマイナス」といった理由付け、あるいは「どこに生まれようとも有能な人材なら大きな舞台で活躍の場を与えられるべき」といったかたちで、自分以外の利益が前面に出やすい。その分、説得力は失われがちになる。しかも、環境問題ならまだしも、それ以外の領域では人類全体の利益という発想自体に胡散臭さを感じる人は少なくないだろう。

国家の語りとシニシズム

 というわけで、(4)の水準での語り、つまり自分自身や自分が所属する集団の利害や好みはとりあえず明示しないままで、国家の利益という観点から理由付けを行う人が多いのではないかと思う。「私の主張は国益に合致している」というわけだ。

 もちろん、自分の主張に説得力を持たせるため、自己利益と主張の内容とを切り離すケースもありうるだろう。「私自身の利益には反するが、私は国益を優先させる」という主張だ。とはいえ、そういうケースよりも目立つのは、対立する主張が(1)や(3)でしかないことを強調することで、自分の主張が真に(4)の水準にあることを示すというやり方ではないだろうか。

 たとえば、移民反対派による「賛成派が移民に賛成するのは、何だかんだ言ってあいつらの儲けになるからであり、それに反対する私こそが本当に国益のことを考えていると言える」という語りがそれにあたる。他人が利己的であることを強調することで、本当に国益のことを考えているのは私(および私と同じ考え方をする人)だけということを暗黙のうちに示す手法だ。

 だが、異なる考え方をする人がそれぞれにこうした論法を用いるのなら、対話の糸口は見えづらくなる。「私たちは国益のことを真剣に考えているが、あいつらは自分たちの利益しか考えていない」とそれぞれが考えるという事態だ。上の移民反対派の主張に対し、移民賛成派が「反対派が移民に賛成するのは何だかんだ言って既得権益を守るためであり、私たちのように国家全体の利益を考えていない」と言い出せば、もはや泥仕合になるしかない。

 このように他人の(4)の水準での意見の背後につねに(1)や(3)、つまり個人や集団の利益を見出そうとする態度はシニシズム(冷笑主義)と呼ぶことができる。「なんか偉そうなことを言っているけど、要するに外国人が嫌いなだけでしょ?」「要するに移民で金儲けがしたいんでしょ?」というかたちで本人の主張とは別の水準での理由付けを読み取ろうとする態度だ。

 近年では政治学の分野でも、このシニシズムの問題がけっこう論じられている。つまり、政治家や官僚などの言葉に過剰に自己利益を読み込もうとする態度が蔓延しているのではないかというのだ。政治家や官僚が何を言おうとも「どうせ選挙での票目当てでしょ?」とか「省の権益を拡大させたいだけでしょ?」というかたちで解釈し直してしまう。もちろん、そういうケースもあるだろうが、そうでないケースもある(と思う)。

 いずれにせよ、このようなシニシズムの蔓延は政治不信を招き、投票率の低下や行政の非効率へと帰結する可能性が高い(不正使用を防止するための研究費の厳格なチェックが研究者に膨大な負担を強いることに示されるように、不信感に基づく制度設計は結果としてコストを増大させやすい)。

 このようなシニシズムの蔓延に大きな役割を果たしているのがマスメディアの報道だとも言われる。政局報道に見られるように、マスメディアは政治家や官僚の行動をシニカルに描き出すことで、彼らが自己利益の塊のようなイメージを人びとに植え付ける。ネットでは記者クラブ偏向報道に対するマスメディア批判は盛んだが、こうした観点からの批判は少ない。つまり、政治家や官僚は我欲の塊でしかないという見解についてはかなりのコンセンサスが存在してしまっている。

 だが、実際に政治家や官僚に接する機会を数多く有する記者の意識を調査すると、一般の人たちよりも政治をシニカルに眺める度合いは低いという皮肉な結果も存在している。このあたりに関心のある人は、読みやすい本ではないが、カペラ/ジェイミソンの『政治報道とシニシズム』(ミネルヴァ書房)を読むと良いのではないかと思う。

「それは私にとって都合が悪い」

 ただし、マスメディアの報道とは別の次元で、上で述べたような自己の主張の正当性を示すために他人の意見をシニカルに解釈するというタイプの語りも、シニシズムの拡大に一役買っているのではないだろうか。

 つまり、(1)や(3)のような部分利益の主張が許容されない一方、(2)や(5)の水準での語りが偽善的だとして否定され、結果として(4)の水準での語りだけが可能になるような状況下では、シニシズムの蔓延は避けられないように思う。すべてが(4)の水準での語りになってしまうと、本来はあってしかるべき他の水準での語りが(4)にまで流れこんでしまい、他者の主張への不信感だけが募るという不毛な事態になってしまうのではないかと思うのだ。

 自己や自己の集団の利益を語ることができず、何もかもが国家全体の利益を語る言説へと還元せざるをえないのであれば、そこには実質的に様々な自己利益が反映されていると見るのが自然だ。対立する相手が語る国家全体の利益をシニカルに解釈することも当たり前になる。

 だとすれば、(4)の水準での議論を有効にするためには、逆説的ではあるのだが自己や集団、他人の利益をもっと声高に主張できる風土が必要になるのかもしれない。「それは私にとって都合が悪い」ということをもっと素直に言えたほうが、結果として国益とは何かを率直に語り合える土壌を生み出せるのではないだろうか。

 もちろん「私は外国人が嫌いだ」という主張は差別的だし控えるべきだとは思う。しかし、「外国人が入ってくると私の雇用が脅かされるかもしれない」あるいは「外国人を雇用することで我が社の成長に繋げたい」といった主張をエゴとして片付けるのではなく、対立する部分利益の存在を明らかにしたうえで、それらをどう調整すべきかを考えたほうが建設的ではないかというようにも思う。