擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

朝日新聞問題に寄せて(追記あり)

慰安婦検証報道の問題点

 『朝日新聞』が大変なことになっている。

 8月5日、6日に行われた同紙の慰安婦報道の訂正に端を発して、他の新聞や週刊誌が激しく『朝日』を批判している。また、今年5月に『朝日』が報道した福島原発事故に関する「吉田調書」の報道をめぐっても、事故現場において命令違反があったとする同紙の解釈は誤りだという批判が起きている。

 きわめつけが、『朝日』は慰安婦報道に関して謝罪すべきだとした池上彰氏の原稿を同紙が掲載を拒否したという報道だ。最後の問題については、『朝日』の記者たちもツイッター上で自社の批判を行っており、同紙の隠蔽体質が改めて浮き彫りになったとも言える。

 慰安婦問題およびその報道については幾多の論点が存在し、それらをすべて網羅することは筆者の力量の及ぶところではない。ここでは主として『朝日』による検証報道に関する筆者の考えを述べておきたい。

 『朝日』に対する他のメディアによる批判がこれだけ熾烈に行われている一因としては、同紙の誤報やそれがもたらした影響のみならず、8月5日に行われた最初の検証報道において「他紙の報道は」という項目があったことがあるように思う。すでに多く指摘されているように、自らの誤りを報じるさいに「他のメディアもやっていた」というのでは、慰安婦問題に関して「悪いのは日本だけではない」という主張と論理のうえでは同じになってしまう。誤りを認めるのであれば、他のメディアの報道には一切言及せず、ただ自らの問題のみに視点を向けるべきだった。

 また、1997年3月に故・吉田清治氏による証言の真偽が確認できないという報道をしたといっても、その時点では氏の証言を取り上げた記事を取り消していないのだから、なぜ長期間にわたって誤報が放置されていたのかをきちんと検証しておくべきだった。吉田証言については、1990年代前半からすでに慰安婦の強制性を主張する研究者からも信憑性がないとする指摘が行われていた以上、怠慢という謗りは免れない。社内の認識や責任の所在なども検証したうえで、明確な謝罪をしておくべきだったと筆者は考える。

国益」とジャーナリズム

 他方で、今回の出来事をめぐって、『朝日新聞』は日本の国益を大きく毀損したのだから廃刊すべきだという声もある。筆者はそうした主張には賛同しない。国益を損なうというのは、言論を弾圧するための典型的な物言いにほかならないからだ。その意味では、朝日を廃刊にすべきという声がジャーナリストを自称する人物からも上がっていることには驚きを禁じ得ない。

 確かに、マスメディアに報道の自粛が求められる事態は存在する。進行中の誘拐事件に関する報道が典型的だが、それ以外でも戦地での自国軍の動向の詳細に報道することは、結果として自国軍を危機に陥れる可能性がある。あるいは、現地での情報提供者の氏名を報道することは、その人物の命を脅かしかねない。

 しかし、「国益」という曖昧な概念によってマスメディアの報道の抑制を求めることは、結果として言論の自由を大きく毀損することになる。国際関係論の分野でも国益という概念は、曖昧すぎるがゆえに分析概念としては使いづらくなっていると聞く。実際、国益といったところで、現政権の利益なのか、規制産業の利益なのか、特定の政治思想を抱く人びとの利益なのかが判然としない。一般国民の利益といったところで、その国民のなかに様々な利害対立があることを踏まえるならば、誰に意見を聞くかで国益のあり方は必然的に異なる。

 慰安婦問題に話を戻せば、慰安婦問題の論点は強制連行の有無のみと考える層と、より広範な人権問題として捉える層とでは、この問題をめぐる日本の国益は何かという判断は大きく分かれるだろう。筆者自身の観点からすれば、「強制連行は無かった」と殊更に言い募ることが日本の国際イメージをかえって毀損するという主張にはかなりの説得力がある。

 いずれにせよ、『朝日』の慰安婦報道が日本の国際イメージを悪化させる一要因となったとしても、そのこと自体は批判されるべきではない。直近の例で言えば、8月27日に『朝日』が報じた「A級戦犯らの法要に自民総裁名で哀悼メッセージ」というニュースは、またたく間に海外メディアでも広く報じられ、現政権が「右翼的」だとするイメージの補強に寄与したと言いうる。仮にこうした報道を控えることが求められるのだとすれば、その国の言論は末期的な状況だろう。『朝日』批判の文脈では何かといえば「日本人を貶めた」という表現が用いられているが、「国益」であれ「国際イメージ」であれ、報道がそれらを損なうか否かは結果論に属する話であり、それを恐れて報道が萎縮するというのではジャーナリズムの自殺である。

間違いを認めるジャーナリズムを

 それでは、今後において『朝日』はいかなる対応を取るべきなのか。同社の内部事情を知るわけでもない筆者の意見は思いつきの域を出ないが、二つほど提案をしてみたい。

 一つは、外部の有識者による第三者委員会を設立し、同紙の組織体制や報道を抜本的に見直すことだろう。その際には、1980年代以降の同紙の慰安婦報道のみならず、今年8月以降の検証報道も含めて再検証を行い、なぜ誤報の訂正が遅れたのか、池上氏の原稿を掲載しないという判断はどのように行われたのか、その責任の所在を明らかにするべきだ。そのうえで、遅きに失したことは否めないが、明確に謝罪をすべきだと考える。

 もう一つは、報道の訂正をより積極的に行う紙面作りを目指すことだ。速報性が求められる以上、マスメディアが何らかの間違いをおかすことは避けられない。『朝日』の誤報をあげつらっている『読売』にしても、今回の内閣改造人事をめぐって「小渕優子幹事長」の可能性を強調する報道を8月末から行ってきたが、結果として実現しなかった。「他紙よりも少し早いだけの『スクープ』」を競っているからこうしたことになるという指摘も可能だが、それを止めたとしても人間の営みである以上、誤りは避けられない。

 とりわけインターネットが普及している現在において、マスメディアの報道はつねに再検証の可能性にさらされており、かつて以上に誤報が発覚しやすくなっている。そうした状況下において、事実の唯一無二の伝達者としての立ち位置は維持できないし、それを試みるべきでもない。

 むしろ、現在のマスメディアに求められる資質は、間違いを積極的に認めることだろう。これまでも報道被害の問題に関連して、逮捕されたという事実だけが大々的に報道され、後に不起訴になったとしてもその事実は紙面の人目につきにくい箇所でひっそりと伝えられるために、報道対象の名誉を大きく傷つけてしまうといった指摘が行われてきた。そうした報道被害の問題も含め、自らの報道を積極的に再検証し、誤りがあれば臆せずにそれを認めることこそが、信頼性の確保という点でも有効だし、今後のマスメディアに求められる資質ではないかと考える。明白な間違いを認めないことは、間違いを素直に認めることよりも、長期的に見ればその人物や組織の信頼性を遥かに損なうことを肝に銘じるべきだ。

マスメディア全体の問題として

 この点を踏まえると、他の新聞や週刊誌が『朝日』の誤報のみを執拗に叩くことは、結果としていまのジャーナリズムそのものが抱える問題から目をそらすことになってしまう。先に述べたように『朝日』の姿勢に批判されるべき点は多々あれども、間違いを認めたという点では評価しなくてはならない。間違いを認めたことで激しい非難を浴びるという構造が生まれてしまえば、マスメディア全体の隠蔽体質はより一層深刻なものになるだろう。

 たとえば、『朝日』批判の急先鋒である『産経』はどうなのか。同紙が2011年3月に行った民主党辻元清美議員に関する中傷報道については、裁判によって同紙の敗訴が確定している。にもかかわらず、『産経』の紙面で謝罪が行われた形跡はなく*1、その報道を行った記者自身が『朝日』の誤報を激しく糾弾している記事を読むと、ジャーナリストとしての挟持がどこにあるのかを疑いたくなる。

 さらに、ネット上ではすでに広く知られているが、慰安婦問題については『産経』の元社長である故・鹿内信隆氏が『いま明かす戦後秘史』という著作のなかで軍の関与を明確に語っている。筆者は海外にいるために元の文献を直接に参照できないのが心苦しいのだが、鹿内氏は自身の陸軍経理学校での経験について以下のように述べたとされている。

鹿内 (略)それから、これなんかも軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地へ行きますとピー屋が…。
櫻田 そう、慰安所の開設。
鹿内 そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの、〝持ち時間〟 が、将校は何分、下士官は何分……といったことまで決めなければいけない(笑)。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。
(出典)櫻田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』上巻(サンケイ出版、1983年)pp.40-41。ただしここでの引用は、永井和「日本軍の慰安所政策について」より行った。

 自社の元社長がここまで明確に日本軍の慰安所への関与(しかも、「良き関与」とは到底考えづらい)を笑い混じりで語っているにもかかわらず、慰安婦の募集は民間の業者が行ったという理由で日本軍の免責を図る『産経』の論調は果たして正当化されるのだろうか。『朝日』の誤報を批判するのであれば、『産経』もまた自社の元社長の発言を踏まえた自社の報道の再検証を行うべきだろう。

 ともあれ、今回の『朝日』の問題を利用して『読売』の販売促進が行われているといった話を聞くにつけ、日本のジャーナリズムの将来を危惧せざるをえない。無論、マスメディア間の相互批判はもっと積極的に行われて良いと考えるが、それはあくまで商売抜きでやるべきだろう。

 全体としての新聞や雑誌の発行部数が減少し、今後の展望を描くことが困難な時代であるからこそ、他紙の失点に乗じて読者をかすめ取るといった後ろ向きの姿勢ではなく、ネット時代のあるべきジャーナリズムとはどのようなものかを探求する積極的な姿勢を見せてほしいと思う。

(追記)2014/9/3

 このエントリを書いて、しばらくしてから『朝日』が池上氏のコラムの掲載を発表し、翌日に掲載された。その内容はきわめて穏当なものであり、これが一度は掲載を拒否されたという事実は同紙の印象を更に悪くしたことは否めない。

 このコラムで池上氏は「新聞記者は、事実の前で謙虚になるべきです。過ちは潔く認め、謝罪する」と述べており、このエントリで述べていることと大枠で一致している。ただし、何が「事実」なのかは見る角度によっても変わってくることがある。端的な間違いは修正していく必要がある一方で、自らの当初の報道とは異なる角度から見た場合に見えてくる「事実」を浮かび上がらせる工夫があってもよいと思う。

 いずれにせよ、このような穏当な内容のコラムの掲載が見送られそうになったということは、やはり第三者の視点を入れたうえで同紙の意思決定過程のあり方の見直しを行ったほうが良いのではないだろうか。

*1:新聞データベースG-Searchを使用し、産経新聞における「辻元清美」氏に関する記事を検索したが、同紙が敗訴したという記事(2013年3月23日朝刊)はあったものの「当社の主張が認められなかったことは遺憾です。判決内容を検討し、今後の対応を考えます」というコメントがあっただけで、辻元氏に謝罪をしている記事は発見できなかった。