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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

コミュニティの幻影

コミュニケーション

 ぼくが大学生のときの話だ。

 サークルの練習を終えて大勢で帰宅している途中、同期の一人がいかにも深刻そうな顔をして歩いていた。「どうしようかな…」などとつぶやいている。

 そこで、ぼくは尋ねた。「どうした?」

 すると、その彼は烈火のごとく怒りだした。「お前に関係ないだろう!お前はいっつも人の事に口を突っ込みすぎなんだよ!」

 さすがに腹が立った。「人に理由を聞かれたくなかったら、人前で悩むな!」と怒鳴り返す。その後は周囲が止めに入って、とりあえず騒ぎは収まった。

 今にして思えば、彼の怒りはその時のやり取りに端を発したものではなかったのだろう。いかにも唐突過ぎたし、それ以前からぼくに対する不満があって、その時を機に爆発したのだろう。(後から聞いた話では、同期の女の子(美人)に告白され、付き合うかどうかを悩んでいたのだそうだ。むううぅぅぅううううぅぅぅ)
 もう一つ思うのは、この事例にかぎらず、ぼくは確かに他人のことに口を突っ込みすぎていたということだ。当時のぼくは東京流の人付き合いというものをまだ理解していなかったように思う。

 ぼくが生まれ育ったのは、いわゆる田舎ではない。首都圏ではないものの大都市の郊外である。とはいえ、東京と比較すれば、まだ田舎の要素が残っていた。ここで言う田舎の要素とはつまり、他人の私生活にわりと平気で干渉しようとする態度のことだ。プライバシーなる概念は希薄で、他人のことを平気で根掘り葉掘り尋ねる。そして、時に文句まで言う。「それは、あかんで」

 こういう他人への干渉は、人間関係が濃密な空間では必然的に発生する。ぼくの知人の女性は、高校のときにたまたま男の子と一緒に帰宅していたら、家に着いたときにはすでに母親がそのことを知っていたのだという。男の子と一緒にいるところを見かけた近所の人が、自転車を飛ばして「ご注進」に来てくれたのだという。

 それに対して、都市での人間関係はもっとスマートだ。ライフスタイルも多様だし、個々人の選択を尊重せざるをえない。他人の生き方について「それは、あかんで」と言ったところで、「事情を知らないやつの無責任な物言い」にしかならない。なので、それが迷惑にならない限りは、他人の生き方に口を挟まないようにするしかない。結婚するか否か、子どもを持つか否かも、口を出す連中は野暮だということになる。言い換えれば、特定の生き方をしない者ではなく、他人の生き方を尊重できない者こそが非難の対象となる。

 加えて、そのような傾向は歳を取るにしたがってさらに強くなっていく。歳を取ると必然的にそれぞれの浮き沈みが見えてくる。学生時代にはどこまでいっても「同じ学生」でしかなかったものが、うまくいっている奴、いっていない奴の違いがずっと際立ってくる。しかも、それぞれが抱える仕事や家庭の事情は複雑さを増す一方だ。

 なので、会話をするときにも、どこかで気を遣っている。学生時代のように遠慮無く相手に踏み込むことができず、薄皮を一枚隔てながら話すような感覚になる。実際、社会調査のデータからも、歳を取るほどに人は腹を割って話せなくなるという傾向を読み取ることができる。

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 だが、こうした状況に対して、どこかで寂しさを覚えることもある。他人の選択を尊重し、それに干渉しないというのは都市に生きる者のマナーではあるが、裏を返せば自分の悩みを率直に相談しにくいということも意味している。
 そこで、「コミュニティ」を求める衝動が出てくる。相互の無関心ではなく、助け合いによって支えられた共同体。SNSが普及した一つの理由も、コミュニティを求めるそうした心理にあると言える。高校や大学時代の人間関係が再構築され、そこで都市の寂しさを埋め合わせようとする。
 けれども、それでも私生活の深い部分にまで踏み込んだり、踏み込まれたりすることには抵抗がある。なので、フェイスブックには、子どもやペット、食い物やイベントの写真だけがただただ溢れる。匿名掲示板やはてなのアノニマスダイアリーで見ず知らずの他人に極めてプライベートな悩みを告白するひとがいるのも、周囲の人にはそれを相談できないことに起因しているのだろう。
 しかし、本物のコミュニティが存続している田舎に舞い戻ったとして、多くの都会人にはやはり耐えられないだろう。助け合いというコインの裏には、つねに私生活への相互干渉、多様性の否認が刻まれている。
 結局のところ、人はわがままな生物なのだと思う。コミュニティがあるところではその息苦しさを訴え、それが欠如しているところでは孤独に苛まれる。しかし、都市化の趨勢が止まらないことを考えると、多くの人はコミュニティの存続よりも欠如を選択しているのだろう*1。
 これからもネット上では、寂しさを埋め合わせるためのサービスが展開されていくに違いない。アメリカではご近所の人だけが加入できるSNSNextdoor」が人気を集めているのだという。これもまた失われたコミュニティを復活させるための一つのサービスだ。しかし、いくらSNSが発達したところで、上で述べた本質的なジレンマからは逃れられない。ただただ、コミュニティの幻影を追い求める衝動が存在するだけである。

*1 もちろん、都市化の進行にはもっと重要な要因が存在するが、都市の自由への憧れもまた多くの人がそこを目指す要因として働いてきたのではなかろうか。