擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「悪い変化」は海の向こうからやって来る

 当たり前の話だが、社会というものは変化していく。日々の生活や仕事は時代と共に変わっていくし、犯罪が増えたり減ったりする。男性が草食系になったり、女性が肉食系になったりすることもあるかもしれない。少しずつ変わっていくこともあれば、急にガラリと変わってしまうこともある。

 そうした社会の変化を、人びとは歓迎することもあるが反発することもある。変化に対する反応の違いを考えるうえで、それが「外からやってきた変化」と見なされているのか、それとも「内から生じた変化」と捉えられているのかを見ることは有用だ。要するに、外からやってきた変化と見なされるものには反発が生じやすいのに対して、内から生じた変化と見なされるものには反発はそれほど強く生じないということだ。

 なぜそうなるかと言えば、もちろん外からやってきた変化は「我々に押しつけられた変化」だと見なされやすいからだ。それに対して、内から生じた変化は「我々が自分たちで選びとった変化」だと受け止められやすい。いくら好ましい変化であったとしても、外部から強制された変化にはどうしても抵抗が生じがちになる。

 ただし、実際には外からやってきた変化というのは、「悪い変化」だと見なされやすい。もっと言えば、悪い変化を外からやってきた変化にしてしまうということも起きる。実際、性道徳の乱れや犯罪の増加を海外からの悪しき影響のせいにしてしまう言説は枚挙に暇がない。たとえば、イギリスでは社会風俗の悪化はたいていオランダからやって来ると言われたりするのだという。裏返せば、「好ましい変化」についてはあくまで内から生じた変化として語りたいという欲望も存在している。

 ここで明らかになるのは、社会の変化が果たして外からやってきた変化なのか、それとも内から生じた変化なのかは、必ずしも自明ではないということだ。性道徳や犯罪の例で言うと、社会のなかで悪い変化が生じたときにそれを外部からの影響のせいにしてしまえば、「自分たちの社会は本来的には良い社会である」というイメージを守ることができる。社会にいま問題が起きているのはあくまで外部からの影響が悪いのであって、それさえ排除してしまえば社会は良くなるはずだという論理だ。このように、変化が外からやってきたのか、それとも内から生じたのかという判断は、それ自体でイデオロギー的な側面を有している。

 典型的なのが日本国憲法をめぐる対立だろう。戦後の憲法の悪しき側面を重視する人たちは、それが外からやってきた変化であることを強調したがる。いわゆる「押しつけ憲法論」だ。他方、現行憲法の肯定的な側面を見る人たちは芦田修正などを通じて日本人の意志はそこに反映されていると言ったりする。あるいは、ジョン・ダワーのように日本人は「敗北を抱きしめ」、新憲法を自ら受け入れたのだと言ってしまうかもしれない。つまり、現行憲法による社会の変化を内から生じた変化に近づけて解釈しようとするわけだ。

 ここから派生して、現代社会で広く受け入れられている慣習を批判するために、それが外からやってきた変化だということを強調するレトリックが用いられることがある。たとえば、戦後、日本人の食生活が欧米化してきたことは否定できないが、その悪しき側面を非難するために、それが外からやってきた変化、あるいは押しつけられた変化であることを改めて強調するわけだ。要は、パン食や牛乳が日本で普及したのは「アメリカの陰謀」なのだから、それを修正していくべきだとかそういう話である(かなり古い話ではあるが、ここで紹介されているマンガが面白い)(1)。

 他の例としては、時期は逸してしまったが、日本のテレビで放送される韓流ドラマへの反発を挙げることができる。普通に考えれば、韓流ドラマが増えたのはそれが「安く購入できて、それなりに視聴率が稼げるコンテンツ」だったからだろう。言わば、日本のテレビ局の主体的な判断として韓流ドラマは放送されていた。ところが、韓流ドラマに強く反発する層はそうした解釈では飽き足らない。韓流ドラマが増えたのは「在日に支配された広告代理店のせいである」といった解釈を持ち出すことで、韓流ドラマの増加を外からやってきた変化、もしくは押しつけられた変化へと位置づけ直し、それに対する反感をさらに煽ろうとしたわけだ。

 もっとも、ここで面白いのは、外からやってきた変化であれば常に反発されるとは限らないということだ。それどころか、外からやってきた変化であることを強調して、自分たち自身が推進する方針や政策の正当化が試みられることがある。それが、「ガイアツ(外圧)」の利用だ。

 つまり、日本の政治家や官僚が言うと角が立ち、反発されることであっても、アメリカが言っていることなら仕方がないということで正当化が可能になることがありうる(2)。あるいは、「海外ではこれが常識」だというかたちで変化が促されることもある。その「常識」が、自分たちの主張に合致するように解釈されたものである可能性はかなり高い。

 おそらく、とりわけ戦後の日本では、外からやってきた変化への反発と、こうしたガイアツに対する甘受とがかなり入り組んだ形で混在してきたのだろう。そのような反発と甘受との関係について、もう少し調べてみたいような気もする。

脚注

(1) そうした主張において(あえて?)見落とされているのは、政策的な後押しがあったかもしれないが、実際にそれを受け入れたのは日本人自身だという事実だ。いくら政策やプロパガンダが特定の食品をゴリ押ししたところで、それが日本人の舌にまったく合わなければ普及するとは考えづらい。陰謀史観において、操作の対象とされる人の主体性が全く無視されるのか前に述べたとおり。
(2) しかし、こうしたガイアツの利用は、短期的に見れば成果を上げることができるかもしれないが、長期的に見れば不満を蓄積させていく。ガイアツに逆らうことができないというフラストレーションは、やがてより過激なナショナリズムの温床になる。