擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

批判と陰謀論のあいだ

 陰謀論とは何か。簡単に言えば「世の中を陰で操っている組織が存在している」という主張だ。こう書くと極端な妄想のようにも聞こえるが、ネット内にはライトな陰謀論からヘビーな陰謀論まで数多く存在している。

 たとえば、「在日コリアンは電通を通じて日本のマスコミをコントロールしている」といったヘビーなものや、そこまで行かずとも「マスコミが寄ってたかって○○を失脚させようとしている」というのもライトな陰謀論として挙げることができる。2ちゃんねるのまとめサイトでいかにも事情通っぽい人が語る陰謀がときどき注目を集めるが(やたら草を生やす人)、あれもまあ陰謀論の一種だ。

 陰謀論はネタとして消費されているのだから問題ないのだ、という人もいる。が、陰謀論は往々にして差別を助長するし、放置しておくことは好ましくない。そこで、このエントリでは、陰謀論とはどういうものかについて考えてみたい。

 もっとも、陰謀論を槍玉に挙げるからといって、陰謀なるものが世の中に存在しないということを言いたいわけではない。特に、プロパガンダや世論操作なども陰謀に含めるのなら、陰謀に従事する組織はたくさん実在しているとも言える。そのようなプロパガンダや世論操作を検証し、批判することはとても大切だ。

 それでは、どこまでが適切な批判で、どこからが陰謀論になってしまうのだろうか。結論から先に言えば、ここまでが適切な批判で、ここからが陰謀論というような明確な境界線はおそらく存在しない。批判を突き詰めると、知らず知らずのうちに陰謀論へと近づいていくことは少なくない。

 とはいえ、批判と陰謀論との区别に意味がないかと言えば、やはりそうでもない。どう考えてもおかしな陰謀論というものは存在する。そこで以下では、典型的な陰謀論の特徴をいくつか紹介してみたい。

陰謀論の特徴

(1)世界は悪意に動かされているという世界観

 陰謀論の基本的な特徴の一つは、世界は悪しき陰謀を持った集団(ユダヤ人、フリーメーソン、在日コリアンイルミナティコミンテルン、etc.)によって動かされていると想定していることにある。たとえば、第二次世界大戦時の日本はコミンテルンによって操られていたと主張する人は少なくない。某ホテルグループの論文コンクールで賞を取ったあの人とか。

 このような主張をするからには、陰謀を仕掛ける側はものすごい力を持っているということが前提になる。敵の力が強大であればあるほど、陰謀論は盛り上がる。実際、ナチスはユダヤ人を迫害したさい、ユダヤ人がどれだけ世界に大きな影響を与えてきたのかという、そこだけ見ればあたかもユダヤ人を礼賛しているかのような表すら作成したのだという。

 逆に、陰謀論の見方からすれば、陰謀を仕掛けられる側はただただ受動的な被害者ということになる。要するに、この手の陰謀論が発生するのは、陰謀を仕掛けられたとされる側の「責任」や「主体性」を否定したいときだということになる。戦前の日本政府や軍部がコミンテルンに騙された被害者なのだとすれば、その責任を問うことも無意味になる。

 あるいは、戦後の日本社会のあり方を論じるとき、やたらとGHQの影響力を持ち出す人がいる。そうした論者は、戦前の日本社会を高く評価する一方、戦後の日本社会は否定的に捉える傾向が強い。しかし、仮に日本人自身が戦後の社会を主体的に受け入れたのだとすれば、そうした論者が称揚する戦前の日本社会の正当性は大きく損なわれてしまう。実際に当時を生きていた人たち自身がその社会を否定したということなのだから。そこで、戦後の日本社会が駄目になったのは(そもそも本当に駄目になったのかということからして疑問だが)、日本人自身のせいというよりも、GHQのせいなのだという論理が持ち出される。つまり、GHQの操作の影響力を過剰に強調することは、戦前社会の日本を正当化するために必要なステップなのだ。

(2)陰謀に忠実に動く人たち

 陰謀論の大前提は、その陰謀通りに人びとが操作され、都合よく動くということである。とりわけ世界を動かすような陰謀であれば、膨大な数の人たちがその陰謀通りに動く必要がある。

 だが、実際には、人間はそんなに簡単に操作されたり、陰謀に素直に加担するわけではない。最近、アメリカでも政府機関による情報収集活動の実態が暴露されているが、陰謀の内幕に関わる人が増えるほどそうしたリスクは増大する。

 このあたり、特にネットの陰謀論は非常にずさんな推論を重ねていく。たとえば、こんな感じだ。「Aという人物はかつて数年間だけBという会社に勤めていた→Bという会社はCという会社の子会社である→AはCの手先である」みたいな論理を展開してしまう。要はネットでかき集めた情報の断片をもとにテキトーな物語をでっち上げるのだ。この話の場合、一番目と二番目は事実であるがゆえに、三番目の憶測までもが事実であるかのような印象を与える。よく考えてみれば、この関係だけでCがAの手先として動いていると想定するのは相当に無理があるのだが、とにかくそういう物語をつくってしまう。

(3)単純化された因果関係、過剰な意図の読み込み

 物事というのは、たいてい複数の要因が絡まり合って発生する。しかも、偶然とか手違いとか、そういうものが積み重なって起きることも少なくない。ところが、陰謀論はそういった出来事の背後に特定集団の「意思」(それも悪意)を過剰に見出す。そうした世界観は非常に明快であるがゆえに何かを「理解したつもり」にさせてしまう。

 あるいは、単なる手続き的なものに悪意の存在が見出されることも少なくない。典型的には、役所が何らかの決定をしたさいに、それがこれまで通りの慣習や手続きに従ったものであるにもかかわらず、何らかの悪意や意図に基づく決定であるかのように語ってしまうケースがそれにあたる。

(4)マスメディアの影響力の過大視

 これまでの話とも重複するのだが、陰謀論においてはマスメディアの影響が過大視されることが多い。陰謀論では「自分たちは正しいが、世間は間違っている」というのが基本的な前提になっている。そして、世間がなぜ間違っているのかと言えば、マスメディアによって「洗脳」されているからだという話になる。「われわれが大好きな政治家である○○が世間から評価されないのは、マスゴミが悪いからだ」というのは陰謀論手前の発想だ。

陰謀論者たちは、自分の主張が認められないのは、それがまちがっていたり、論評に値しないからではなく、大衆が陰謀に洗脳されているからであり、真実を見抜いたがゆえに陰謀勢力に弾圧を受けているからだ、と考える
(出典)辻隆太朗(2012)『世界の陰謀論を読み解く』講談社現代新書、p.258。

 しかし、マスメディアの効果研究が明らかにしてきたことは、マスメディアには人々の思想や感情を自在にコントロールしたりすることは難しいということだ。何だかんだ言って、報道の自由が認められている国ではマスメディアには様々な立場の違いがあるし、何らかの統一された意思のもとに行動していると考えることにはほとんど根拠がない(1)。他方で、往々にして人々はマスメディアに批判的に接しているし、特にマスメディアが自分とは違う意見を流しているときにはそれに強く反発する(2)。

 そもそも多くの人は「自分はマスメディアの影響をあまり受けないが、他人はマスメディアの影響を受けやすい」と考える傾向にある(第三者効果)。陰謀論者はこの第三者効果丸出しで、マスメディアの嘘を見抜く力をもつ自分、それを持たないがゆえに騙される大衆という構図を頻繁に用いる。ネットでは「いまだにテレビを信じている情弱」というような言い方をする人が少なくないが、典型的な第三者効果と言えるだろう。

 もう一つ言うと、政治的なイデオロギーを強く持っている人は、マスメディアが自分とは異なる方向に偏向していると考える傾向にある(敵対的メディア認知)。たとえば、同じテレビ番組を見ていても、イスラエル支持の人は「アラブ寄りだ」と見なし、アラブ支持の人は「イスラエル寄りだ」と見なしたという調査結果がある。そういう認識に基づくと、世の中のマスメディアの多くは自分とは異なる方向に傾斜していると考えるがちになるので、マスメディア陰謀論にやすやすと乗っかってしまう。とりわけ、ネットが普及してからは、マスメディア報道を見ることもせずに「マスメディアは○○を報道しない」などと言ってしまう人が数多くいるので、マスメディア陰謀論はますます支持を集めやすくなっていると言えるかもしれない。

(5)自分の意見に対する懐疑の欠如

 このエントリの最初で挙げた「批判」と「陰謀論」の違いがもっとも現れるのは、「自分の意見がもしかすると間違っているかもしれない」という留保があるかどうかだ。プロパガンダや世論操作というものは、それが実際にどこまで効果を発揮するか否かは別として、たしかに存在する。なので、流れてくる情報を何でもかんでも鵜呑みにしたりする態度はやはり好ましくない。それらの情報のウラを考えてみることは必要だ。

 ただし、そこで重要なのは、もしかしたら自分の解釈は間違えているかもしれないということを常に念頭に置いておくことだ。陰謀論たちは自分の解釈に対する疑いを持たない。自分の解釈に対する批判はすべて「陰謀の手先」か「陰謀に騙されている者」によるものだと切り捨ててしまう。

陰謀論者にとって:引用者)自己の枠組みが正しいことはあらかじめ決定しており、したがって自説の傍証となる情報は、実際の事実がどうであるかに関心が払われることもなく、真実として無批判に受容される。たとえ個々の問題についてどれほど事実誤認が指摘されても、あらかじめ正しいことが決定している枠組みは揺るがない。
(出典)辻隆太朗(2012)『世界の陰謀論を読み解く』講談社現代新書、p.268。

 これだけ膨大な情報が流通している以上、どんな人であっても騙されたり、間違えたりすることは不可避的に生じる。とりわけ自分が信じたい情報や面白いと思える情報が流れてきたときには油断しがちだ。ネットでは何かに釣られたことをもってその人の人格や知性が全否定されたりすることが多いが、間違えること自体は避けられない。したがって重要なのは、間違えたと思ったときには素直にそれを認めることであり、他人が間違えたことをもって過剰にそれを攻撃しない態度だろう。いや、それが非常に難しいことはわかってますってば。

 というわけで、陰謀論とは何かについて述べてきた。冒頭でも書いた通り、ネットでは様々な陰謀論が蔓延している。そういう陰謀論の世界に入り込むと、抜け出すことは容易ではない…って、これ自体が一種の第三者効果だな、これ。というか、ここまで書いてきて自分で気づいてしまった。このエントリ自体、第三者効果丸出しじゃないか!!!

 でもまあ、そういう自己懐疑の姿勢が必要なんだってことで、なんとかまとめたい。あと、本エントリを書く際に参照した、辻隆太朗(2012)『世界の陰謀論を読み解く』(講談社現代新書)はわりといい本じゃないかと思う。

 最後に。定期的にこのブロクを読んでいる人が果たして存在するのかは甚だ疑問ではあるのだが、1週間ほど更新を停止します。それでは~。

脚注

(1)ただし、再販制度問題のような業界の利益に関することについては、右から左まで綺麗に足並みを揃えているような印象も受ける。

(2)たとえば麻生さんの失言問題について考えると、麻生さんをもともと支持している人たちは、一連の報道に接したとしてもマスメディアの誤報または過剰反応だと解釈する傾向が強いだろう。逆に、麻生さんにもともと批判的な人たちは、麻生さんは少なくとも部分的にはナチスに学ぶところがあると考えていたと解釈する傾向が強いと考えられる。したがって、麻生さんの失言をどう解釈するかは、もとから彼らが持っていた政治的先有傾向の反映にすぎず、一連の報道が麻生さんに対する評価を変えることにはならない可能性が高い。
とはいえ、麻生さんに関してこれまで特段に意見を持っていなかった層については、今回の失言問題でネガティブな印象を与えた可能性もある。それまで先有傾向のなかった問題に関して新たに意見がつくられる際にはマスメディアが大きな影響力を発揮するケースはありうるからだ。
その場合、マスメディアが失言問題を大きく取り上げれば取り上げるほど、この問題は重要だという社会的認知が高まる(アジェンダ設定)。そして、麻生さんに対して新たに否定的イメージを抱くようになった人は、アジェンダ設定が進むほどに、麻生さんや安倍内閣への支持を低下させるかもしれない。
言うまでもなく、以上の記述は既存の理論から推定されたものでしかなく、一連の報道が実際にいかなる影響を与えたのかは実証的な調査をしない限り明らかにはならない。