何が差別語であるかを決めるのか
今朝のメトロの一面は差別表現に関する記事だった。
イギリスのキャメロン首相が、サッカーチームのTottenham Hotspurのサポーターは”Yids”という言葉を使っても良いのではないかとコメントしたという内容だ。”Yids”というのは、ユダヤ人のことを指すが、発音の仕方によっては差別表現にもなりうるらしい。
ここで問題となっているのは、”Yids”がTottenham Hotspurのサポーター自身を指す言葉として用いられているということだ。キャメロン首相は「自己をYidsと呼ぶことと、別の誰かを侮蔑する表現としてYidsを用いることとは違う」として、その使用を肯定したわけだ。他方で、サッカー連盟はその使用を禁止したいようだが。
この”Yids”に関して、上のリンクにはないけど、メトロの記事で紹介されているユダヤ人のコメントが興味深い。「ユダヤ人として、私はこの言葉がつねに力を与えてくれるものだと思っている。われわれはこの言葉を肯定的なものへと変えてきた」実際、差別されている側が差別的な呼称の意味を読み替えて、誇りをもってそれを使うようになるケースは他にもある。
そもそも、言葉の意味は流動的なので、最初は差別語ではなかったものが差別的な意図をもって使われるようになるケースもあれば、このケースのように差別語だったものが差別される側に積極的に使われるようになるケースもある。
問題がさらに難しくなるのは、言葉の意味の読み替えが一斉に起きるとは限らないということだ。”Yids”をポジティブに受け止める人がいる一方で、依然として差別表現として受け入れる人もいるだろう。他方で、使っている本人に差別的な意図はなかったとしても、それを聞く側にはそう受け取られる可能性もある。
なので、差別語に関して語源にまで遡って「もともとは差別語じゃない」などと使用を正当化することはほとんど無意味だ。ぼくが「支那」という言葉を使いたくないのは、どう考えても差別的な文脈でそれを使う人が多いからであって語源は関係ない。Chinaと「支那」はもう別の言葉として考えたほうが良いだろう。
結局のところ、全ては文脈に沿って判断していくしかないということなのだろう。むろん、文脈に依存するからといって、差別表現を野放しにするのはやはり良くない。法規制するかどうかは措くとしても、たとえば”Jap”という言葉を差別的な文脈で使う人は批判されてしかるべきだ。
つまんないけど、こういう結論にしかならないと思う。