擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

モラル・パニック批判の「危うさ」(2)

 さて、前回の続きである。今回はえらく抽象的な話だ。

 以前のエントリでも書いたように、モラル・パニックとは、実際にはそれほど重要ではないとされる出来事に関して、マスメディアが大騒ぎし、そこに専門家や政治家が介入して社会問題になってしまうという現象を指す。

 しかし、このモラル・パニックという概念には数多くの批判が寄せられている。その批判は、内在的な批判(概念そのものが孕む危うさに関する批判)と外在的批判(時代の変化によって概念の有効性が失われてしまったとする批判)とに分けられるのだが、ここでは内在的批判を紹介することにしたい*1。

 まず一つは、モラル・パニック概念は非常にイデオロギー的なのではないか、という批判だ*2。つまり、モラル・パニックとして言及される現象は、特定の立場からの問題提起によるものがほとんどであり、それと対立する立場からの問題提起がモラル・パニックと呼ばれることはほとんどない、というのだ。

 分かりにくいので乱暴に言えば、右派の問題提起(犯罪の増加、失業保険の不正受給など)はしばしばモラル・パニックとして批判的に論じられるのに対して、左派の問題提起(差別問題や警察官の職権乱用など)がモラル・パニックとして名指しされることはほとんどない。モラル・パニックという概念を価値中立的に捉えるならば、人種差別や性差別にしても「実際にはたいしたことのない問題である」可能性も検討しなくてはならない。モラル・パニック研究においてそのような可能性がほとんど検討されないのは、この概念そのものが党派的な攻撃の道具でしかないことを意味している、との批判だ。

 そして、もう一つのより重要な批判が、モラル・パニック概念に内在する「不均衡性」という想定に関するものだ。モラル・パニック批判では、問題の実際の程度とそれに対する反応の大きさとが「不均衡」だという論理構成を取ることが多い。しかし、前回でも述べたように、ある問題に対してその対応策が「過剰である」または「適正である」という客観的な価値基準を設定し、それによって人びとを説得することは果たして可能だろうか?人によっては「まあ、それぐらいは仕方ないでしょ」と看過できるリスクであったとしても、別の人が「絶対に嫌だ」という拒絶反応を引き起こしうることは、福島原発事故への反応を見ていればよくわかるだろう。

「『マギング』(暴力的な路上強盗のこと:引用者)がしばしば想定されるよりもずっと深刻度の低い犯罪であるという結論に対する反論は、そうした結論が何が「深刻」または「軽度」なのかという法的な定義と、より幅広い社会的・倫理的考察とを混同しているというものである。…若い男性にとってはささいなことと考えられうる傷害も、年配の女性にとっては痛ましいものとなりうるである。」
(出典)Waddington(1986)p.255。

 もっとも、過去や他の社会との比較によって、その反応の大きさを相対的に評価することはできるかもしれない。たとえば、日本における凶悪な少年犯罪に関して、過去との比較では発生件数が減少しているにもかかわらず、マスメディアの集中的な報道が厳罰化の後押しをしたというモラル・パニック批判がある。

 しかし、この論理が成り立つためには、少年犯罪とそれによって生じる被害に関する社会的価値観が過去と現在とで同一であるべきだという前提が存在しなくてはならない。この前提に沿うならば、かつてであれば問題とされなかったような家庭内暴力や差別に多くの人びとが注目するようになることも、過剰反応として位置づけられることになりかねない。少年犯罪が減っていたとしても、社会の側がそれにより敏感になっているのだとすれば、そのこと自体を責めることはできない。

 また、「被害のより深刻な外国ではさほど問題視されていないのに、被害の軽微な我が国では大問題となっている」というような形で他国との比較に基づく「不均衡性」を主張しようとしても、それぞれの国において価値観が同一でなくてはならないとの前提に立たざるをえなくなってしまう。たとえば、別の国からすれば全く些細な問題でしかない行動が他国ではきわめて重大な犯罪と見なされることは往々にある。そのような価値観の違いを踏まえると、他国との比較でモラル・パニックか否かを決めることは無理筋だ。

 このような不均衡性の問題を突いた批判と類似した議論を展開したのが、以前のエントリでも紹介した左派リアリズムの犯罪学だ。そもそも「パニック」という言葉は、社会問題に直面している人びとの非合理性を暗示している。つまり、不安を実際に感じている人びとの訴えに真摯に耳を傾けるのではなく、それを単なる誤謬として切り捨ててしまっているというわけだ。

 左派リアリズムの立場からすれば、モラル・パニック概念は、人びとの犯罪不安やそれに起因する対応を非合理的で過剰なものと決めつけてしまう結果、犯罪自体を問題視するのではなく、犯罪不安の鎮静化という誤った課題を浮上させてしまうということになる。実際、犯罪に対して深刻な恐れを抱いている人びとに対し、彼らの犯罪不安が犯罪に遭遇するリスクに比べて過剰であると指摘することは何の慰めにもならないとの指摘もある*3。

 他方で、これと大きく異なる立場からのモラル・パニック概念に対する内在的批判も存在している。社会的構築主義の立場からの批判だ。よく知られているように、社会的構築主義の視座からの社会問題研究は、客観的に存在する所与の現象として社会問題を分析するのではなく、それが社会問題としてマスメディアや関係団体などによって「構築」されていく過程を分析対象とする。

 したがって、この立場からすれば「治安の悪化」も構築された社会問題にすぎないということになり、モラル・パニック論の視座とも合致する。ただし、社会的構築主義の論者のなかでも「厳格派」と呼ばれる立場からすれば、研究者は治安が実際に悪化しているか否かを語る資格を持たない*4。なぜなら、社会問題を構築する人びとに比べて、社会問題の研究者がより客観的で妥当な現実認識をなしうる根拠はどこにもないからである。こうした立場に立脚するならば、実際の問題の程度とそれに対する社会的反応の過剰さ(不均衡性)を問題視するモラル・パニック概念は根底から覆されることになってしまう。

 以上のように、モラル・パニック概念にはどうにも危うさが存在する。しかし、前のエントリでも述べたように、モラル・パニック概念には確かに面白さがある。それは世間的には「常識」とされてきたこと(たとえば治安の悪化)が実際には虚像に過ぎないという驚きを与えてくれるからだ。厳格派の社会的構築主義からすれば「真実暴露」として否定される行為であるが、そうした面白さはやはり捨てがたいと思う。

 それでは、上記の批判を踏まえたうえでモラル・パニック概念を維持するためには何が必要か。まず、この概念のイデオロギー性に関する批判については受け入れるほかない。つまり、犯罪不安の拡大や生活保護の不正受給をモラル・パニックと結びつけて論じるのであれば、たとえばブラック企業の蔓延、貧困の増大、特定集団に関する差別の広がりもまたモラル・パニックである可能性を認めなくてはならない(あくまで可能性として認めるだけの話であって、検証するまではモラル・パニックだと認める必要はない)。

 そして、もう一つ必要になるのが、不均衡性という想定を放棄することだ。それでは、不均衡性の想定を放棄したときに、いかなる根拠をもってある現象をモラル・パニックと名付けることができるのか。その根拠は、社会的・道徳的な秩序への脅威と見なされる集団やそのふるまいに関する描写や情報に明確な誤りが含まれており、問題の提起にとってその誤謬が重要な意味を有しているという点に求められるだろう。凶悪な少年犯罪が実際には減少しているにもかかわらず、それが「急増」していると報じられ、その報道を根拠として対処が行われるばあいには、モラル・パニックが発生していると判断することができる。

 そしてそれは、先に触れた厳格派の社会的構築主義とは一線を画するということを意味する。つまり、ある事象をモラル・パニックとして分析するにあたり、それに参加している人びとよりも研究者は妥当性の高い現実認識を行えるという立場をとるということである。逆に言えば、そのような立場をとらない限り、モラル・パニック概念は維持できない。

 というわけで、モラル・パニック概念を維持するうえで何が必要なのかを考えてきた。しかし、前回のエントリで述べたように、モラル・パニック概念を駆使したところで、人びとの不安を軽減することには寄与できるとは限らない。研究者が分析のさいに用いる概念としては有用だとしても、何らかの実践的な効果を常に期待できるわけではない。

 無論、そういった啓蒙的な努力が必要であることは論を待たない。だが、近年のパニック研究によれば、何かをきっかけとしてパニックが発生する場合には、より幅広い社会不安が存在しているのだという(逆に言えば、そういう不安が希薄な場合には、マスメディアが多少煽ったところでパニックは発生しない。余裕があるほど、人びとはマスメディアの言うことを鵜呑みにはしなくなる)。

 したがって、モラル・パニックをより深く理解するためには、個別具体的なケースのみならず、より幅広い社会状況にも目を向ける必要があると言えるだろう。

 というところで、なんか論文調になってしまったが、モラル・パニック概念についてはここまで。最後は「社会不安と向き合う」みたいなえらく漠然とした話になってしまった。

 どうやって?という話にもなるだろうが、方向性の一つはやはり不安の対象そのものを正面から捉えることではないだろうか。犯罪については、犯罪不安のみならず、犯罪についてもきちんと考える必要があるということだし、若者バッシングのみならず若者についても目を向ける必要がある。放射線被害に関しても、「放射脳」と呼ばれる人たちを嘲笑するだけの人たちよりも、現場で地道に放射線を測定している人たちのほうがずっと不安の解消に貢献しているのではないだろうか。

 最後に。犯罪不安については男性よりも女性のほうが強く感じるという調査結果は多い。それは、日常的に女性が犯罪(性犯罪など)に遭遇する機会を男性よりも多く有していることに起因するように思われる。しかも、そうした犯罪は非常に暗数が多く、犯罪統計にはそのまま反映されない。この点を踏まえるなら、犯罪不安をモラル・パニックとして切り捨てること自体にジェンダー・バイアスがかかっている可能性も否定できないのではないだろうか。

 あー、なんかまとまりのないエントリになったけど、本当にこれで終わり。しかし、最後まで読んだ人いるのかね、これ。

(追記)2013/7/17

要するに、モラル・パニック批判の問題は、どうにも「上から目線」になってしまいがちだということなんだと思う。実際、「統計的データからすれば裏付けのないことでガタガタ騒ぎやがって、このバカどもが!」という印象を受けることが多々ある。本論の趣旨からすれば「騒ぐ」こと自体は個々の価値観の問題なのでそこを批判しても仕方がなく、騒ぎの根拠とされている情報に過ちがあればそれを淡々と指摘していくしかないということになると思う。


*1 外在的批判については、McRobbie and Thornton(1995)、Unger (2001)を参照のこと。
*2 以下のモラル・パニック概念に関する内在的批判をもっとも明確に展開したのが、Waddington(1986)である。
*3  Lee(2007)。
*4 こうした問題がより顕在化しやすいのは自然科学的な問題に関するモラル・パニックである。たとえば放射線被害に関して、放射線医学のトレーニングを受けたわけでもない社会学者やメディア研究者が何の資格があってそれをモラル・パニックであると断ずることができるのかという話になる。

(参考文献)
中河伸俊(1999)『社会問題の社会学』世界思想社。
浜井浩一芹沢一也(2006)『犯罪不安社会』光文社新書
Carrabine, E. (2008) Crime, Culture and the Media, Cambridge: Polity Press.
Cohen, S. (2002) Folk Devils and Moral Panics (3rd Edition), London: Routledge.
Critcher, C. (2003) Moral Panics and the Media, Buckingham: Open University Press.
Goode, E. and Ben-Yehuda, N. (1994) Moral Panics, Oxford: Blackwell.
Hall, S. et al. (1978) Policing the Crisis, London: Palgrave Macmillan.
Lee, M. (2007) Inventing Fear of Crime, Cullompton: Willan Publishing.
McRobbie, A. And Thornton, S. L. (1995) ‘Rethinking “moral panic” for multi-mediated social worlds’, British Journal of Sociology, vol. 46(4), pp. 559- 574.
Sparks, R. (1981) ‘Surveys of victimization’, in M. Tonry and N. Morris (eds.) Crime and Justice Reviewed (Vol.3), Chicago: Chicago University Press, pp.1-58.
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Thompson, K. (1998) Moral Panics, London: Routledge.
Ungar, S.(2001) ‘Moral panic versus the risk society’, British Journal of Sociology, vol. 52(2), pp.271-291.
Waddington, P. A. J. (1986)‘Mugging as a moral panic’, British Journal of Sociology, vol. 37(2), pp. 245-259.
Young, J. (1988)‘Radical criminology in Britain’, British Journal of Criminology, vol. 28(2), pp. 159-183.
――― (2007) ‘Slipping away’, in D. Downes et al. (eds.) Crime, Social Control and Human Rights, Cullompton: Willan Publishing, pp.53-65.