擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

英語を話したくなくなるとき

(ツイートのまとめ+加筆)

 英会話というのは、机の上の勉強というよりも、スポーツに近い部分がある。いくら理屈を勉強したところで、実際に繰り返し何度もやらないと上手くならないからだ。

 ところが、とりわけ学校という空間のなかでは、英会話とスポーツは違う大きく違う部分がある。スポーツが出来ることはたいていクラスメイトからは高く評価されるのに対して、英語ができるというのは必ずしもそうではない。体育で運動能力の高さを誇示したとしても「カッコいい」と評価されるのに対し、授業中に教員よりも上手な発音で英語の教科書を読んだりした日には「あいつ、生意気だ」という反感を生むことが少なくないのではないだろうか(学校の話ではないけど、こんなのとか)。実際、英語をきちんと読める帰国子女が日本の学校の授業ではわざと下手に英語を発音という話をよく耳にしたりもする。

 このへんの話はいわゆる「スクールカースト」に関係するのだろうが、日本の英語教育という観点からすればものすごくマイナスに作用するように思う。ただ思うのは、英語力アップを妨げるものには、英語が流暢に話せる人への「やっかみ」とは微妙に異なる感情もあるのではないか、ということだ。

 それは、ネイティブ並みの英語には及ばないくせに、発音やアクセントの面でネイティブっぽく話そうとしている人の英語は格好悪いという感情だ。

 個人的な体験談で申し訳ないのだが、以前、某大学で英語の専門書を読む演習を担当したときの話だ。この演習の履修者には帰国子女がゴロゴロいた(そしてなぜか20数名の受講者全員が女性だった。全体の比率としては男性のほうが多い学科なのに)。なので、発音がめちゃくちゃに綺麗な子がいる。それに対して、ぼくの英語は録音して聞くと死にたくなるレベルだ。

 しかし、それでも学生の前で英語を読む必要がある場面はやってくる。あまりに恥ずかしいので、下手にそれっぽく発音するよりは、アクセントや発音を一切無視して日本語的発音で通したいという強い衝動が湧いてくる。でぃす・いず・あ・ぺん。本当に上手な人を前にすると、中途半端な英語は許されない気がしてくるからだ。

 もちろん、英語が出来る人が出来ない人をバカにするということは実際にはあまりないはずだ。しかし、流暢な英語を話す人の前で下手な英語を話すとき、ぼくの頭のなかでは「ああ、この人、心の中じゃバカにしまくってるんだろうな」などという思いがしばしば渦巻く。被害妄想だとは思う(思いたい)のだが。

 あるいは、イギリスの語学学校で英語を話すことになったとき、ある種の恥ずかしさを覚えたことも思い出す。日本の母校での学校教育とは異なり、アクセントなどをはっきりさせないと当然に注意される。でも、それがなぜか恥ずかしい。アクセントを付けようとすると「下手くそな英語しか話せないくせに、無理して格好付けている感じ」がどうしてもしてしまうのだ。

 しかし、当たり前の話なのだが、いきなり完璧な英語を話せる人はいない。むかし、英会話の先生が「ピアニストの演奏ばかり見ていても、実際に練習しない限りはピアノを弾けるようにはならない」と言っていたのを覚えている。下手でも何でも、とにかく話さないことには上手くならないのだ。

 それでも、そういうことは頭では分かっていても、やはり下手くそな英語を話すことには抵抗がある。先日、ネット上で“I like dog.”などと言うと犬の肉が好きなのだと勘違いされるぞ、ということが話題になったことがあった。実際には、“I like dogs.“と言わねばならないという。しかし、ぼくが英語を話しているときに、冠詞や単数形/複数形を間違えることは多い。というか、正確に話せているときのほうが少ないのではないかと思うぐらいだ。なので「お前の英語は間違っている!」という話を目にするたびに、英語を話したくなくなってしまう。

 しかも、日本の本屋に行けば、その手の本がたくさん売っている。日本人の英語は偉そうだとか、間違いが多数あるとか、まあそういう本だ。もちろん、そういう本で間違いを正していくことは大切だと思う。実際、ぼくも結構買っている。

 にもかかわらず、そういう本を読めば読むほど「こんなに正確に話せるかよ」などと思ってしまう自分がいる。そこから導き出される結論は、可能な限り英語を話さないようにする、というものだ。どうせ発音も変だし、文法も間違ってるし、それにこの歳だと劇的に上手くなることももうないだろう。たかだかファーストフードで注文するときですら、聞き直されたり、聞き直したりして、ようやく出てきたと思ったらサイズが違っていたりするのである。

 それでも若い人に伝えたいのは、恥をかくことを恐れ、ぼくみたいになってはいけないということだ。実際、友人の流暢な英語でも、ところどころ間違えていることはある。しかも、母語である日本語にしたってつねに正確な文法で話しているわけではない。なので、たとえ下手くそな英語でも、日本語的発音に逃げることなく頑張ってほしい。

 世の中には、完全な日本語的発音の英語と完璧なネイティブの英語だけしかないわけじゃない。その間にある、本人はネイティブっぽく話しているつもりなのにわざとらしくて不自然な英語にだって生存の余地はある…

 んじゃないかな。たぶん。