擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

根拠なき自信も悪くない

 根拠のない自信を持っているひとはバカにされやすい。

 典型的なのは、いわゆる「意識高い系」だ。仕事ができないくせになぜか根拠のない自信だけはあり、周囲に多大な迷惑をかけまくる、というのが典型的な意識高い系のイメージではないかと思う。普段は大口を叩いている人物が、いざとなったら醜態を晒すというのは、ドラマやアニメのお約束の展開と言ってもいい。

 しかし、である。ぼくは(程度にもよるが)根拠のない自信はわりと大切ではないかと思っている。以下でその理由について述べていきたい。

 時に、スポーツは生まれ持った才能がほぼ全てだと言われることがある。たとえば、以前、元陸上競技選手の為末大さんが次のようなツイートをして話題を呼んだことがある。

 ここで「アスリート」という言葉を、陸上のような個人競技に限定すれば、たしかに為末さんの言うことは正しいかもしれない。だが、この言葉を広く捉えてスポーツ選手全般というところにまで拡げるなら、この主張はかならずしも正しくない。

 たとえば、こんなデータがある。プロ野球セリーグの選手を誕生日の月によって分類したものだ。昨年、各球団のホームページで紹介されている選手のデータをもとに作成した。

f:id:brighthelmer:20150601231301j:plain

 日本では春から初夏にかけて生まれた子どものほうが(特に集団競技の)スポーツ選手になりやすいという話はネットではよく知られている。網羅的なサイトとしてはこれがある。実はデータが少し古くなっているので自分でも調べてみようと思って作ったのが上のグラフなのだが、セリーグの選手を調べたところで力尽きてしまった。

 ともあれ、月ごとに生まれる子どもの数はほとんど変わらないので、将来的にスポーツ選手になるには年度の最初のほうに生まれたほうが有利だということは言ってよいだろう。実際、学校の新学年が秋から始まるイギリスでは、10月から12月にかけて生まれた子どものほうがスポーツは得意になる傾向があるという報道もある。「年度」がいつ始まるのかが社会的に決定される以上、スポーツ選手になれるかどうかには、遺伝的な才能だけではなく社会的要因も大きな影響を及ぼしているのだ。

 それでは、なぜ年度の最初のほうに生まれたほうが有利なのだろうか。一般的な説明としては、月齢の違いが体格に大きな影響を及ぼす幼年期の体験が挙げられることが多い。選手として選抜されるなどして場数を踏み、運動能力を向上させていくということだ。

 だがぼくは、そこでの「自信」の獲得が大きな役割を果たしているのではないかと思う。最初は体格差によって生まれた違いが、やがて自信の有無という違いへとつながっていく。スポーツに自信があるから好きになる、好きだからもっと頑張る、だからもっとうまくなるという好循環だ。

 逆に、最初の段階で自信が持てなければ、これは簡単に悪循環になる。スポーツに自信がないから嫌いになる、嫌いだから頑張らない、だからいつまでたってもうまくならない。たとえ嫌いでなかったとしても、自信がないために他人に迷惑をかける(or嘲笑される)のを恐れて競技に参加したがらないという心理が働く可能性もありうる。

 個人的な体験で言えば「格好の悪い姿を人に見られたくない」と思えば思うほど、体はガチガチになり、人前で格好の悪い姿を晒すことになってしまう。

 先にリンクを貼ったサイトでは、個人競技では誕生日の影響が大きく出ないというデータがあるが、これも「たとえ自信がなくても、他人に迷惑をかけない個人競技であれば、気軽に打ち込める」ことの反映ではないだろうか。

 これは確かに「ズルい子ども」の話なのだが、少し見方を変えれば、この子にしても下級生相手に自信をもってできるドッジボールは楽しいのである。こう考えると、根拠があろうとなかろうと自信の有無というのはその後の人生を大きく左右することになるのではないだろうか。

 誕生日という要因はスポーツに限らず、学力にも影響を及ぼすと言われる。少し古い調査だが、誕生日の違いが大学進学にまで影響を及ぼすと主張している研究もある。これにしても、「自分はできる」と思えるかどうかが能力の違いをもたらしている事例の一つと言えるかもしれない。「自分は勉強ができない」という自己認識は学習意欲にも大きな負の影響を及ぼすはずである。

 彰は高校2年の終わりに県立J高校を退学した。午前中の1、2時間目にあった家庭科の出席時数が不足となり、3年に進級できなかったからだ。(中略)

 小学校の頃はまだ普通だったが、中学ではほとんど勉強したことがなかった。中学1年の頃は200人中100番ぐらいだったが、2年になると150番になって、3年になると190番に落ちていた。がっかりというか、「もうどうでもいいや」っていう感じになっていった。

 「がんばろうというよりあきらめちゃうんですよね」

 自分はできない、と勉強はあきらめていた。とくに英語は全然わからなくて、be動詞もまったくわからなかった。数学も方程式がわからない。わからないから、面白くないし、さらに中2の途中から学校には遅刻するようになった。(中略)

 (高校の)入学式の時の校歌は、ブラスバンドの演奏ではなくテープが流れていた。卒業した中学ですらブラスバンドだったのに。そのとき、「ああ、おれはこういう学校に入ったんだ」とがっかりした。

(出典)青砥恭(2009)『ドキュメント 高校中退』ちくま新書、pp.83-84。

 もっと言えば、そうした自信の有無は大学進学後の学習態度にも大きな影響を及ぼしているのではないかとも思う。偏差値によって輪切りにされている現在の大学教育では、(偏差値的な観点から見て)中堅以下の大学に通う学生には自分に自信を持てなくなっているケースがかなりあるのではないだろうか。

 「自分は勉強ができない」「だから大学の勉強などしても無駄である」という連想がそこで生まれているのであれば、それは大学やそれ以降の人生での学びにとって大きなマイナスとなるはずだ。

 もちろん、大学入学時の学力の差がある以上、入学後のスタート地点に違いがあることは否定できない。しかし、高偏差値の大学に入っただけでだらだらと4年間を過ごした学生と、大学の偏差値は低くとも入学後にしっかり勉強し、優秀な成績を収めた学生とを比べれば、卒業時の学力は確実に後者の方が上である。

 話を戻せば、確かに実力もないのに大口ばかりを叩いていたり、他人を見下していたりするのは問題だろうし、「意識高い系」の人が批判されやすいのもそういう態度が原因なのだろうと思う。

 それでも、根拠のない自信はないよりもあったほうがいい。それはたぶん「今の自分はダメだが、少なくとも今よりはマシになることができる」と思えるための土台になる。

大阪を蝕むシニシズム

「既得権」をめぐる報道

 時期を逸してしまったが、大阪都構想に関する話だ。

 といっても、都構想の賛否について論じたいわけではない。その賛否に関する報道や文章にはそれなりに目を通しているものの、賛成や反対を明確に論じられるほどの知識があるわけではない。ぼくが生まれ育ったのは大阪市旭区だが、そこを離れてずいぶん経つし、大阪市の現状について詳しいわけでもない。

 それよりも気になるのが、都構想にまつわる「語り」だ。その語りを見る限り、維新の会的なものは実質的な「勝利」を収めたのではないかと思う。

 維新の会はこれまでしばしば既得権の破壊をその目標として掲げてきた。これは新自由主義的な方針を掲げる政党によく見られる特徴であり、さまざまな規制や制度によって守られてきた既得権を破壊し、競争を促進することで社会は効率化できるという発想がその土台にある。

 実際、既得権の破壊を叫び始めたのは維新の会が初めてというわけではない。ここで示したグラフは『朝日新聞』と『読売新聞』で「既得権」という言葉が用いられている記事の数の推移を表したものだ*1。このグラフを見ると、1997年と2000年から2001年にかけての報道量が突出しているもの、1980年代の後半から既得権を問題視する報道が継続していたことがわかる。

f:id:brighthelmer:20150521002719j:plain

 もっとも、そこで語られる既得権の内容は時期によってかなり異なる。たとえば、1980年代末に既得権者として語られることが多かったのは規制によって守られた企業や業界団体だった。それが1990年代になると政官業の癒着がさかんに論じられるようになり、「族議員」や「巨大権限な持つ官庁」が既得権の温床として批判されるようになった。

 ただし、既得権者としての「族議員」への批判は2000年代前半に小泉政権下でピークに達したあと、急速に減少していく。企業や業界団体が既得権者と見なされることも減っていき、「官」が言わば最後の大型既得権者として残ることになる。

 ここで興味深いのは、2000年に入るころから官批判のニュアンスが少しずつ変わってきたことだ。官が有する巨大な権限が既得権と見なされる傾向が続く一方、そこで働く人たちの待遇が既得権として語られるようにもなってきたのだ。

 2000年代以降のもう一つの特徴は、既得権者と見なされる対象が徐々に広がってきたということだ。高齢者、正社員、農家、農協など様々な人びとが既得権者として言及されるようになっていく。たとえば、2010年1月5日の『朝日新聞』に掲載された記事には次のようなコメントが見られる。

誤解を恐れずに言えば、既得権者の中には従来、弱者といわれてきた人もいるだろう。しかし、状況の大転換の中で、セーフティーネットの張り直しも含めて、既得権の仕組みをリセットして根底から変えないと、どんなに頑張っても成長の糧を得ることはできない。
(出典)『朝日新聞』2010年1月5日(朝刊)

 かくして、かつて巨大な組織や権力を批判するための言葉であった既得権は、ついに生活保護受給者にまで向けられるようになっていく。2011年12月には民主党前原誠司政調会長(当時)は「年金受給者に比べて生活保護の方が受給が高い。今までのあかを取りながら既得権益を退治する」と述べたと報道されている(『毎日新聞』2011年12月10日(夕刊))。

 年金受給者もまた既得権者としてしばしば言及されることを踏まえるなら、もはや誰が既得権者と見なされてもおかしくない状況が生まれてきたと言っていい。「権益」に対する批判として始まったものが、憲法で保証された「健康で文化的な生活を営む権利」を批判するところにまで到達したのである。

 宮本太郎さんは「やみくもに特権や保護を叩き、これを引き下げることで政治的支持を拡げようとする言説」を故・丸山真男の言葉を借りて「引き下げデモクラシー」と呼んでいるが、そのための土壌は着実に用意されてきた。

 そして、こうした「引き下げデモクラシー」的な言語戦略を最大限に駆使してきたのが維新の会ということになるだろう。維新の会の世界観が「敵か味方か」という二項対立的な性格を帯びていることはしばしば指摘されるが、そこで敵とされるのは要するに既得権を貪る者なのである。

 今回の住民投票の結果を受けて、賛成派の論客から出てきた言葉はまさにそうした世界観を如実に表している。実際のところは未だ定かではないが、都構想に反対したのは主として「高齢者」や「生活保護受給者」だと彼らはいう。彼らの発想からすれば、「高齢者」や「生活保護受給者」は自らの既得権の奴隷でしかなく、自分のアタマで考える力を持たない。もし考える力があるなら、都構想に賛成するはずだからだ。

シニシズムと民主主義

 政治コミュニケーション論では、狭隘な自己利益をただ追求するだけの存在として他者を見る態度を「シニシズム」と呼ぶ。「政治家や官僚は自分たちの利益のことしか考えていない」と見なすのが典型的なシニシズムであるが、「高齢者や生活保護受給者が自分たちの既得権だけを考えて都構想に反対した」という主張もシニシズムの発露と考えてよいだろう。

 こうしたシニシズム的な世界観は、新自由主義的な小さな政府路線と非常に相性が良い。政治家や官僚が自分たち自身の利益しか考えないのであれば、彼らの人数や活動範囲を可能な限り小さくしたほうが良いというのが自然な判断だからだ。

 だが問題は、こうしたシニシズムが民主主義に深刻なダメージを与えるということだ。人間が狭隘な自己利益の奴隷なのであれば、そこでは対話や説得といった民主主義の重要な要素はほとんど意味をなさない。力で抑えこむか、それとも騙すかのどちらかしかなくなってしまう。言い換えると、これは裏返しの唯物史観のようなもので、政治的な理念や主張は物質的利益を覆い隠すイデオロギーでしかないという発想に近い。

 もちろん、政治の役割が有限な資源の配分である以上、熟議で全てが解決できるわけでもなく、対立が起きることは避けられない。ただし、本来的にはその対立軸は複数あるべきで、ある政策では協力し、別の政策では対立するといった形であるからこそ、対立が過度に激化することは抑制される。

 ところが、単一の対立軸だけが支配的になると社会の維持が難しくなる。そこにシニシズムが入り込んでいくなら、対話も説得もなく、相手の人間性を否定する罵り合いだけが続いていくことになる。都構想の是非をめぐって反対派/賛成派の論者がそれぞれに論争相手の利害関係を問題にし始めたのはまさに象徴的と言っていい事態だった。

 都構想を話のネタとして消費するだけの論客にはそれでも構わないかもしれないが、大阪市の住民は今後も賛成派住民と反対派住民とで地域を作っていかなければならない。住民投票が終わった後になっても、離れた場所からシニシズムの毒を地域の人間関係に注入し続けるような言動は厳しく批判されてしかるべきだ。

 さらに言えば、維新の会よりも遥かに長きにわたってシニシズムの毒をふりまいてきたマスメディアの言語も批判されるべきだろう。たしかに、様々な人びとの背後に利権の存在を見出し、それを暴露するというジャーナリズムの営みが権力監視や腐敗防止という役割を果たしてきたことも否定できない。だがそれは、あらゆるところに既得権者を見出し、攻撃することとイコールではないはずだ。

 ともあれ、大阪市での住民投票は終わった。願わくば、ぼくのふるさとがシニシズムを越えたところに次の未来を見いださんことを。

参考文献

J.N.カペラ・K.H.ジェイミソン、平林紀子・山田一成監訳(2005)『政治報道とシニシズムミネルヴァ書房
C.ヘイ、吉田徹訳(2012)『政治はなぜ嫌われるのか』岩波書店
津田正太郎(2013)「『引き下げデモクラシー』の出現:既得権バッシングの変遷とその帰結」(石坂悦男編『民意の形成と反映』法政大学出版局)。
宮本太郎(2009)『生活保障』岩波書店

*1:このグラフの作成にあたっては『聞蔵Ⅱ』および『ヨミダス歴史館』を使用した。これらの記事データベースは、1980年代半ば以降の記事であれば、記事内で使用されている言葉まで検索できるが、それ以前の記事では見出しおよびキーワード検索しかできない。また、1980年代半ば以降であっても、全ての記事がデータベース化されておらず、地域面やスポーツ面などのデータは逐次的に追加されている。一例を挙げると、『朝日』の静岡・山梨・宮城の地域面が収録されているのは1993年10月以降である。そこで、年ごとの記事数の比較をより正確に行うため、『朝日』については東京発行の本紙に限定して、『読売』については東京発行の全国版に限定して集計している。そのため、たとえば2011年の大阪発行の地域面では既得権関連記事がかなり掲載されているが、その数は反映されていない。

努力を「語る」流儀

学歴の話はなぜ荒れるのか

 学歴というのはとても荒れやすいテーマだ。

 ほとんどの人が学校教育を経て成人する現代社会において、それはやむを得ない部分もある。それぞれに様々な経験があり、それらから導き出された何かしらの考えがある。自分と違う意見を見れば批判したくもなる。万人に支持される意見を語ることはおそらく不可能だ。

 たとえば、赤木智弘さんによるこのエントリも、コメント欄ではさまざまな意見が書き込まれている。赤木さんの文章の一部を引用する。

子供の学力は子供の意志に関係なく、子供の親が子供に対してしっかりと金を使い、勉強に没頭するような環境を用意できるかどうかで決まってくる。学歴というのは親が用意した道に他ならず、本人の努力すら親が用意したものなのである。
(出典)努力という言葉に見る日本の落日

 さてここで、ぼく自身の経験を振り返ってみたい。ずっと以前にもブログに書いたことがあるが、こんな話だ。

 今から20年以上前、ぼくは成人式に出席するために地元に戻っていた。成人式自体は荒れることもなく終わり、中学校時代の知人と一緒に会場の外に出た。

 会場の外は再会を懐かしむ声の渦だった。ぼくもそれなりに旧交を温めていたものの、なかには楽しくない再会もある。昔からソリの合わなかった知人がぼくに聞こえるように大声で言う。「いいよな、東京の大学に行けるやつは」

 その言葉にぼくは腹を立てた。ぼくはたしかに東京の私立大学に進学していた。しかし、そこに至るまでにはストレスの溜まる浪人生活があり、自宅で愛用していた半纏の袖が擦り切れるまで勉强したのだ。

 しかし、いまにして思えば、その知人の言葉には真実があった。高校3年生になるまでほとんど勉强しなかったツケを予備校生活で払うことができ、東京の私立大学に進学させてもらえる経済的環境がぼくには確かにあったからだ。もっと言えば、ぼくがいま研究者として何とかやっていけているのも、生得的な環境によるところがきわめて大きい。

 とはいえ、大学進学直後のぼくがそれを認めることは難しかったはずだ。当時のぼくが赤木さんのブログを読んでも腹を立てていたに違いない。来る日も来る日も予備校と図書館に缶詰めとなり、不毛な暗記作業に精を出す生活を経たあとで「お前が大学に行けたのはすべて環境のおかげだ」と言われるとさすがに反発したくもなる。

 環境的な諸要因が学歴に与える影響に関する議論が荒れやすい理由の一つは、それらの要因と学歴とのあいだに「努力」というファクターが入り込むからだ。環境要因を重視する側は努力ができるのも環境の影響だと主張し、学歴の価値を強調する側は努力が環境には還元されないことを強調するという流れになりやすい。

「すべては環境のおかげ」か

 そもそも、多くの人は自らの業績については(謙遜する場合を除いて)努力の価値を語ることを好み、環境要因を認めたがらない。他方、(とりわけ嫌いな)他者の業績については「環境のおかげ」を持ち出す傾向が強い。ここで紹介したいのが、米国のアファーマティヴ・アクションに反対するアフリカ系米国人に関する話だ。

 言うまでもなく、アファーマティヴ・アクションとは歴史的・社会的要因によって不利な立場に置かれてきた人たちのための制度だ。典型的には、大学進学や就職、昇進などでマイノリティを優遇することで不平等の是正を図る。

 実際、このアファーマティヴ・アクションのおかげで少なからぬアフリカ系米国人に社会的上昇の機会が開かれた。少し古いがジグムント・バウマンの著作から引用しておこう。

黒人家庭の三分の一が、今では全米の平均(現在3万5千ドル)かそれ以上の年収を得ているが、ほんの四半世紀前、その割合は4分の1以下であった。黒人家庭の5分の1以上が、アメリカの豊かさの指標である5万ドル以上の収入を得ている。多数の黒人弁護士、医師、企業経営者が生まれており、政治的な影響力を行使したり、自ら発言したりしている。こうしたことはすべて、アファーマティヴ・アクションなしに起こりえただろうか?最近、ニューヨーク大学ロースクールが行った調査によると、ロースクールの学生となり、アメリカでもっとも有利な職業につく機会をえた3435名の黒人のうち、自分の試験結果の力だけで入学を果たしたのは687名にすぎなかった。
(出典)ジグムント・バウマン、伊藤茂訳(1998=2008)『新しい貧困』青土社、pp.115-116。

 にもかかわらず、近年ではアフリカ系米国人のあいだでもアファーマティヴ・アクションに反対する声が上がるようになっているという。それは、この制度が存続する限り、彼らの成功は自身の努力の成果ではなく、政策(環境)のおかげということになってしまいかねないからだ。

 もちろん、制度的な支援があったとしても、彼らの上昇移動が彼ら自身の努力によるものであったことは否定できない。だが周囲の目は違う。先に述べたように、人は他人の業績については環境のせいにしたがる。いくら努力したとしても「あいつがいまの地位にあるのはアファーマティヴ・アクションのおかげだ」などとやっかみを込めて言われ続けたら、「そんな制度はもうやめてくれ」と言いたくもなるだろう。

 このような問題はアファーマティヴ・アクションに限った話ではない。たとえば、欧米に移住したアジア系移民には勤勉に学び、働く文化があると言われる。学校でもアジア系移民の子弟がホスト国のネイティブに勝る優秀な成績を納めることは少なくないようだ。

 しかし、こうした文化的要因を過剰に言い募ると、アジア系移民自身の努力を卑しめることになると盛山和夫さんは指摘する(盛山和夫(2006)『リベラリズムとは何か』勁草書房、p.171)。

 つまり、アジア系移民には勤勉な文化があると言われてしまうと、いくら頑張ったところで「文化(環境)のおかげ」にされてしまう。アジア系だろうと何だろうと努力はそれなりに辛いわけで、いくら社会学的に正しかろうと「努力できるのも環境のおかげだ」と言われてしまうと、さすがに嫌な気持ちがするはずだ。

 まとめると、いくら環境に恵まれていようとも、ある人物のなした業績をすべて「環境のおかげ」と言い切ってしまうことには問題がある。実際、恵まれた環境にあっても努力しない人は数多く存在する。とはいえ、すべてを「本人の努力のおかげ」に還元してしまうと、環境要因を無視することにもなり、結果として様々な不平等が見逃されることにもなりがちだ。不平等を是正するための有効な手段として教育機会の拡充を挙げる研究者は多い。

努力を「語る」流儀

 以上のように長々と書いてきたが、結局のところ、このエントリの結論は赤木さんのそれと異なるわけではない。他人を攻撃するためのレトリックとして「努力不足」が語られる状況は確かにある。生活に困窮している人たちに対して「努力が足りなかったからだ」という言葉を向ける人は多い。個々人にはそれぞれに違った環境要因があり、それを詳しく知っているわけでもないのに「努力が足りない」と言い募ることは往々にして非常に暴力的だ。

 他方で、努力に意味はなく、世の中の成功や不成功のすべてが環境要因や遺伝的要因で決まるということになれば、多くの人にとって前に進むための動機づけが失われてしまう。

 すべてが自分自身ではどうしようもない要因によって決まってしまうのであれば、環境や才能に恵まれない人びとに残されるのは残された生をただ自堕落に過ごすだけということになりかねない。努力は、環境や才能を自らが欠いていることを自覚してもなお前進するための唯一のルートになる。

 羽海野チカさんの将棋マンガ『3月のライオン』に登場する努力家型の棋士である島田は、天才型の棋士である宗谷について次のように語る。

宗谷は「天才」と呼ばれる人間のごたぶんにもれずサボらない。どんなに登りつめても決してゆるまず、自分を過信する事がない。だから差は縮まらない。どこまで行っても。しかし「縮まらないから」といって、それがオレが進まない理由にはならん。「抜けない事があきらか」だからって、オレが「努力しなくていい」って事にはならない。
(出典)羽海野チカ3月のライオン(4)』白泉社

 そうして彼は地道な努力を続け、その姿は劇中の若き棋士に大きな勇気を与える。元気づけられる読者も多いだろう。

 努力とは他人の努力不足を攻め立てるために語られるべきものではない。自らの今の地位を誇示するために語るべきものでもない。そうではなく、後に続く者たちを無言で叱咤し、激励するためのものではないだろうか。

伊織とアスカ

 40歳をとう過ぎたオッサンがこんな話をブログに書くというのはいかがなものだろうか。そう悩みつつも書かずにはいられない。それが今回のエントリである。

 『ココロコネクト』というアニメがある。原作はライトノベルでアニメは2012年7月から9月にかけて放送された。男子高校生2人、女子高校生3人をメンバーとする文化研究部なるグループが登場し、その唾棄すべきリア充的展開が数十年も前の不毛な高校時代をぼくに想起させるというトラウマ的作品である。いやまあ、面白いことは面白いのだが、ぼくのようなオッサンが熱く語る作品ではないと思う。

 …という、どうでもいい感想は措くとして、先日、その14話から17話を見るという機会を得た。それは実に社会学的に解説してみたくなるエピソードなのだが、残念なことにその解説を聞いてくれる人がぼくの周囲にはいないし、授業でも取り上げづらい。そこで、いつものテーマとは大きくずれることは承知しつつ、あえてこのブログに書いてみることにした。何かを無性に解説したくなるというのは、もはや一種の職業病なのではないかと思う。興味のない人、ネタバレが嫌な人はスルー推奨です。

ココロコネクト』における感情伝導

 『ココロコネクト』という作品のキモは、「ふうせんかずら」なる正体不明の存在が登場し、文化研究部のメンバーたちに様々な心理実験(?)を仕掛けてくることにある。未知の存在がなぜ一介の高校生相手にそんな実験を仕掛けてくるのかはよく分からない。視聴者に求められるのは、「ふうせんかずら」の正体に思いを巡らすことではなく、とりあえずそういう設定を受け入れたうえで高校生たちの心の動揺を楽しむという態度である。

 14話から17話では「感情伝導」という実験(?)が仕掛けられる。文化研究部のうちの誰かが感じたことが他のメンバーにも勝手に伝わってしまうという現象だ。いつ、どのようなタイミングで生じるのか、誰の感情が誰に伝わるのかはランダムだが、感情を発した側は誰にそれが伝わったのかが分かる。要するに、内心では思っていたとしても相手には伝えたくないと考えていることまで伝わってしまうというやっかいな現象である。

 物語中、感情伝導でもっともダメージを受けるのが永瀬伊織という女の子である。もともと伊織は明るく、周囲を元気にするようなキャラクターとして認識されていた。ところが、この現象によって伊織が話していることと内心で考えていることとのズレが明らかになる。要するに、キャラを「作っている」ことが暴露されてしまうのである。

 それによって伊織はもともと感じていた「周囲が認識するわたし」と「ほんとうのわたし(=暗いし冷めてるわたし)」とのズレに耐えられなくなる。結果、後者を一気に表出させてしまい、周囲との人間関係を急激に悪化させることになる。文化研究部の他のメンバーはなんとかして伊織を元に戻そうとするのだが、彼女はそれに押し付けがましさを感じてしまい、さらに反発を強めていく。以上がストーリーの大まかな流れである。

「ほんとうのわたし」とは何か

 まず考えたいのが、伊織が認識している「ほんとうのわたし(=暗いし冷めてるわたし)」が本当の伊織なのかという問題である。

 心理学でよく用いられる「ジョハリの窓」というマトリックスでは、自己は4つに分割される。「Ⅰ. 開放の窓」は自分も他人も知っている自己、「Ⅱ.盲点の窓」は他人は知っているが自分は知らない自己、「Ⅲ.秘密の窓」は自分だけが知っている自己、「Ⅳ.未知の窓」は自分も他人も気づいていない自己を指す。

f:id:brighthelmer:20150505010240p:plain
(出典)ジョハリの窓 - Wikipedia

 石川准さんの『アイデンティティ・ゲーム』(新評論、1992年)という著作によれば、アンケート調査をすると約6割の回答者が「Ⅲ.秘密の窓」を本当の自己だと考える傾向にあるのだという。ぼくも授業で何度か尋ねてみたことがあるが、確かに「Ⅲ. 秘密の窓」が本当の自己だと考えるという受講生がもっとも多い。

 『ココロコネクト』に話を戻すと、伊織も感情伝導以前には他人に隠していた「暗いし冷めてるわたし」を「ほんとうのわたし」だと認識しており、その6割に含まれると考えてよい。

 ところで、なぜ「秘密の窓」を他人から隠す必要があるのだろうか。言うまでもなく、他人に知られては困るような「わたし」だからだ。つまり、人は自らの本質をネガティブなものだと認識する傾向にあると言ってよい(前掲書)。伊織もまた、自らのネガティブな本質が感情伝導によって隠しきれなくなったと判断し、それに正直にならざるをえないと考えたのである。

 しかし、他人に隠しているからといって、それを自分の本質だと考える必要は必ずしもない。

 実際、石川さんによると、年齢が上がるにしたがって「Ⅱ. 盲点の窓」こそが自分の本質だと考える人が増える。結局のところ自分のことは自分では評価できないという人格的成熟がそうさせるのではないかというのだ。この観点からすれば、周囲の人間が理解している伊織像(=明るくて周囲を元気にするわたし)こそが本当の伊織であった可能性も出てくる。

 もっとも、とりわけ若い時期において人格は使い分けられることが多く、状況いかんによって様々に変化しうる。つまり、何が本当の伊織なのかという問い自体が間違っているとも言える。とはいえ、伊織が「暗いし冷めてるわたし」だけを本当の自己として規定し、それが命じる通りにふるまい続けるなら、やがて伊織の本質もそのようになっていく可能性は高い。

 だが、結局のところそうはならず、伊織は救済される。それはなぜか。

業績と帰属による自己肯定感

 その問いについて論じるまえに、伊織が周囲からの干渉をなぜ「押しつけ」として感じてしまったのかという問題について述べておきたい。

 人が自らの存在を肯定するための根拠は、大雑把に言って「業績」と「帰属」という二種類に大別することができる。

 業績というのは、要するにその人が成し遂げた「何か」である。難しい試験に合格した、大きな契約をまとめた、たくさんの外国語を話せる…等々の業績は、「自分には価値がある」と信じるための重要な根拠になる。業績というと大げさな感じもするが、ここでは自己の能力や努力によって勝ち取られたもの全般を業績と呼ぶことにしたい。

 業績に基づく自己の肯定は、能力を示し続けられる限りにおいてのみ有効である。スポーツ選手が自らの能力に誇りを抱いていたとしても、能力の衰えはその誇りを奪ってしまいかねない。業績のみに基づく自己肯定は結構疲れるのだ。

 他方、帰属に基づく自己の肯定は、親子関係や地縁、国籍などの「生まれもっての属性」に根拠を持つ。つまり、業績に関係なく「あるがままの自分」を肯定してくれるものだ。親子関係の場合、勉強やスポーツができようができまいが、自分が親の子どもであるという事実そのものによって愛されるという感覚、それが帰属に基づく自己肯定感を育む。

 人格的な独立性が高まる思春期以降になると、帰属に基づく自己肯定感だけでは満足できなくなり、業績に基づく自己肯定が追求されることが多くなる。親から愛されるだけでは物足りなくなり、恋愛をしたい(=自らの魅力(一種の業績)によって愛されたい)という感覚が強まるのはその一例だ。とはいえ、それでも帰属に基づく自己肯定はその土台として機能し続ける。

 ここでようやく『ココロコネクト』の話に戻る。伊織は、元気なキャラを演じるという業績を出し続ける限りにおいてのみ周囲は自分を好いてくれると考えている。ところが、感情伝導によってもはやそのキャラを演じることができなくなってしまった。したがって、それを演じ続け、業績を出し続けることを強いてくる周囲に伊織が「押しつけ」と感じるのは当然だろう。

 その一方で、元気なキャラを演じられなくなったことで伊織の自我は大きく動揺する。それは伊織の自己肯定感が業績的な根拠にのみ依存してきたからだ。伊織はネガティブな自己の本質を誰かが肯定してくれるとは考えていない。帰属に基づく自己肯定感を持つことができないのだ。

 伊織がそのような心理状況にある背景には、彼女が育った家庭環境に原因があると考えられる。「良い子」である限りにおいて承認されるという状況で育ったがゆえに、あるがままの自分では許されないという感覚が非常に強くあるのだろう。事実、物語中に登場する子ども時代の伊織は「ものすごく良い子」である。

伊織とアスカを隔てたもの

 ここで思い出されるのが、旧版の『新世紀エヴァンゲリオン』に登場するアスカというキャラクターだ。知っている人は多いだろうが、悲惨な家庭環境に育ちながらも、14歳にして大学を卒業し、多言語を駆使する天才肌の少女である。エヴァンゲリオンに搭乗することに非常なプライドを有しているが、やがてパイロットとしての才能において主人公シンジに見劣りすることが明らかになっていき、物語の終盤では精神を病んでしまう。伊織と同様、アスカも帰属に基づく自己肯定感を欠如させている。それをエヴァンゲリオンのパイロットとしての業績によって補っているのである。

 しかし、『エヴァンゲリオン』のアスカが心を病んでいくのに対し、『ココロコネクト』の伊織は最後には立ち直る。この両者を隔てたものは何か。

 自尊心をひどく傷つけられたアスカが同級生のヒカリという女の子の家に転がり込むシーンがある(23話)。「私の価値なんてなくなったの」と嘆くアスカに対して、ヒカリは「わたしはアスカがどうしたっていいと思うし、何も言わないわ。アスカはよくやったもの」と言う。それを聞いても、アスカはただ泣くばかりである。

 他方、『ココロコネクト』の文化同好会のメンバーは伊織との対決シーンにおいて、彼女に向かって「自分たちの過度な期待に応える必要などない」「てめえの人生だろうが、勝手に好きなように生きとけ」「永瀬(伊織)の理想の自分もそうじゃない部分も知ったうえで、今度は本当の永瀬に届けるために言う。俺はそれでも永瀬伊織のことが好きだぞ」というメッセージを伝える(16話)。

 『エヴァンゲリオン』でのヒカリの言葉はあくまで業績に基づく肯定(アスカはよくやった)の域を出ていない。だからこそアスカに救いは来なかった。他方、『ココロコネクト』のメッセージは文化研究部の人間関係が業績ではなく帰属に基づくこと、そして「あるがままの伊織」を自分たちが受け入れることを伊織に伝えるものだ。

 だからこそ伊織は、「暗いし冷めてるわたし」をも取り込むかたちで自己を再構築することができたのではないだろうか。ぼくとしては最後のセリフに「さっさと爆発しろ」という感想しか出てこないのだが。

 いまから20年近く前、『エヴァンゲリオン』を初めてテレビで見たときから、このシーンでヒカリがもっと違う、「あるがままのアスカ」を肯定するようなメッセージを伝えることができていたなら物語はもう少し違った展開を見せたのではないかと考えてきた。その意味で、伊織は救われたアスカなのかもしれないと思う。

メディア・リテラシーなるもの

 ぼくは大学でメディアについて教えている。

 メディアに関して学生の書いたものを読むと、かなりの割合で「メディア・リテラシーを身につけることが必要である」とか「マスメディアを鵜呑みにしてはいけない」という結論に至っている。まるで誰かがフォーマットを作っているのではないかと思うほどだ。

 しかし、教員としてこういうことを書くのはいかがなものかとも思うのだが、そもそもメディア・リテラシーなるものは実践可能なのだろうか。ここで安易にウィキペディアから引用してみると、次のように書いてある。

メディア・リテラシー(英: media literacy)とは、情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。
(出典)メディア・リテラシー - Wikipedia

 言わんとすることは分かる。分かるのだが、実際問題としてこれを実践することは不可能なのではないだろうか。

 毎日、毎日、マスメディアやネットを経由してわれわれのもとには膨大な情報がもたされる。それらの真偽をいちいち確かめていたのではメディア・リテラシーを実践するだけで日が暮れてしまうし、真偽を確かめようもない情報のほうがむしろ多い。遠い外国で起きた出来事の真偽など、わざわざ外国に行って調べるわけにもいかない。

 異なるニュースソースを確認するといっても、もともとソースが限られている情報の場合にはその方法も使えない。最終的には、どこかで何かを盲目的に信じるよりほかないのだ。

 結局のところ、完璧なるメディア・リテラシーの持ち主など存在しない。大学で偉そうにメディアについて講義をしているぼくにしても、変な情報を信じてしまって後になって恥ずかしい思いをすることは多々ある。「それはお前の能力が低いからだ」と言われてしまうと、ごもっともと言うよりほかない。

 ただ、ぼく個人としては、絶対に騙されまいとすることよりも、ある程度は騙されても仕方がないという諦めのほうが重要なのではないかと考えている。「自分はメディア・リテラシーが高い」「騙されるはずがない」と思ってしまうと、変な情報を信じてしまったときに誤りを素直に認めづらくなる。自己の誤りを糊塗するためにさらに質の悪い情報源に頼ってしまう可能性すらなしとは言えない。最初から騙されることもあると認識しておいたほうが、誤りを認めるときの心理的ハードルは低いはずだ。

 さらに言えば、本人からするとメディア・リテラシーの実践なのかもしれないが、傍から見ると単なる下衆の勘ぐりか陰謀論にしか思えないことも多い。「アイツがこういう発言をするのは、それでカネが儲かるからだ/組織の差し金だ」という主張はよく目にするが、説得力の欠片もないものも少なくない。「騙されまい」という姿勢が単なる人間不信に陥ってしまうのであれば、寂しい話ではある。

 …と、ここで終わってしまうと、ただの言い訳のような話になってしまうので、とりあえずぼくの考えるメディア・リテラシーについて書いておこう。

 メディア・リテラシーというと、先に見たように自分の外部にある情報をどう吟味するかという話になる。けれども、より有効なメディア・リテラシーはむしろ自分自身を見つめることによってもたらされるのではないだろうか。

 というのも、変な情報に騙されるのは、それが「自分の信じたい情報」であることが多いからだ。ただし、ここで注意する必要があるのは、「自分が信じたい情報」は「自分にとって利益になる情報」とイコールではない、ということだ。

 たとえば、「今年、日本経済は破滅する!」と信じている日本人研究者がいたとしよう。その人にとって日本経済の破滅は決して利益にはならず、個人的にも大きな損害を被ることになる。それでも、その人は日本経済の破滅を予兆しているかに見える情報をどうしても信じやすくなる。それによって自己の認識の正しさが裏付けられたと感じられるからだ。人は自らの判断が正しいことを証明するために、他人や自分自身の不幸すら時に願ってしまう生き物なのである。

 したがって、メディア・リテラシーを発揮するために重要なのは、情報源の吟味よりも先に、自分自身がどういう情報を信じたがっているかを知り、それを率先して疑うことだ。脱原発を支持しているのなら脱原発派に有利だと思われる情報こそ疑うべきであり、安倍政権に反対しているのなら安倍政権にとって不利な情報こそ批判的に吟味すべきだ。

 そのためには、まずは自分自身がいかなる政治的立場を支持しているのかをきちんと知っておく必要がある。何かにつけて中立を気取るよりも、さまざまなトピックについて自分が何を支持して、何を支持しないのかをよく考えておいたほうがいい。「自称中立」の人が実際にはまったくもって中立的ではないというのはよくある話である。

 メディア・リテラシーとはつまるところ情報のフィルターの話だ。したがって、外部の情報を吟味する前に、自分自身のフィルターがどんな状態になっているのかをまずは確認しておいたほうがいい。

スマホとどう付き合うか

 ぼくはネットが好きだ。

 ネットで話題になっている文章にはだいたい目を通すし、ネットで誰かが喧嘩をしていればそれをいそいそと見物に行く。ぼくはメディアの研究者ということになっているので(専門はマスメディアだけど)、いちおうはフィールドワーク?的な意味もある。しかしそういうことを抜きにしても、基本的にネットが好きなのだと思う。

 ネットとの付き合いはかれこれ20年近くなるし、インターネット・アーカイブを探せば1990年代後半にぼくがやっていたホームページを見つけることもできる。だからこそ思う。ネットに時間を費やし過ぎるのは決して良いことではない。ところがいまや、スマホを使えば至るところでネットに接続できてしまうのである。

 ここで話は四半世紀ほど遡る。当時のぼくは高校3年生で、大学受験を控えていた。ところが、一つ大きな悩みがあった。30分も机に向かうことができないのだ。

 自室で勉強を始めても、10分もすれば集中力が切れ始める。テレビゲームがやりたくなる。本棚のマンガを読みたくなる。20分を過ぎれば集中力は限界に達し、気づけば遊んでしまっていた。

 当然、成績は超低空飛行だった。団塊ジュニア世代が大学受験を迎えていた当時、大学受験は今よりも熾烈で、模試の結果から判断するにぼくが行ける大学はほとんど存在していなかった。それでも、どうしても勉強をすることができない。

 ところが、そのうちにぼくが例外的に勉強をすることができる状況があることに気づいた。部活を引退してから、放課後に友人たちと学校の図書室で勉強するようになったのだが、そのときだけは不思議と集中力が続くのだ。

 そこでぼくはようやく気づいた。

 ぼくは徹頭徹尾、駄目なやつなのだ。楽しいものが近くにあると、ぼくの集中力は限りなくゼロに近くなる。だから勉強するためには、勉強以外にやることがない環境に身をおくしかない。もう一つは周囲の目。誰かに見られているという環境であったほうが、集中力は高くなる。

 そこで、ぼくは勉強をするために図書館や予備校の自習室を使うようになった。そのおかげで、一浪はしたものの、なんとか大学に潜り込むことができた。

 ちなみに言うと、ぼくのこういう駄目っぷりは研究者になった今も変わらない。集中して論文を読むには、自宅よりも喫茶店や図書館のほうがずっといい。もっとも、人目があると集中できないというひともいるので、集中できる環境というのはひとによって多少違うようだ。

 以前にもこのブログで紹介した、ケント・グリーンフィールド『<選択>の科学』(紀伊國屋書店)によると、人間の選択は周囲からの様々な操作や誘惑によって簡単にねじ曲げられてしまう。それらに打ち勝つためには、意志を鍛えるのではなく、誘惑が存在する状況に最初から身を置かないことが必要なのだという。

私の友人の一人に、大学で知り合って結婚した妻と長いあいだ円満に暮らしてきた、家族に対してとても献身的な中年男性がいる。ビジネスで成功を収め、地元のコミュニティで中心的な役割を果たし、オバマ大統領の友人でもある。チャーミングで人付き合いがよく、女性にもてる。その彼に、さまざまな誘惑のなかで妻に対する誠実さを保ち、長いあいだ円満な結婚生活を維持していくための秘訣とはいったい何かと尋ねたことがある。それに対する彼の返答は「誘惑の多い状況や、誤解を招く状況に身を置かないこと」だった。
(出典)ケント・グリーンフィールド、高橋洋訳(2011=2012)『<選択>の神話』紀伊國屋書店、p.282。

 話をスマホに戻そう。スマホはとても楽しいデバイスだ。電車のなかで多くのひとがスマホのスクリーンを眺めていることからもそれは分かる。だからこそ、付き合い方がとても難しいデバイスだと思う。

 外国語だったり、難解だったりする文章を読むよりは、ツイッターやLINEの文章を読んだほうが楽しいに決っている。しかし、大学生にもなれば嫌でも長くて難しい文章をたくさん読まなくてはならない。そのためには、スマホの誘惑に直面しない状況をつくっておいたほうがいい。持つのであれば、カバンのなかに入れっぱなしにでもしておいて視界に入らないようにしておいたほうがいいだろう。

 もちろん、スマホは便利だし、役に立つことも確かにある。就職活動時には必須のアイテムとも言われる。こんなに便利はものを全否定するつもりはさすがにない。

 だが、スマホは長い文章を読むのに最適なデバイスではない。きちんとした論理を理解するためにはどうしても長くて難しい文章を読む必要がある。短い文章で理解できるのは切り詰められて、単純化された論理の断片でしかない。複雑な論理を短い文章だけで分かった気になるのは、「自分はちゃんと理解していない」という自覚を失うぶんだけ危険な側面があるとすら言える。

 そこで改めて必要になるのが「紙」である。これだけ電子デバイスやネットが普及した時代にあって、紙なんてのはかさばるだけの時代遅れなメディアなのかもしれない。実際、ぼくも論文をネットからダウンロードしてくることはよくある。雑誌論文をコピーするのにわざわざ大学図書館まで行かねばならないかった時代と比べれば、ずいぶんと便利になったものだ(もちろん、今でも大学図書館に行く必要があることは非常に多いが…)。

 けれども、論文をちゃんと読むときには必ずプリントアウトしたものを読むようにしている。線を引いたりメモを取ったりするのにはやはり紙が便利だからだ。しかも、ネット接続されたPCはそれだけで誘惑を多く抱えており、集中して読むことを阻害しがちだ。

 また、頭の中身を整理したいときにも紙とペンを使うことが多い。なんだかんだ言って、紙というメディアはその扱いやすさにおいて今なお非常に優れたメディアだと思う。何でもネット、何でもスマホ、なのではなくて、状況に応じて適切なメディアを使い分けていくことが、より成熟したメディア利用のあり方であるはずだ。

 いやまあ、こんなに偉そうなことを書いているぼく自身、ネットにかなりしてやられている部分があることは否定できないわけなのだが。

言葉のブーメランが返ってくるとき

 ネット上ではやたらと攻撃的なひとが少なくない。

 とにかく他者や他集団に対して攻撃的な書き込みをする。それも一つの芸風だと言ってしまえばそこまでだが、そういうひとは防御力が弱くなることも多い。

 というのも、誰かを攻撃するためには何らかの理由が必要だからだ。「こんなに酷いことをする(言う)なんて」という理由によってひとは他者や他集団を攻撃する。だが、攻撃をする回数が増えるほどにその理由づけも増えていく。結果、自分自身の行動がそれに当てはまってしまう可能性がどんどん上がっていくのだ。そうなれば、自分自身の言葉がブーメランになって返ってくることもそれだけ多くなってしまう。言論戦において「攻撃は最大の防御なり」は必ずしも妥当しない。

 もっとも、言動の一貫性など最初から気にせず、他人からそれを指摘されたとしても無視すればよいだけなのかもしれない。しかし、そういう人は他人からも「そういう人」だと見なされるようになるだろうし、そうなればその人の言葉を真に受ける人もやがて減っていく…と思う。楽観的すぎるかもしれないが。

 いずれにせよ、言葉を操ることを仕事の重要な一部とする職種、たとえば政治家や研究者、ジャーナリストなどの言動にはやはりそれなりの一貫性が求められるべきだろう。それらの職種に就く人びとの言動があまりに一貫性を欠く場合、社会全体の信頼が毀損してしまう。

 しかしその一方で、発言の一貫性の欠如があまりにクローズアップされるのも結構しんどいよな、とも思う。というのも、人間というのはわりといい加減な存在で、発言に一貫性がないのは例外的というより、むしろ人間の基本的な特性ではないかと思うからだ。

 人間のそうした特性が典型的に示されるのが世論調査だ。世論調査において質問の内容や順番を少し変えただけで、その結果が大きく変わることはよく知られている。たとえば、1970年代に米国で行われた調査では、第一のグループには「米国でソ連のジャーナリストは活動を許されるべきか」という質問が行われた。それにイエスと答えたのは37%に過ぎなかった。第二のグループにはまず「ソ連で米国のジャーナリストは活動を許されるべきか」という質問が行われ、それに対しては大部分の回答者がイエスと答えた。その次に「米国でソ連のジャーナリストは活動を許されるべきか」が問われると、73%がイエスと答えたのだという。

 これは、第一のグループではソ連に対する不信感が強く反映される回答になったのに対し、第二のグループでは米国のジャーナリストに関する質問が先に行われたために、公平性の観点からソ連のジャーナリストの活動を許容すると回答する人が多かったものと解釈できる。これ以外でも、回答者がどのような状況に置かれるかによって質問に対する答えが大きく変化することが知られている。とりわけ意見の分かれやすい問題については、人びとの言動は一貫していないのが普通なのだ。

 実際、学問の世界に長く名を残すような研究者ですら、長い研究キャリアのなかでは意見が変わっていくのが普通だ。そもそも、いかなる状況であれ意見が一貫しているというのは、見方を変えれば柔軟性に欠ける、思考が硬直しているということでもある。様々な思索や学びを経て意見が変わるというのは決しておかしなことでも、恥ずべきことでもない。

 ただ、それでも周囲の人間が知らないうちに意見が変わるというのは、とりわけ言葉を操ることを生業とする人びとにとってはあまり誉められた話ではない。変わったなら変わったで「なぜ変わったのか」をちゃんと説明したほうがいいだろう。

 もう一つ言えば、意見の一貫性の欠如が問題になるのは、以前に他者や他集団を攻撃するために用いた言葉である場合がほとんどだ。攻撃的であるからこそ、反撃を招き寄せる。

 その意味では、先に挙げた世論調査の例はなかなか良い教訓を教えてくれているのではないかと思う。ソ連という仮想敵のことだけを考えるのではなく、自分たち自身(この例で言えば米国のジャーナリスト)が仮想敵と同じ状況に置かれたらどうなるか、あるいは逆に仮想敵が自分たちと同じことを言い出したらどうなるのかを考えることで、ダブルスタンダードやブーメランを避けやすくなる。

 公平であることが常に正しいわけではないが、公平性から逸脱するのであれば、少なくともそのための理論武装をしておく(自分たちの主張や権利がなぜ仮想敵には認められないのか)ことが必要だろう。そうでないと、他者を攻撃するための刃はたちまち自分自身の身を切り裂くことになる。

(参照)J. Zaller(1992) The Nature and Origins of Mass Opinion, Cambridge University Press.