擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

根拠なき自信も悪くない

 根拠のない自信を持っているひとはバカにされやすい。

 典型的なのは、いわゆる「意識高い系」だ。仕事ができないくせになぜか根拠のない自信だけはあり、周囲に多大な迷惑をかけまくる、というのが典型的な意識高い系のイメージではないかと思う。普段は大口を叩いている人物が、いざとなったら醜態を晒すというのは、ドラマやアニメのお約束の展開と言ってもいい。

 しかし、である。ぼくは(程度にもよるが)根拠のない自信はわりと大切ではないかと思っている。以下でその理由について述べていきたい。

 時に、スポーツは生まれ持った才能がほぼ全てだと言われることがある。たとえば、以前、元陸上競技選手の為末大さんが次のようなツイートをして話題を呼んだことがある。

 ここで「アスリート」という言葉を、陸上のような個人競技に限定すれば、たしかに為末さんの言うことは正しいかもしれない。だが、この言葉を広く捉えてスポーツ選手全般というところにまで拡げるなら、この主張はかならずしも正しくない。

 たとえば、こんなデータがある。プロ野球セリーグの選手を誕生日の月によって分類したものだ。昨年、各球団のホームページで紹介されている選手のデータをもとに作成した。

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 日本では春から初夏にかけて生まれた子どものほうが(特に集団競技の)スポーツ選手になりやすいという話はネットではよく知られている。網羅的なサイトとしてはこれがある。実はデータが少し古くなっているので自分でも調べてみようと思って作ったのが上のグラフなのだが、セリーグの選手を調べたところで力尽きてしまった。

 ともあれ、月ごとに生まれる子どもの数はほとんど変わらないので、将来的にスポーツ選手になるには年度の最初のほうに生まれたほうが有利だということは言ってよいだろう。実際、学校の新学年が秋から始まるイギリスでは、10月から12月にかけて生まれた子どものほうがスポーツは得意になる傾向があるという報道もある。「年度」がいつ始まるのかが社会的に決定される以上、スポーツ選手になれるかどうかには、遺伝的な才能だけではなく社会的要因も大きな影響を及ぼしているのだ。

 それでは、なぜ年度の最初のほうに生まれたほうが有利なのだろうか。一般的な説明としては、月齢の違いが体格に大きな影響を及ぼす幼年期の体験が挙げられることが多い。選手として選抜されるなどして場数を踏み、運動能力を向上させていくということだ。

 だがぼくは、そこでの「自信」の獲得が大きな役割を果たしているのではないかと思う。最初は体格差によって生まれた違いが、やがて自信の有無という違いへとつながっていく。スポーツに自信があるから好きになる、好きだからもっと頑張る、だからもっとうまくなるという好循環だ。

 逆に、最初の段階で自信が持てなければ、これは簡単に悪循環になる。スポーツに自信がないから嫌いになる、嫌いだから頑張らない、だからいつまでたってもうまくならない。たとえ嫌いでなかったとしても、自信がないために他人に迷惑をかける(or嘲笑される)のを恐れて競技に参加したがらないという心理が働く可能性もありうる。

 個人的な体験で言えば「格好の悪い姿を人に見られたくない」と思えば思うほど、体はガチガチになり、人前で格好の悪い姿を晒すことになってしまう。

 先にリンクを貼ったサイトでは、個人競技では誕生日の影響が大きく出ないというデータがあるが、これも「たとえ自信がなくても、他人に迷惑をかけない個人競技であれば、気軽に打ち込める」ことの反映ではないだろうか。

 これは確かに「ズルい子ども」の話なのだが、少し見方を変えれば、この子にしても下級生相手に自信をもってできるドッジボールは楽しいのである。こう考えると、根拠があろうとなかろうと自信の有無というのはその後の人生を大きく左右することになるのではないだろうか。

 誕生日という要因はスポーツに限らず、学力にも影響を及ぼすと言われる。少し古い調査だが、誕生日の違いが大学進学にまで影響を及ぼすと主張している研究もある。これにしても、「自分はできる」と思えるかどうかが能力の違いをもたらしている事例の一つと言えるかもしれない。「自分は勉強ができない」という自己認識は学習意欲にも大きな負の影響を及ぼすはずである。

 彰は高校2年の終わりに県立J高校を退学した。午前中の1、2時間目にあった家庭科の出席時数が不足となり、3年に進級できなかったからだ。(中略)

 小学校の頃はまだ普通だったが、中学ではほとんど勉強したことがなかった。中学1年の頃は200人中100番ぐらいだったが、2年になると150番になって、3年になると190番に落ちていた。がっかりというか、「もうどうでもいいや」っていう感じになっていった。

 「がんばろうというよりあきらめちゃうんですよね」

 自分はできない、と勉強はあきらめていた。とくに英語は全然わからなくて、be動詞もまったくわからなかった。数学も方程式がわからない。わからないから、面白くないし、さらに中2の途中から学校には遅刻するようになった。(中略)

 (高校の)入学式の時の校歌は、ブラスバンドの演奏ではなくテープが流れていた。卒業した中学ですらブラスバンドだったのに。そのとき、「ああ、おれはこういう学校に入ったんだ」とがっかりした。

(出典)青砥恭(2009)『ドキュメント 高校中退』ちくま新書、pp.83-84。

 もっと言えば、そうした自信の有無は大学進学後の学習態度にも大きな影響を及ぼしているのではないかとも思う。偏差値によって輪切りにされている現在の大学教育では、(偏差値的な観点から見て)中堅以下の大学に通う学生には自分に自信を持てなくなっているケースがかなりあるのではないだろうか。

 「自分は勉強ができない」「だから大学の勉強などしても無駄である」という連想がそこで生まれているのであれば、それは大学やそれ以降の人生での学びにとって大きなマイナスとなるはずだ。

 もちろん、大学入学時の学力の差がある以上、入学後のスタート地点に違いがあることは否定できない。しかし、高偏差値の大学に入っただけでだらだらと4年間を過ごした学生と、大学の偏差値は低くとも入学後にしっかり勉強し、優秀な成績を収めた学生とを比べれば、卒業時の学力は確実に後者の方が上である。

 話を戻せば、確かに実力もないのに大口ばかりを叩いていたり、他人を見下していたりするのは問題だろうし、「意識高い系」の人が批判されやすいのもそういう態度が原因なのだろうと思う。

 それでも、根拠のない自信はないよりもあったほうがいい。それはたぶん「今の自分はダメだが、少なくとも今よりはマシになることができる」と思えるための土台になる。