『秒速5センチメートル』と『君の名は。』を隔てるもの(改訂)
以下のエントリは、『秒速5センチメートル』、『国境の南、太陽の西』。『君の名は』のネタバレを含みます。
『君の名は。』エントリふたたび
2016年の終わりに、「『秒速5センチメートル』と『君の名は。』を隔てるもの」というタイトルのエントリを書いた。
『君の名は。』が地上波で放送されたことから、久々に読み直してみたのだが、勢いで書いたこともあって、ひどくわかりづらい内容だった。そこで当時の記憶を掘り起こしながら、書き直してみたのが以下の文章である。
『秒速5センチメートル』と『国境の南、太陽の西』
『秒速5センチメートル』とは、『君の名は。』と同じく新海誠監督によるアニメ映画だ。子どもの頃の初恋をずっと忘れることができない男性の遍歴を描いた作品である。
小学校時代、お互いに強く惹かれ合った主人公とその初恋相手は、親の仕事の都合で遠く引き離されてしまう。主人公は高校時代を種子島で過ごすことになり、初恋相手とも疎遠になっていく。だが、主人公はそれでも初恋相手を心のどこかで忘れることができない。そのため、どう見ても自分に想いを寄せている同級生も華麗にスルーしてしまう。さらに、成人して別の女性と付き合うようになってからも、その女性を本当の意味で愛することができない。
そして、物語の終盤、大人になった主人公は、初恋相手と運命的な再会をする。だが、初恋相手にとって主人公との関係はもはや遠い昔の記憶でしかない。二人の関係は再構築されることなく、終劇となる。
この『秒速…』と共通するモチーフの作品として時に挙げられるのが、村上春樹の小説『国境の南、太陽の西』だ。新海監督は村上春樹の小説から強い影響を受けているらしいので、ストーリー展開に共通点があっても不思議ではないだろう(なお、この小説にかんする以下の解釈は、鈴木智之『顔の剥奪』(青弓社、2016)に依拠するものである)。
『国境の南…』の主人公は、ジャズバーを営み、成功した人物である。会社社長の娘である妻と、二人の子どもがいる。南青山に4LDKのマンションを、箱根に別荘をそれぞれ所有し、愛車はBMWである。現在において、これほど共感しづらい主人公を探すのはちょっと難しいのではないだろうか。
しかし、この主人公には、自分の成功した人生はどこか「自分の手で選び取ったものではない」という感覚がある。たとえば、ジャズバーの成功は義父からの支援によるところが大きく、もし妻と出会っていなければ、自分はいまも普通の会社勤めをしているのではないかという思いを抱えている。自分の人生は偶然によって形づくられたものにすぎず、己の意思すらも思い通りにはならないという感覚があるのだ。
だが、ふわふわとした人生を歩んでいる主人公にとっても、一つだけ確実だと言えるものがある。幼いころに出会った「島本さん」との関係である。主人公にとって島本さんとの関係は、運命と言ってよいものであった。その出会いは、主人公の人生にとって、依って立つことのできる確固たる何かを与えてくれるはずだったのだ。
若き日の主人公は、その幼さゆえに島本さんとの関係を途切れさせてしまう。現在の主人公は、島本さんへの想いを引きずりながら、なんとなく成功してしまっているのである。このあたり、『秒速…』を思い出させる設定だと言えるだろう。
ただし、『国境の南…』の主人公は、島本さんと再会したのち、体の関係まで結んでしまう。もっとも、その関係は一回きりで終わり、島本さんは姿を消してしまう。そして主人公は(都合の良いことに)妻子のもとへと帰るのである。ここで、先に挙げた『顔の剥奪』の一部を引用しておこう。
(『国境の南…』において:引用者)語られるラブストーリーは、「運命の恋(赤い糸)」とでも呼べるような定型を反復している。にもかかわらずそれが物語(フィクション)としての吸引力をもちうるのは、その背景に徹底的に偶発的な世界が置かれているからである。そこでは、感情も欲望も、善も悪も、すべてが条件次第で変容してしまう。その世界にあって、現実の「はかなさ」におびえる者たちにとっては、どのような境遇にあっても、どれだけ離ればなれになっても、変わらず求め合い続ける関係そのものがユートピアであり、したがって物語の機動力でもある。
(出典)鈴木智之(2016)『顔の剥奪 文学から<他者のあやうさ>を読む』青弓社、pp.93-94。
つまり、『秒速…』や『国境の南…』は、どうがんばっても変わっていってしまう偶発的な世界のなかで、自分の初恋相手との関係のなかに「確実なもの」「変化しないもの」の存在を願う主人公の姿を描いた作品だと言うことができる。
とはいえ、いずれの主人公にも、移りゆく世界のありように積極的に抵抗しようとする姿勢は見られない。『国境の南…』の主人公は、自らの家庭へと戻っていく。『秒速…』の主人公も、ラストシーンで初恋相手との関係をやり直せないことを悟り、わずかに微笑みを見せるだけである。それは言わば、偶発的で常に変化していく世界で生きていかざるをえないことを甘受する態度のあらわれと言ってよい。
『君の名は。』における運命と人の意思
『君の名は。』は大ヒットした作品であるし、さっき地上波で放送されたばかりなので、内容を知っている人も多いだろう。要するに、隕石の落下という悲劇的運命を、時間を遡って回避しようとする高校生たちの話である。悲劇的な運命を時間のやり直しによって回避しようとするモチーフは、いわゆる「ループもの」作品の典型だと言ってよい。
『秒速…』や『国境の南…』を『君の名は。』と比較した場合、まず気づくのは、「運命」のありようが大きく異なっている点だ。先にも見たように『秒速…』や『国境の南…』における運命は、偶発的で移ろいやすい世界に確実なもの、変化しないものを与えてくれる存在にほかならない。それに対して、『君の名は。』の悲劇的運命は、絶対に回避しなくてはならない性質のものである。
ただし、『君の名は。』では、そうした悲劇的運命の回避もまた、別の種類の運命によって促されている趣きがある。主人公である瀧と三葉との体が入れ替わり、それが悲劇の回避にとって決定的な意味をもつのも、悠久の時を越えて伝えられてきた運命なのである。言わば、隕石の落下という悲劇的運命と、それを回避しようとする運命とが競い合っている状態にある。そして、この二つの運命の勝敗を分かつのは、瀧と三葉の強い意思なのである。
実際、「ループもの」の多くは、主人公たちの強い意思の力で、悲劇的運命が退けられるところに見せ場がある(典型的な例が、『Steins; Gate』や『Re: ゼロから始める異世界生活』である)。『君の名は。』でも、ヒロインの三葉が傷だらけになりながらも疾走するシーンに、悲劇的運命に抗おうとする強い意思を感じることができる。このあたり、『秒速…』や『国境の南…』の主人公に見られる諦観とはかなりの隔たりがある。
そして、『君の名は。』のラストシーンでは、まさに好ましい運命と、人の強い意思との協同作業をみることができる。時間の壁によって切り離され、お互いの記憶を失ってしまった瀧と三葉は、ようやく巡り合う。偶発性とはかなさが支配する『秒速…』や『国境の南…』の世界であれば、もはや運命や人の意思が介在する余地はないはずだ。どちらか一方(あるいは両方)が空虚さを抱えたまま、二人は交差しない人生を歩んでいくことになる。
だが、『君の名は。』において、二人の再会という好ましい運命は、瀧の強い意思から発せられた言葉の力を借りて、二人を再び結びつける。
ここから浮かび上がるのは、『秒速…』や『国境の南…』ほどには偶発性や移ろいやすさの支配力は強くはないものの、上「ループもの」の作品ほどには人の意思も強固ではないという世界観である*1。
たしかに、瀧と三葉がお互いを想い合う気持ちは強い。だがそれでも、時間の壁を隔てることで、二人は結局のところお互いのことをほぼ完全に忘れてしまう。しかし、運命はなお二人を再び接近させ、そのことが「君の名は」という問いかけを瀧の口から投げかけさせる。言わば、移ろいやすさという世界の摂理を、運命と人の意思とが協働することで打ち破っているのだ。
運命からはじき出される者
…と、ここで終わっておけば、単なる良い話?なのだが、物事には裏面がある。『国境の南…』には、主人公の元彼女であるイズミという人物が登場する。主人公は高校時代、イズミと付き合っていたのだが、本気で好きになることができないという感覚も抱えていた。島本さんのことが忘れられないのだ。結局、主人公はイズミの従姉と発作的に肉体関係を持ってしまい、イズミとの関係は破綻する。
そして、物語の終盤、主人公はイズミと再会する。イズミは若き日の魅力を失った、表情のない女性になっていた。かつての主人公の行動に深く傷つき、今もそれを許していないイズミは、明らかに不幸になっていることが示唆される。言わば、島本さんという運命の女性をいつまでも引きずっていることで、主人公は意図することなく一人の女性の人生を決定的に損なってしまったのだ。
同様の展開は『秒速…』においても繰り返される。主人公に想いを寄せながらも華麗にスルーされる女子校生、そして実際に交際していても主人公からの愛を感じ取ることのできない女性。彼女たちは『秒速…』におけるイズミである。
運命による結びつきは、偶発性を許さないがゆえに運命から外れた人間を疎外する。たとえ女性の側に何らの落ち度がなくとも、運命の相手ではないという理由だけで、本当の意味では愛してもらえないのだ。以下は、『国境の南…』の主人公が、高校時代にイズミと初めてキスをした後の描写である。
女の子がキスをさせてくれるなんて、ほとんど信じられないことだった。嬉しくないわけがない。それでも、僕は手放しの幸福感というものを抱くことができなかった。僕は土台を失ってしまった塔に似ていた。高いところから遠くを見渡そうとすればするほど、僕の心は大きくぐらぐらと揺れ始めた。…もし仮に僕が抱いて口づけをした相手が島本さんだったなら、今ごろこんな風に迷ったりはしていないだろうなとふと思った。
(出典)村上春樹(1995)『国境の南、太陽の西』講談社文庫、p.33。
対して、『君の名は。』ではそうした運命から外れた存在は最初から描かれない。主人公たちがお互いの存在を忘れていた数年間、誰かと付き合っていたという事実は語られない。もしかすると、瀧のバイト先の先輩がそうなりえたのかもしれないが、そうはならなかったようだ。
したがって、『君の名は。』においてイズミは存在しない。だからこそ、われわれは運命がもつ残酷さに直面することなく、爽やかな気持ちで終劇を迎えることができるのである。