擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

『秒速5センチメートル』と『君の名は。』を隔てるもの

12月末なのに『君の名は。』は満席だった

 ぼくの同僚である鈴木智之先生からご恵投いただいた『顔の剥奪』(青弓社、2016年)という著作を読んでいたら、急に映画『君の名は。』をもう一度見たくなった。9月に一度見ただけなので、このエントリを書くにあたって記憶を確認しておこうと思ったのだ。

 ところが、公開から4ヶ月が経ったにもかかわらず、満席で見ることができなかった。恐るべし、『君の名は。』人気。というわけで、同作に関する部分は、曖昧な記憶に頼って書かざるをえないということを最初に記しておく。

 また、以下のエントリでは、『君の名は。』は言うまでもなく、同じ新海誠監督作品である『秒速5センチメートル』、TVアニメおよび劇場版『Steins; Gate』、そして村上春樹の小説『国境の南、太陽の西』に関するネタバレが満載なことにも注意されたい。

偶発性を甘んじて受け入れること

 よく知られているように、『君の名は。』の新海誠監督には『秒速5センチメートル』という作品がある。子どもの頃の初恋の相手をずっと忘れることができない男性の遍歴を描いた作品だ。

 種子島での高校時代には、誰がどう見ても自分に好意を寄せている女子校生を華麗にスルーし、高校時代には甘美な思い出など何一つとしてなかったぼくの心を荒ませる。そして、物語の終盤、主人公は大人になった初恋の相手と運命的な遭遇をする。だが、女性にとって主人公との関係はもはや「遠い昔の記憶」でしかない。二人の関係の再構築は果たされることなく終劇となる。 

 この『秒速5センチメートル』と共通するモチーフの作品として時に挙げられるのが、村上春樹の小説『国境の南、太陽の西』である。新海監督は村上春樹の小説から強い影響を受けているらしいので、ストーリー展開に共通点があってもおかしくはないだろう(なお、以下の『国境の南…』に関する解釈は、前掲の鈴木智之『顔の剥奪』に依拠している。ぼくには文学作品をこんなにも深く解釈することはできない)。

 『国境の南…』の主人公は、成功したジャズバーの経営者であり、会社社長の娘である妻と二人の子どもがいる。南青山に4LDKのマンションを、箱根に別荘を所有しており、BMWを乗り回す。2016年現在から見て、これほど共感しづらい主人公を探すのはちょっと難しいほどの設定ではある。ここだけを見れば、思い出すのは『秒速5センチメートル』ではなく、「秒速で1億を稼ぐ男」かもしれない。

 しかし、この主人公にとって、成功した自分の人生にはどこか「自分の手で選び取ったものではない」という感覚がある。たとえば、金銭面での成功は義父の力によるところが大きく、もし妻と偶然に出会わなければ、自分はいまも普通の会社勤めをしているのではないかという思いがある。自分の人生は基本的に偶発性によって形作られたふわふわとしたものであり、自分の意思すらも自分で決めることができない。

 ところが、そんな主人公にとっても一つだけ確実なものがある。それが、幼いころに出会い、そして別れてしまった「島本さん」との関係である。島本さんとの関係は主人公の人生に確実さを与えるはずの「運命」と言ってよいほどのものだった。ところが、主人公はかつて、幼さゆえに島本さんとの関係を途切れさせてしまった。以来、主人公は確固たるものを手に入れられることもなく、島本さんに対する想いを引きずりながら、なんとなく成功してしまっている。このあたり、『秒速5センチメートル』を思い出させる設定だと言えるだろう。

 ただし、『国境の南…』では、主人公は初恋の相手である島本さんと再会し、体の関係まで結んでしまう。とはいえ、その関係はただの一回きりで終わり、島本さんは姿を消してしまう。そして主人公は(都合の良いことに)妻子の元に帰るのである。ここで、先の『顔の剥奪』の一節を引用しておきたい。

(『国境の南…』において:引用者)語られるラブストーリーは、「運命の恋(赤い糸)」とでも呼べるような定型を反復している。にもかかわらずそれが物語(フィクション)としての吸引力をもちうるのは、その背景に徹底的に偶発的な世界が置かれているからである。そこでは、感情も欲望も、善も悪も、すべてが条件次第で変容してしまう。その世界にあって、現実の「はかなさ」におびえる者たちにとっては、どのような境遇にあっても、どれだけ離ればなれになっても、変わらず求め合い続ける関係そのものがユートピアであり、したがって物語の機動力でもある。
(出典)鈴木智之(2016)『顔の剥奪 文学から<他者のあやうさ>を読む』青弓社、pp.93-94。

 結局のところ、『国境の南…』と『秒速…』のいずれにおいても、主人公は現実のはかなさを受け入れざるをえず、運命と思えたものを手に入れることはできない。ユートピアはしょせん、「どこにもない場所」でしかないのだ。

 そして、これらの作品の主人公たちからは、偶発性の支配に対して抗おうという意思はほとんど感じられない。むしろ、『国境の南…』で主人公が家庭に戻るのは、あるいは『秒速…』のラストシーンで主人公がわずかに微笑むのは、偶発性に満ちた世界で生きていかざるをえないことの甘受と言ってよいだろう。あえて、これらの作品の構図を図示するなら以下のようになる。

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「ループもの」における人間の意思の貫徹

 ところで、近頃のアニメやライトノベルの流行の一つに「ループもの」と呼ばれるジャンルがある。主人公が同じ時間を何度も繰り返すという設定であり、ループの原因となるのはタイムマシンであったり、魔女の呪いであったり、「夏休みを終わらせたくない」というヒロインの潜在的願望であったりする。

 ここでは、この「ループもの」の一つとして、アドベンチャーゲームおよびTVアニメ作品である『Steins; Gate』を取り上げる。この作品の主人公は一介の大学生であるが、ヒロインの協力を得ながら造り上げたタイムマシンによって、悲劇的な運命を回避するべく、幾度となく同じ時間を繰り返すことになる。

 この作品を先の『国境の南…』と比較した場合、まず運命の位置づけが大きく異なっていることが理解される。『国境の南…』において運命とは、偶発性に満ちた世界のなかで唯一、確かなものを与えてくれる存在である。それに対し、『Steins; Gate』では運命(世界線)とは無慈悲に人の死をもたらすものであり、いかにして主人公たちがそれに抗うかが重要なモチーフとなっている。これは他の多くの「ループもの」に共通する特徴と言える。

 つまり、『Steins; Gate』において、運命と対抗関係にあるのは人の意思であり想いなのである。『国境の南…』や『秒速…』ではあてにならないもの、どうしようもなく移り変わってしまうものとして位置づけられる人の意思こそが、あらかじめ定められたものを打ち破っていく様子が描き出されているのである。この構図を図にすると以下のようになる。

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 実際、『Steins; Gate』でもっとも感動的なのは、主人公である岡部倫太郎が中二病という仮構の力を借りて途轍もない意思の力を見せるシーンである。あらかじめ定められた運命をも打ち破り、人間の意思を貫徹させたいという願望こそが「ループもの」の根底には流れていると言っていい。

 他方で、『Steins; Gate』において偶発性が果たす役割はそれほど大きくないように思う。あえて言えば、劇場版『Steins; Gate』で岡部倫太郎が世界から消失したあと、他の登場人物の人間関係が解体しそうになるシーンがそれに該当する。岡部がいなくなるという運命を登場人物に甘受するように促す力としての偶発性である。だが、人間関係の脆さを生み出すこのような偶発性もまた、仲間であることを維持したいという意思の力で克服されることになる。

運命と人の意思との協働

 ここでようやく、『君の名は。』の話である。時間を遡りつつ、隕石の落下による悲劇を回避しようとするシーンが、この作品のクライマックスである。こう書くと、悪しき運命と人の意思との対決を描く「ループもの」の典型に思えるかもしれない。たとえば、村人の命を救うべく、傷だらけになっても疾走するヒロイン三葉の姿に、強い意思を感じないわけにはいかない。

 もっとも、『君の名は。』ではそうした悲劇的運命の回避もまた、ある種の運命によって促されているかのような印象を受ける。主人公である瀧と三葉の体が入れ替わり、それが悲劇の回避にとって決定的な意味を持つのも、悠久の時を越えて伝えられてきた運命なのである。言わば、隕石の落下という悲劇的運命と、それを回避する運命とが競い合っている。そして、この二つの運命の勝敗を分けるのは、瀧と三葉の強い意思なのである。

 実際、ラストシーンにおいても、好ましい運命と人の意思とのそうした協働作業を見ることができる。時間の壁によって切り離され、お互いの記憶を失ってしまった瀧と三葉は、ようやく巡り合う。偶発性が支配する『秒速…』の世界であれば、そこにはもはや運命や人の意思が介在する余地はないはずだ。どちらか一方(あるいは両方)が満たさない空虚さをうちに抱えつつ、二人は交差しない人生を歩むことになる。だが、『君の名は。』において二人の再会という好ましい運命は、瀧の意思から発生された言葉の力を借りて関係の再構築をもたらす(のだと思う、たぶん)。これを図示したものが以下である。

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 ここから浮かび上がるのは、『国境の南…』や『秒速…』ほどには偶発性の支配力は強くないが、『Steins; Gate』ほどには運命や人の意思も強固ではないという世界観である*1

 確かに、瀧と三葉がお互いを想い合う気持ちは強い。それでも時間の壁を隔てることによって、結局のところ二人はお互いのことをほぼ完全に忘れてしまう。だが、運命はそれでも二人を再接近させ、そのことが「君の名は」という問いを瀧の口から投げかけさせる。言わば、偶発性の支配を、運命と人の意思とが協働し合うことで打ち破っているのである。

運命からはじき出される者

 …と、ここで終わっておけば、単なる良い話?なのだが、物事には裏面がある。『国境の南…』には、イズミという主人公の元カノが登場する。主人公は高校時代、イズミと付き合っていたのだが、どこか本気で好きになることができないという感覚も抱えていた。やはり島本さんのことが忘れられないのだ。結局、主人公はイズミの従姉と発作的な肉体関係を持ってしまい、イズミとの関係は破綻する。

 そして、物語の終盤、主人公はイズミと再会する。そこでのイズミはかつての魅力を失った、表情のない女性になっていた。かつての主人公の行動に深く傷つき、今も主人公を許していない女性が、確実に不幸になっていることが示唆される。言わば、島本さんという運命の女性をいつまでも引きずっていることで、主人公は意図することなく一人の女性の人生を決定的に損なってしまったのだ。

 同様の展開は『秒速…』においても繰り返される。主人公に想いを寄せながらも華麗にスルーされる女子校生、そして実際に交際していても主人公からの愛を感じ取ることのできない女性。彼女たちは『秒速…』におけるイズミである。

 運命による結びつきは、偶発性を許さないがゆえに運命から外れた人間を疎外する。たとえ女性の側に何らの落ち度がなくとも、運命の相手ではないという理由だけで、本当の意味では愛してもらえないのだ。以下は、『国境の南…』の主人公が、高校時代にイズミと初めてキスをした後の描写である。

女の子がキスをさせてくれるなんて、ほとんど信じられないことだった。嬉しくないわけがない。それでも、僕は手放しの幸福感というものを抱くことができなかった。僕は土台を失ってしまった塔に似ていた。高いところから遠くを見渡そうとすればするほど、僕の心は大きくぐらぐらと揺れ始めた。…もし仮に僕が抱いて口づけをした相手が島本さんだったなら、今ごろこんな風に迷ったりはしていないだろうなとふと思った。
(出典)村上春樹(1995)『国境の南、太陽の西講談社文庫、p.33。

 対して、『君の名は。』ではそうした運命から外れた存在は最初から描かれない。(ぼくの記憶が正しければ)主人公たちがお互いの存在を忘れていた数年間、誰かと付き合っていたという事実は語られない。もしかすると、瀧のバイト先の先輩がそうなりえたのかもしれないが、そうはならなかったようだ。

 したがって、『君の名は。』においてイズミは存在しない。だからこそ、われわれは運命がもつ残酷さに直面することなく、爽やかな気持ちで観劇を終えることができるのである。

*1:『国境の南…』や『秒速…』とは異なり、過ぎてしまった過去はやり直せる、ただし『Steins; Gate』とは異なり、それはたった一度だけだという『君の名は。』の設定が、そのようにマイルドな世界観を可能にしたとも考えられる。過ぎ去った過去がやり直せないのであれば、現実のはかなさを受け入れるよりほかないのに対し、何度もやり直せるのであれば人の意思を貫徹させようとする物語的要請が強くなるからである