ネット上ではやたらと攻撃的なひとが少なくない。
とにかく他者や他集団に対して攻撃的な書き込みをする。それも一つの芸風だと言ってしまえばそこまでだが、そういうひとは防御力が弱くなることも多い。
というのも、誰かを攻撃するためには何らかの理由が必要だからだ。「こんなに酷いことをする(言う)なんて」という理由によってひとは他者や他集団を攻撃する。だが、攻撃をする回数が増えるほどにその理由づけも増えていく。結果、自分自身の行動がそれに当てはまってしまう可能性がどんどん上がっていくのだ。そうなれば、自分自身の言葉がブーメランになって返ってくることもそれだけ多くなってしまう。言論戦において「攻撃は最大の防御なり」は必ずしも妥当しない。
もっとも、言動の一貫性など最初から気にせず、他人からそれを指摘されたとしても無視すればよいだけなのかもしれない。しかし、そういう人は他人からも「そういう人」だと見なされるようになるだろうし、そうなればその人の言葉を真に受ける人もやがて減っていく…と思う。楽観的すぎるかもしれないが。
いずれにせよ、言葉を操ることを仕事の重要な一部とする職種、たとえば政治家や研究者、ジャーナリストなどの言動にはやはりそれなりの一貫性が求められるべきだろう。それらの職種に就く人びとの言動があまりに一貫性を欠く場合、社会全体の信頼が毀損してしまう。
しかしその一方で、発言の一貫性の欠如があまりにクローズアップされるのも結構しんどいよな、とも思う。というのも、人間というのはわりといい加減な存在で、発言に一貫性がないのは例外的というより、むしろ人間の基本的な特性ではないかと思うからだ。
人間のそうした特性が典型的に示されるのが世論調査だ。世論調査において質問の内容や順番を少し変えただけで、その結果が大きく変わることはよく知られている。たとえば、1970年代に米国で行われた調査では、第一のグループには「米国でソ連のジャーナリストは活動を許されるべきか」という質問が行われた。それにイエスと答えたのは37%に過ぎなかった。第二のグループにはまず「ソ連で米国のジャーナリストは活動を許されるべきか」という質問が行われ、それに対しては大部分の回答者がイエスと答えた。その次に「米国でソ連のジャーナリストは活動を許されるべきか」が問われると、73%がイエスと答えたのだという。
これは、第一のグループではソ連に対する不信感が強く反映される回答になったのに対し、第二のグループでは米国のジャーナリストに関する質問が先に行われたために、公平性の観点からソ連のジャーナリストの活動を許容すると回答する人が多かったものと解釈できる。これ以外でも、回答者がどのような状況に置かれるかによって質問に対する答えが大きく変化することが知られている。とりわけ意見の分かれやすい問題については、人びとの言動は一貫していないのが普通なのだ。
実際、学問の世界に長く名を残すような研究者ですら、長い研究キャリアのなかでは意見が変わっていくのが普通だ。そもそも、いかなる状況であれ意見が一貫しているというのは、見方を変えれば柔軟性に欠ける、思考が硬直しているということでもある。様々な思索や学びを経て意見が変わるというのは決しておかしなことでも、恥ずべきことでもない。
ただ、それでも周囲の人間が知らないうちに意見が変わるというのは、とりわけ言葉を操ることを生業とする人びとにとってはあまり誉められた話ではない。変わったなら変わったで「なぜ変わったのか」をちゃんと説明したほうがいいだろう。
もう一つ言えば、意見の一貫性の欠如が問題になるのは、以前に他者や他集団を攻撃するために用いた言葉である場合がほとんどだ。攻撃的であるからこそ、反撃を招き寄せる。
その意味では、先に挙げた世論調査の例はなかなか良い教訓を教えてくれているのではないかと思う。ソ連という仮想敵のことだけを考えるのではなく、自分たち自身(この例で言えば米国のジャーナリスト)が仮想敵と同じ状況に置かれたらどうなるか、あるいは逆に仮想敵が自分たちと同じことを言い出したらどうなるのかを考えることで、ダブルスタンダードやブーメランを避けやすくなる。
公平であることが常に正しいわけではないが、公平性から逸脱するのであれば、少なくともそのための理論武装をしておく(自分たちの主張や権利がなぜ仮想敵には認められないのか)ことが必要だろう。そうでないと、他者を攻撃するための刃はたちまち自分自身の身を切り裂くことになる。
(参照)J. Zaller(1992) The Nature and Origins of Mass Opinion, Cambridge University Press.